フレームの外に世界がはみ出ている。 『短篇集 昊の滴』
【作品情報】
『短篇集 昊の滴』 作者 濱口 佳和
https://kakuyomu.jp/works/1177354054892258201
【紹介文】
1話が1000字ほどの短編集です。
舞台は日常に似た架空の場や、非日常の地球と地球外の惑星です。
脈絡なく追加する予定。
形式が短編集である場合、ひとつの短編を取り上げてレビューを書かせてもらうことが多いのですが、何となく全短編に共通して云えることかもなぁ──と思えるポイントがあったので。そこについて言及させていただきたく。
ここまで、人物描写ってホント些細なことだよなぁ──と。痛感させてくれる作品も中々ないだろうと思いまして。
人物描写って読者が登場人物の外見をイメージする上で材料とするものじゃないですか? で、その材料が少ないと何が起きるかというと、読者は外見以外の情報から登場人物のパーソナリティを読み取る他なくなる(もちろん、無為に材料を減らせばいいというわけではなくて、そこには歴とした技巧が必要になるのだけれど)。だから、読者の数だけ違った人の姿がある。そういうある種能動的な読書を促してくれる作品って良いよねみたいなことを私過去のレビューで書かせてもらったのだけれど。
件の短編集──作品によっては性差さえあやふやなのですよ。
「えっ、この人は男性なの? 女性なの?」みたいな。でも、その曖昧さにまるで引っ掛かりを覚えないのですよ。良い意味で「どっちでもいいな」って。このままを受け容れたいなって。
作品のあり方によっては、人物描写ってこうも些細なことなんだなぁ──と。
一応補足しておきますと、私は谷崎潤一郎や吉屋信子に見る精緻な人物描写もまた好んで評価できるタイプの人間です。「材料は少なければ少ないほど良い!」と頑なに譲らぬタイプの読み手ではありません。
というか、「人物描写の情報量問題」って云い換えたら「寿司と焼き肉どっちが好き問題」と似たようなものじゃないです?
どこまでも好みの問題で比較のしようなくないです? そういうことですよ。
脱線失礼。件の作品を読んでいて荒木経惟という写真家を思い出しまして。デビュー作である『さっちん』(新潮社、一九九四年)の「あとがきにかえて」の中で、荒木は「写真を枠に入れちゃいけないってことなんだよ、実は」と語っています。「フレーミングしっかり入れちゃうと、棺桶だからね、入れちゃだめだって。構図が安定してなくて、はみ出てるとかさ、そういうのがいいんですよ」。
ああ、成程。曖昧さに引っ掛かりを覚えない理由はこれかもしれないなぁと。書かれていないところに世界があるとわかってしまうから、このままを受け容れたいと思わせてくれるのかもしれないなぁと。
だから、フレームの外に世界がはみ出ている。
文字情報で記されていない世界に想像を巡らせるって、読み手にとって中々刺激的な時間だと思うのですが、いかがか。
※人物描写については下記リンク先でも触れておりますゆえ、よろしければ。
書かないという表現 『姉は貞淑な人でした』
https://kakuyomu.jp/works/1177354054896176243/episodes/1177354054896872910
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