EXTRA『Halfway』

 ランク理論によると、うつ病にもメリットがあるらしい。

 うつ病が発症することで、個体はそれ以上の闘争ができなくなる。負けが重なることで被る損害を最小限に抑えることができる。すなわち、抑うつ状態とは周囲に「今この個体は戦える状態にない」と知らせるシグナルなのだ。


 透は、不登校だが抑うつ状態ではない。


 眠れもするし、食欲だってなくはない。学校に行く気力はないが、自宅にこもっているのはひたすらに心苦しいので──制服を着て、身なりを整えて、今日も近所までは行けたが駄目だったのだと、校門をくぐることはかなわなかったのだと、舌になじんだ言いわけを重ねて無為を貫く意思力ならある。

 母にやんわりと諭され、挙句口論になって、敗色が濃厚と見るや、耳を塞いで逃げ出して、暗がりを睨んでいるところ、見かねてやって来た未紗季に慰められる。当たり障りのない会話を交わして(もっともこの間、透はそれでも兄らしくあろうと慎重に言葉を選び足搔いている)、現実から目を背ける猶予を与えてもらって、彼女が部屋を出て行ったあと、反省すべき箇所しかない反省会に独りふけるのだ。


 これが敗者のシグナルだと言うのなら、自分は誰に負けたのだろう。


 学校には絶対行った方が良いと両親は言う。これに対して真っ向から異を唱えられるほど、透はもう幼くはない。行けるなら行った方が良いに決まっている。学校に行かなくても死にはしないが、所詮死にはしないだけだ。

 うつ病が発症することで、個体はそれ以上の闘争が不可能となる。要は──負けを認めていないのだ。抑うつ状態にある者は。闘争を続ける事態になりかねないから、心のどこかでと燻っているから、活動を嫌悪する状態に陥っているのだ。つまり──。


 抑うつ状態でない敗者には、もはや戦う気力など無いのだ。


 本能が察しているのだ。こいつから活力を奪ったところで利点がない。この存在には永劫隷属的立場が似合いであると。だから、中途半端にしか奪ってくれない。無為を貫き、おざなりなロジックで大人たちに盾突き、妹に甘える。そんな余力だけは残してくれるのだ。

 後ろに気配。

 透は本を閉じた。一見不可解に思える生き物たちの行動原理を進化生物学から解き明かす──という内容だった。

「借りないの?」

 未紗季が自分の手許にある本を覗き込んでから、上目遣いにこちらを見た。

 透は小さくかぶりを振る。借りないよとだけ言って、背表紙の番号から適切な返却位置を探した末、結局目についた本と本の隙間にそれを押し込んだ。

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