才能 【創造力の副作用】
創造性の高い人ほど情報の取捨選択ができないらしい。こう云うと何だか悪いことのように聞こえるけれど、一概にそうとも云えず。選り分けができないからこそ、頭の中に雑多な情報がストックされて、普通の人ならまず関連性を思いつきもしないピース同士を繋ぎ合わせて、独創的なアイデアを生み出すことができる。
一方で情報の取捨選択ができないということは──誹謗中傷、事実無根の悪口や陰口だとか、そういうストックしておいたところで何の得にもならない情報まで、頭から捨て切れないということでして。ときには、関連性の希薄な情報同士を組み合わせて、わざわざ自分の首を絞めるような解を導き出してしまうことさえある。
その気になれば、私たちはどこからでも自分が傷つく理由を見つけることができる。
だから、この創造性とやらを物書きに必要な才として捉えるのであれば、あなた自身を追い詰める胸中にひしめくあれこれさえも、持って生まれた才として、才を持って生まれた一つの"証"として解釈してゆくほかないのかなーと勝手ながら思いはじめた。
とはいえ、私昨日小説を久々に書いて改めて思ったのだけれど、才能を創造性の高さと解釈した場合、そもそも小説書くのに才能要るかなーって。
自分がその分野に馴染みがないから余計にそう思うのかもしれないけど、たとえば芸術家とか、作詞・作曲家とか、お笑い芸人や俳優とか、ああいう職業はもう確実に才能要るじゃない(もちろん、ここで挙げたクリエイティブ職の類が才能のみで活躍していると云いたいわけではない)?
ただ、物書きに関しては──そもそもコレ才能要る? 単なる技術の集合じゃね? みたいな感じがここ最近してきて。実際、今大成している物書きのうち全員が全員、類稀なる創造性を有しているかーとなったら多分そんなことはないだろうしなぁと。もちろん題材選びとか、単純な言葉選びに感性が表れる部分はあるだろうけど、この年になって──物書きって云うほど持って生まれたものが影響してこないというか。
ただの努力の塊じゃね? 日々の積み重ねじゃね? という気がしてきた。
あとは緻密な計算も含む。まあ、文字でしか表現できないという縛りがある時点でね?
──そう、昨日小説書いたのですよ。でね、偶には小説も書かないとダメだなーって思った。というのも、同じ「書く」でもエッセイ書いているときとは違う脳の部位を刺激される感覚があるから。その刺激が新しいエッセイのアイデアをもたらしてくれるかもしれないし、そのエッセイを形にすることで得られた刺激が、また新しい小説のアイデアや、あるいは全く関係のない仕事のアイデアを生んだり──とかね?
そういう意味で、脳みそを満遍なく使うのはとても大事。
さて、毎度のことながらとりとめのない感じで話しているけど、
もし、これを読んでいるあなたが「情報の取捨選択がヘタクソ」「一見関連性皆無の情報同士を結び付けて、自分を追い詰める独自のロジックを組み立ててしまう」という特徴に覚えがあるのであれば、これはもう何かしら対策を検討するか、受け容れられるかどうかは別にして、そう"解釈"するほかないよな──と。
ちなみに、この理屈だと他人から投げつけられたネガティブワード秒で脳内から削除できる私は、クリエイティビティ皆無の人になってしまうのだよなぁ(まあ、知ってたけども)。ぎゃふん。ではまた~。
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