チラシの裏

 小説の手直しやブログのリライトをしていると、カミュの『ペスト』を思い出す。

 件の作品にはグランなる小説家志望の役人が登場するのだけれど、彼は遅々として筆が進まないたちである。それも決まって形容詞で。ここは「美しい」だろうと選び抜いて、ぴったり当てはまると納得して、翌日見返すや「いや、やっぱ違うわ」と。


 もっとふさわしいそれがあるはずだと考え直すものだから、延々筆が進まないのである。


 かく云う私も似たような質で、完璧主義に陥らぬよう心得てはいるつもりなのだが、ことあるごとに過去の産物を見返しては贅肉を付け足している気がする。私は削ぎ落すことは潔いことで、付け足すことはどこか臆病──みたいな美意識の持ち主なので。一概にそうは云えないだろうと頭では解っていても、とどのつまり私は臆病であると自認した行為を然して良かれとも思わず施しているわけだからこれはもう奇異と云う他ない。


 そう、作品をより良いものにしたくて肉を足しているわけではないのだ。


 足さなければ何だか胸が悪いから書いている。その程度に尽きる。

 内からほじくり出して、物語という形を与え切り離したそれを「自作」と称するほど、実のところ自作に愛着をもったためしはないのだが、ただ──強いて云うなら自作のどこに欠陥があるのかは誰よりも解っていると自負しているので。


 だから、をわざわざ指摘してくれるなよ──という姿勢は、見方を工夫すればまさに愛着なのではないかと。


 切り離したそれらを弄らずそっとしておいてくれと乞うているわけだから。そう解釈できなくもないな──という気がしている。

 さて、見識が広がればもっと良いものが書けると信じ込もうとしていたのだけれど、昔書いたものを読み返す限りやはりそうでもなかったなと。ぱっと見「ウケそう」という印象では中学時代に書いた異世界ファンタジーが一番需要ありそうな気さえしている。

 人間唯一のモチベは前進している感覚なので。誰より優れているではなく、昨日の自分より今日の自分が優れているかどうかなので。こと語彙力に着目するとこればかりは前進を認めざるを得ないのだけれど、小説の場合はあくまで面白いものが書けるようになったというより、読みやすいものが書けるようになったというか、純然たる進歩というより派生のひとつに過ぎないといったような印象を受ける。


 ところで語彙を増やす目的から、私は小難しい云い回しを使いたがる節があるのだけれど、ここ最近これらを我が物顔で、さも知り尽くした言葉であるかのように使うのはいかがなものか──と思う瞬間がある。


 浅学から用法を誤りはしていないかという不安のあらわれではなく、"知っている"を装うのは何だか醜くないかということ。同意してくださる方がいるとちょっとだけ嬉しい。

 話題が泳ぐ。何だか絵柄の安定しない漫画家みたいな心境。


 書かなければ死んでしまうのだろうなぁ──という人はそれなりに見てきたが、思えば書かなければ消えてしまうものってあるよなぁと。


 いま脳内にいる架空の人物だって、どこかで私が"登場"人物にしないと私が死んだとき皆死ぬんだよなと考えたら、多少不細工でも形にしてあげないと何だか恨まれそうな気がしてきた。

 余談。"清掃員の画家"ガタロさんの描いた『生キルタメノ地我像』を見た。私も小説に限らず、食うためではなく生きるための文章が書きたいなと思った。これは生きるために書きましたと宣言できる文章。

 ではまた。

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