EXTRA『In Paradisum』

 小学生の頃、図工の授業で雑巾の絵を描いた。

 青いバケツの縁に掛けられた、埃と土と幽かな牛乳のにおいが鼻をつく雑巾。

 確か、学校にあるものだったら何をモデルにしてもいいとそういう内容だったように思う。

 

 自分がここで描いてやらねば、こいつは明日にでも捨てられてしまうかもしれない。


 幼心に救済措置のつもりだった。

 絵を描くことは好きだった。六年生と合同で「未来の街」をテーマに絵を描いたとき、自分より三つか四つ年の離れた人の絵を横目に「ああ、これは気を遣ってわざと下手に描いているのだな」とそう思える程度には上手だった。母が芸大卒で、思えば妹も絵は巧かったし、元よりそうした家系だったのだろう。

 図工の先生には、水原みずはらくんはあまのじゃくねと苦笑された。あまのじゃくの意味はわからなかったが、あまり良い意味ではないのだろうなという感触があった。


 結局、人目引きたさにあえてそういうものを描いたお調子者というていで通した。


 その方がすんなり受け入れられると思ったし、事実そうなった。

                ※

 妹と二人、駅から直結のショッピングモールに来ている。

 高校生にもなれば未紗季みさきと一緒に出かけることはなくなるだろうと踏んでいたが、いざ声を掛けられると断りにくいし、事実断る理由もなかった。

 未紗季は恐ろしいほどに気が利く。

 妹と共に親戚が一堂に会する場面に放り込まれると、とおるはそれを否が応でも思い知らされる。そんなアンテナの鋭い妹が、男には大分肩身の狭いだろう女の子女の子した店ばかりに足を運ぶのは一体どういう心境なのか。


 まさかあの未紗季が、兄を困らせて愉しむような性質であるとも考えにくい。


 思い返せば、母もまた自分の感性とは到底かけ離れているだろうアパレルショップに吸い込まれる類の人だった。だから、これもまた家系であると諦めるほかないのだろう。

「友だちとこういうところ回らないのか?」

「案外ないよ」

 案外を前置きした意図がよくわからない。

 ただ──こういうお店は同性と回った方が愉しいんじゃないかとか、もっと他に良い言い回しがあったのではないかと、そういうどうでもいいことを後悔した。

                ※

 アーケードを歩いて、左手の路地に佇む喫茶店に入る。

 明らかに中高生二人では浮く内装だった。

 ランプの灯りは小さく、壁の至るところに大きさが不揃いの油彩が額にはまって掛けられている。劇団が低予算で組んだ喫茶店のセットみたいだった。これで流れているのがクラシックであればいよいよ作りものめいていたのだけれど、耳朶を撫でているのはミサ曲だった。椅子は脚が揃わないのかガタガタと揺れたが、居心地の悪さを感じるほどではなかった。

「こういう店、誰が教えてくれるんだ?」

「友だち。遊びに行くってなるといつも頑張って探してくれるの」

 ──頑張って探してくれる。

 脳裏を過ぎる未紗季の友だち。本当に妹と同年代なのか疑わしい存在感の権化と見るからに運動部所属の真っ直ぐが一番の取柄ですと言わんばかりの眩しい。多分後者だな──と勝手に当たりをつける。

 メニューを見て、気持ち高めのコーヒーを頼んだ。これは透なりの奢るよというサイン。こうなると、決まって未紗季がオーダーするのは安過ぎず高過ぎずといった塩梅で──これは何も兄に甘えているのではなく、兄の胸中を察したうえで立たせているのだ。そうしたはからいがそつなくこなせる妹なのだ。

 ふと、柱時計を見た。


 ご丁寧にも時間が止まっていた。


 指している時刻に何か意味でもあるのかと思案して──嘘っぽ過ぎると流石に笑えた。

                ※

「最近、好きなものってある?」

「ニューヨーク」

 未紗季が目をぱちくりさせた。

 即答が意外だったのか、答えの中身に驚いたのか、はたまた両方か。そんな彼女の手許には気持ち高めのクリームソーダがある。嘘っぽい風景にこれまた嘘っぽいメロン色がしっくりくる。

「行きたいの?」

「そこまでじゃない。写真やドラマで見てたらいいなって思う程度だよ」

 あとは絵を描くことかな──と付け足して、片隅で思い当たる。

「小学生の頃、絵よく描いてただろ?」

「うん、ポケモンの絵よく描いてたね」

「あれは──喜ばれるとわかってたから。巧くなりたくて描いてたわけじゃないんだ。絵は好きっちゃ好きだけど、誰かと競おうとか昇りつめてやろうとか、そういう域にはたどり着けなかったというか、多分好きになる努力が足りないんだろうな」

 一口齧ってこれは良いかもと思えるものはたくさんあった。

 ただ、魅力が続かなかった。二口三口と運ぶにつれて咀嚼が面倒になって、そのうち喉を通らなくなった。いつまでも没頭させてはくれなかった。僅かでも可能性を見出したそれをもっともっと好きになろうと努めないから、満足に嫉妬もできやしない。これは向いていないと確信が持てるほどに磨き上げたものなんて何一つなかった。


 結局、一瞬を切り取りたくて描いたあの雑巾だって今じゃどこにあるのかわかりゃしない。


 棺には夢の残骸ではなく、夢にさえなり切れなかった残骸が収まっている。腐ってすらいない。赤と黄土と紺碧をあちこちに刷り込んだ、死んだ魚の口腔みたいな色をした黒い棺の中で。内側から蓋を引っ掻いてすらいない。

 笑える。夢にさえなり切れなかったというのであれば、そんな棺の中身など当に空っぽだ。そんなもの、もう自分が代わりに収まる以外ないではないか。夢を育むという過程で失敗したのだ。


 きっと、自分は生涯夢破れた者の苦痛さえわからない。


 レクイエムだね──と未紗季が呟いた。

「え?」

「今流れてる歌。フォーレの『レクイエム』。最終章のイン・パラディズム」

 未紗季の瞳は、停止した柱時計を映している。

「──詳しいな」

「全然。だって、これしか知らないもの。いい曲だなぁって思ったから調べてみたけど、それ以上深入りしようって気にはなれないし」

 未紗季が小さく溜息をつく。片手で頬杖をついて──空いた手は透の位置からは見づらいが、きっと腰から下げたシルバープレートのキーホルダーを弄っている。

 ──キーホルダーなんだからつけててよ。


「やっぱり、お兄ちゃんと私って兄妹だね」


 未紗季といて心地いいのは──彼女の前で演じている頼れる兄であろうとする自分が、辛うじて見るに値するからだ。百歩譲って見ていられるからだ。それだけだ。それだけのはずだ。

 ああ、せめて収まりがいいように。

 削ぎ落さなければ。いつの日かこの身を横たえる空白を確保しておかなければ。

 突き詰めようのない好きがまたひとつ、棺に葬るものが増えた。

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