カクヨムgoodレビュワーに選ばれて地味に嬉しかった話

 遅まきながらカクヨムgoodレビュワーに選ばれて地味に嬉しかったという話をします。

 当該レビューについては、下記リンクからどうぞ。レビューした作品へのリンクもそちらにあります。


 あなたの肩はブラックホールの入り口 『あなたの肩の向こう側』

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054896176243/episodes/16816452219572879633


 さて、“地味”とは如何程か──という話なのだけれど、カクヨムとTwitterのプロフィールに明記しちゃう程度には嬉しかったです。こういうある種の実績をアッピル(ブロントさんリスペクト)してしまう心境、明け透けに云えば全方位マウンティング、それっぽく云えば自身の発信する情報に説得力を持たせたいという一面があると思うのですが。


 周囲の反応を逐一チェックしているわけでもないのに、なぜ明記したのかを改めて考えてみたとき、建築史家である倉方俊輔くらかたしゅんすけ氏の語るいい街の条件を思い出しました。


 曰く、街のシンボル(話の中では礼拝堂モスクがそのシンボルを担っている)が街のどこにいても見える──自分がどこにいるかがわからなくなるふとした瞬間が全くない街というのは、常時監視されているようで居心地が悪いのだとか。

 とはいえ、シンボルの一切が取り払われてしまうと一体の都市の中にいるという感覚がないので。

 グリッドの中の何番目と位置づけられていない場所に身を置いている自分。そんな折、ふと見やればシンボルの頭が覗いている。


 自分が街のどこにいるかを認識できない「ピン留めされていない感」とあのシンボルを中心に広がる街中に自分はいるのだという「帰属感」の両方が備わっている街は、多分いい街だそうで。


 シンボルの見えたり見えなかったりする塩梅がいい街は、居心地が良いらしい。

 今回の場合、シンボルというのがまさしく「カクヨムgoodレビュワー」という肩書きで。カクヨムという街に身を置く者として、どれほど慎ましい実績であっても示せるシンボルがあると安心感が違うのですよ。今、私は街のこの辺にいるのだなぁと実感できるので。

 そう考えると、物書きの大半が作家業を営みたいという志を抱いているのは成程解る話で。

 皆人生という街のどの辺りに身を置いているかがわからず心細いから、賞という名のシンボルを建立したいのだろうなぁと。前述した私の地味に嬉しかったという話も突き詰めれば今あなたはこの辺にいるよ、ここにいることを許すよと云われてほっとしたのだろうと思います。


 世の物書きは、今日も今日とて安堵感欲しさに何かしらをしたためている。


 知らんけど。

 ただ、シンボルばかりを見上げていると疲れてしまうので。私の立ち位置は今ココと自覚するばかりの日々は、息が詰まってしまうので。ときにはシンボルの見えない隘路あいろに飛び込むことも、癒しを得る上で欠かせないのでしょうて。


 話は打って変わって──ふいに頭を過ぎったので批評の話をします。


 創作者としての一面を持っている批評家(批評文を書く批評家も紛うことなき一人の創作者であるとは思うのだけれど)ならまだしも純然たる批評家というのは、その作品に居候する表現形式ゆえか、オリジナルを生み出す力のない「不能」として何かとヘイトを買いがちであるように思います。実際、批評家とは芸術家のなり損ないで、真のクリエイティビティを持った人を妬んでいる──みたいな偏見はわりかし一般的ではないかと。

 とはいえ、自分が好きなものは自分で決める、他人に教えてもらう必要はない! と十人中十人が主張する世界では、多分芸術って生き残れないので。 

 創作者の目指すところは、やはり「いかに残すか、いかに残るか」に尽きると思うので。


 書籍化のメリットとクリエイティブ職の目指すところ

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054896176243/episodes/16816452220124486027


 私は恥ずかしながらシェイクスピアのシの字も知らない浅学な輩なのだけれど、それでもシェイクスピアが優れた劇作家であることは知っていて、それはひとえに彼に対する批評が世間に行き渡ったことの結果に他ならないのではないかと。

 そんなわけで、(伝家の宝刀)文明生活を豊かにする上で批評は必要不可欠ゆえ、批評家の活動をどうか過小評価しないでほしい──などと思っている次第。


 ──ここまで書いて、私が自作語りをあまり好まない理由がわかった気がする。


 云うて、書くときは書きますけど。嬉々として。作品で語れよと内心セルフツッコミしながら。些か格好悪いとはわかっていても、ちょっとばかし気分良くなるとわかっていたらやっちゃいますって。

 脱線失礼。


 自作語りってどうにも自作の最終的な解釈者は自分でなければダメ──という考えの押しつけっぽいというか、読者の自作に対する批評を所詮“居候”だと見下しているみたいな、どうせあなたたちには読解できないでしょうよみたいな、そんな視点が根底になくはないかと懸念されるので。


 しかし、これまた書きながら思ったのは「自作の最終的な解釈者は自分でなければダメ」と胸張って云えるスタンス、格好いいっちゃあ格好いい気がするのですよね(笑)

 謎に主人公オーラ漂う主張と云うか。先に触れた「自分が好きなものは自分で決める、他人に教えてもらう必要はない!」もそれ単体で見れば、響きとしては格好いいのですよ。ただ、全人類その価値観だと芸術文化を存続させる上で都合悪くね? というだけの話で。

 そう考えると、「自作語りをあまり好まない理由」の方が何やら大人ぶった格好つけみたく思えてきたり。ちな他人の自作語りを読むのは嫌いじゃないです。書くのに抵抗があるだけで。

 今回はいつにも増して支離滅裂な感じ。

 こうしたあれこれを考えていると、別に学者や文芸評論家でもあるまいし不毛だなぁ──と思ってしまうことはままあるのだけれど。ニューマンの「教養はそれ自体が目的である」に甘えると云うか、そうしたあれこれにふけること自体何やら報いのある行いのように思われるので、まあ良しとする。

 ではまたそのうち。

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