縋 十夏

純文学とは 『疑心暗鬼の闇に 改訂版』

【作品情報】

『疑心暗鬼の闇に 改訂版』 作者 縋 十夏

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054917578551


【紹介文】

 ※リハビリに書き上げたものです。純文学をイメージしての創作になります。また縦読み推奨作品になります。改行に関するご意見はお断り致します。誤字・脱字指摘につきましては後日修正を入れさせて頂きますので出来れば、教えて下さると嬉しく思います。加えて、物語としての質を高める為のものに関しましては注文が多いことかとは存じますが、お願い致します。

 拙作『疑心暗鬼の闇に』に加筆したものです。何度も出したり、引っ込めたりして申し訳ありませんm(_ _)m


 いつだったでしょうか──何分立ち読みだったもので、酷く記憶は朧気なのですが。『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』の中で、あまりにも端的に示されていた純文学の定義が甚だ印象に残っておりまして。


 曰く、物語を読んだとき「これは何かな」と読み手に思わせるのが純文学だと。


 わかるようなわからないような──と眉根を寄せてやりたいところでしたが、「ああ、成程ね」と。私の中で不思議と得心のいく定義のひとつであったことを憶えております。

 その夜、"私"が出会ったのはただの人だったかもしれません。生きること以外の諸所を諦めた、何もかも持たざる者である"私"の眼には、一介の物盗りでさえも自分より多くのものを"あり余るほど"に有する怪異として映ったのやもしれません。

 あるいは特にこれといった理由もなく、事実怪異はそこにいたのか。でなければ、外へと繋がる長四角の光る板も、室内に届く青白の光も、午前一時五十一分二十三秒に目を覚ました"私"も。


 全ては──あえかなる夢だったのかもしれません。


 物語をどう落とし込もうと読み手の自由──というより、極論を云えばそもそも落とし込む必要さえないのではないでしょうか。言葉の並びがつくるものにただ浸っていればいい、そんな楽しみ方さえも許してくれるのが、ひとつの"作法"として受け入れてくれるのが、私の中の純文学であるように思うのです。

 さて──当然私はこの作品を「これは何かあるな」と思うたからこれを書いておるわけですが。はたして、闇夜に踊るは何ぞや。

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