第2話 初盆

 二月上旬の昼下がり、僕は斎場の火葬炉前ホールで職員たちの恭しげで手際がよい仕事ぶりを眺めていた。分厚そうな雲が低く覆いかぶさった日で、寒さもこの時期らしい厳しさだ。大理石造りで天井も高いホール内の空気も冷え切って、みっしりとした重さを感じさせる。

 黒背広の中に着た白シャツ袖口に二個並んだボタンを、内側にかけ替える。手首との隙間を減らして、体温を少しでも逃がさぬようにするためだ。でもそんなことをしたって効果はあまりなく、寒さが体の奥へと染みこむのは止まらない。

 傍らには腰くらいの高さがあって銀色をした台車が置かれ、亡妻となったばかりの織恵を納めた棺が載せられている。そして僕は、こんな時にはどんな態度でいればいいかに迷って表情も動かせずに突っ立っている。

 準備が整い炉に収める直前、棺の小窓から最後の対面をして心の中で

「さっさと生まれ変わって、僕よりもっといい男と巡りあって幸せになれよ」

 の一言をかけた。たいていなら、悲嘆に暮れたり喪失感に打ち拉がれたりするところだろう。でも心が波立つこともなく、我ながら淡々と没後の片付けを進めているばかりだ。傍目には冷血夫と映りそうだが、事情あってのことだ。

 炉内に棺を据え付けた職員は閉めた分厚い扉に向かい、帽子を取って深々と礼をした。続いてこちらへ向き直って丁寧にお辞儀をして、待機していた女性職員に待合室への案内を促す。歩き出した背中でバーナーの轟音を聴き、導かれるままにエスカレーターで二階へ上がった。

 通された部屋の暖房と熱い茶で人心地がついたら、病院で臨終を告げられてからどんな段階を踏んできたかを振り返る気になった。でも、思い出せないことも多い。倒れて救急搬送で集中治療室に入り、翌日には意識を取り戻さないまま亡くなった。ここまでの記憶なら残っているけれど、葬儀社や斎場の手配などをどうしたのか。自分の父母の時もそうだったが、無我夢中のうちに一気呵成に諸々を推し進めてここに至ったとしか説明できない。

 身内に不幸があった折はこんなものか、そう思ったのを区切りに窓辺に寄る。庭越しに火葬炉の煙突が眼に入ったら、折しも一塊の煙が立ち昇ってゆくところだった。それが冬雲の合間に消える光景に、永訣という言葉が重なる。あわせて涙の一粒でも落とせれば格好もついただろうが、そうはならなかった。でも同時に声には出さず、

「向こうの世界へ旅立つところを見送らせて、さよならを教えてくれたんだろ?」

 と問いかけてもいた。

 織恵と夫婦でいたのは、十年ばかりっだった。この短期間前半に限れば僕はいい夫、むしろ模範的な亭主だったはずだ。浮気も浪費もせず酒は飲んでも酒乱ではなく、暴力はもとより暴言も吐かなかった。

 にもかかわらずその後半入口で、織恵の方が豹変した。

「ああ、もううんざりよ!」

 の一言とともに突然ヒステリーを発症し、暴力を振るい暴言も浴びせてくるようになったのだ。小柄小顔で肌は地黒系で彫も深め、ちょっと南方系な雰囲気の風貌が特徴で体の動きにキレがあるタイプだった。それが、パンチに強烈さを与えたみたいだった。

「僕が何か、悪いことでもしたのか? していないだろ? 気持ちを。落ち着けろよ」

 説得を試みても効果はなく、この状態に頻々と陥るようにもなった。しかも長いときは、一か月も平常心に戻らない。当初は狼狽え絶望し、とりあえず詫びまくり精一杯下手に出て沈静化させようとしていた。しかし何の効果もなかったので、肉体的快感で慰撫する方針に切り替えてみた。

 指先舌先に全神経を集中させ、徹底的な丁寧さと激しさを使い分けて昇りつめるよう導く。大きく波打つ全身に抑し殺した声音、さらには豊かに溢れる湿潤に作戦が功を奏した手応えを覚えた。

 事後、息が落ち着きだしたところでベッドの端に腰かけて横たわったままの織恵を見やる。満足感を浮かべて静かに眼を閉じ呼吸に合わせて胸が上下する様子に安堵し、成功を噛みしめたところで織恵はゆっくりと両眼を開いてこちらに焦点を合わせてきた。次の瞬間、胸元までかけていたシーツを跳ね飛ばして身を起すと裸のまま僕の鼻柱へ拳を命中させてきた。

 ふわつくベッドの上で不安定な姿勢という条件なのに強烈な一撃で、噴出する鼻血とともによき夫としての僕は轟沈した。

 気が弱く積極性に欠け優柔不断な性格をしていたおかげで、織恵からは尻に敷かれ勤務先でも上司からイエスマンとして適当にあしらわれていた。

「控えめにしていれば、いいこともない代わりに悪いこともなさそうだ」

 という事なかれ主義的処世術にも捉われていたから、そうした傾向は強まるばかりだった。だが止血のためにティッシュペーパーを鼻孔に詰め込んでいたら、その無意味さに目が覚める。一歩引いていたところで、保身にも護身にもならないのが現実だ。

 そう気づいたら考え方の傾向も変化し、問題点は即刻排除すべしと離婚への気持ちを固める。

「これ以上、暴力暴言に耐える理由も意思も無いから」

 を理由として切り出したが、織恵は聴く耳も持たず態度を変えようともしない。それに甘んじる気は消滅していたから、仕返しに自分が浮気するのを解禁した。頻々と夜遊びをしては、残り香などの痕跡もそのままに帰宅する。

 これなら暴力に訴えるのと違って間違いなく楽しいし、破綻した関係を引きずっているだけだから躊躇いも罪悪感もない。織恵は動じない風を装っていたが、行動の端々に僕に対して心を冷え切らせてゆくのが読み取れた。それにほくそ笑んでいられたのは、暴力と暴言に心が歪んでいたからに他ならない。

 あわせて、会社員としてもイエスマンをやめてしまった。上司はまずひどく驚き、続いて怒り狂った。挙句の果てには大衝突となり、殴り合い一歩手前の大喧嘩にまで発展する。ついには追い出し攻勢に出て来たので、抗うのも面倒とさっさと退職して小さな有限会社を興し独立してしまった。

 以前ならこんな動きはできなかったが、それを喜んでいられないほど忙しくなった。また織恵と顔を会わせれば危険だから、仕事場に泊まり込んで殆ど帰宅しなくもなった。そうした日々の中でも、いまも親密な相手であり続けてくれる美亜と出会えたのは幸運なことだ。

 美亜との時間は心の歪みを正し、生き方の軌道修正にもなった。おかげで定期的に生活費を振り込むとき以外、脳裏から織恵は消えたままになった。この家庭放棄ぶりに、舅姑から文句が出るのは覚悟していた。けれども予測は外れ、何の音沙汰もなかった。さらには病院へ駆けつけるタクシー車内から電話で危篤を告げても翌日に逝去を報せても、冷淡なことに

「そうでしたか」

 程度の反応だけで葬儀にも参列しなかった。

 一連の無反応を不自然にも感じたが、どこの家族にも闇の部分はあるものだ。だからこの親娘間にも、相当に根が深く深刻な問題が潜んでいたのだろうと解釈して片付けていた。それでも

「嫁がせたことで、関係が悪かった娘とは絶縁を果たした気でいたのか? だがそこに深い亀裂があったとしても、実の娘じゃないか。悼む気持ちも悲しみも、湧いては来ないのか?」

 と、自分も織恵を顧みないかったくせに舅姑を詰ることだけは一人前だ。悪態をつきながらも没後の諸々を始末し、落ち着きを取り戻したら鰥夫となって最初の春も過ぎていた。

 梅雨を越し夏の盛りとなったころには、週の半分くらいは美亜の部屋へ帰るようにもなっていた。織恵との間に子供を授かれなかったことも、再出発には好条件となったようだ。

 そうした暑い日、仕事の打ち合わせ帰りに遅い昼飯にしようとショッピングビル五階のレストラン街で店を探す。エスカレーターを降りてまず目についたのは。トラットリアにできた長い列だった。時分どきはかなり過ぎているのに、何組もの親子連れが店内へ案内されるのを心待ちにした表情で並んでいる。その子供たちは空腹と退屈に耐えきれず、叫んだり床に転がったり走り回ったりの大騒ぎを繰り広げている。

 うるささ敬遠して他を当たれば、寿司に豚カツに天麩羅にインド料理や中華料理などの店が並んでいる。しかしどこも混雑状況に大差はなく、通路までが幼稚園や小学校の運動場状態だ。これも夏休み期間の宿命とあきらめ、牛飯か天丼の路面店でもめざそうとエスカレーターへ引き返す。

 途中で見落としていた蕎麦屋に気づいたら、空席待ちの列も店内が混雑している様子もない。蕎麦は好きだし好都合とも思えたものの、他店との集客格差に不味さの証明では? との疑いを抱く。けれどもう少し考えれば、これまで蕎麦屋で子供連れの相客を見かけた記憶がほぼない。子供たちとしては、蕎麦を手繰るよりピザやハンバーガーにかぶりついている方が幸せだからだ。たとえ親から

「席が空くのを待たずにすむから、お蕎麦屋にしよう」

 の提案をされても、頷く可能性は低いはずだ。玩具やデザートを付けたお子様セットなどを用意して子供連れ客を呼び込もうとする蕎麦屋もあるだろうが、効果はあまり期待できないに違いない。

 これらを踏まえて客の少なさを不味さより嗜好の問題と思い直し、暖簾をくぐった。早速に制服らしい作務衣に前掛け姿の中年女性店員が、営業用の笑顔で迎えに出て来る。そして開口一番、

「いらっしゃいませぇ、お二人様ですね!」

 ときた。人数を訊ねるというより、眼の前にある事実を確認し復唱する言葉の調子だ。

「いや、一人ですけど」

 訂正すると女性店員は、ひどく怪訝そうにする。

「えっ? そちら、お連れ様では…」

 視線を左右に大きく泳がせて、出しかけた言葉を途中で呑み込む。狼狽ぶりも、明らかだ。思わず後ろを振り返っても周囲を確かめても、誰もいない。たまたま隣や向かいの店に入った誰かを見間違えたとしようにも、入り口同士の位置関係から無理がある。

「一人、ですけれど」

 固まってしまった女性店員に念を押したら、

「あ、あらぁ、失礼いたしました…」

 金縛りが解かれたように動きを取り戻す。

 店内に進むとカウンター席に一人で丼物をかき込んでいる先客があったので、その並びにでも案内されるかと思った。でも通されたのは、二人がけのテーブルだった。人数を間違えたのをサービスで補うつもりだなと納得しかかったところへ、別の若い女性店員が蕎麦茶を注いだ湯飲みを持って来る。ただ、一杯だけではない。僕の前と、テーブルの向かい側にも置きかける。

「あの、一人なんですが…」

 今度は、僕の方が怪訝な顔になったみたいだ。

「は? お二人様じゃ、ありませんでした?」

「いやいや、一人ですよ」

 女性店員は、まさに狐につままれたような顔になる。

「あっ、そうでしたか…。失礼しました。ご注文は、もうお決まりでしょうか?」

 取り繕うように、急かしてくる。

「あそこに貼り出してある、夏野菜の精進天蒸籠。あれを頼みます」

 当店自慢季節限定、と壁の短冊が謳っている。一緒にビールも注文すれば、

「生と瓶が、ありますけど?」

 と訊き返すので瓶を選ぶ。

 お客の数が少ないせいか、瓶ビールはたちどころに運ばれて来た。持ってきたのはまた別の若い男性店員だったが、グラスも通しものの揚げ蕎麦も二つずつをテーブルに並べる。

「ひとつでいいですよ、一人ですから」

 言えばまた、表情には驚きが浮かぶ。

「あれれっ、そうでしたか。あれっ、それはどうも…」

 三人の店員が揃って、僕と一緒にいる誰かを見ていたことになる。自分では気づいていなかったのに、誰かから連れがいるのを指摘される。怪談噺なら定石というか、語りつくされた展開ではないのか。

 だから他店の繁盛を妬んだ店員たちが暇つぶしに、僕を巻き込んで一芝居打ったのかと疑ってもみる。けれど分別ありげで名札に店長の肩書きまである中年の女性店員までが、こんな茶番で一役を担うとは思えない。他の店員もそうだが、発覚すれば処分は免れない行為だ。降格や減給ですめばまだしも、懲戒免職や巨額の損害賠償ともなりかねない。おふざけとしては高リスク過ぎて、考えにくい。

 それなら接客スキルの不足かというと、答えは程なく得られた。

「お蕎麦は、すぐにお作りしてよろしいですか?」

 どんな連れが見えたか訊き返されるのを避けるように、男性店員は注文の確認をして厨房へ逃げ込んで行った。女性店長もレジカウンターで伝票の整理を始めて顔を上げず、若い女性店員もどこへ行ったか姿が見えない。揃って、何か訊ねられるのを警戒しているみたいだ。

 判然としない思いで揚げ蕎麦をつまみ、ビールを飲む。三杯目を注いだところへ、新規客がやって来た。初老の女性、二人連れだ。

「ああ、ここがいいわね」

 店員に案内する暇も与えず、隣のテーブルに陣取る。

「今日は暑いし、私は冷やし狸にするわ。稲荷寿司付きのセットで…」

 品書きを覗き込んで、一人が言う。

「相変わらず、よく食べるわね。なら私は、冷やし狐のセットにしよう。でも、お稲荷さんではなくてミニ葱トロ丼で」

 お互いの食欲を軽く茶化しあってひとしきり笑い、注文が決定した。

「お稲荷さんセットの冷やし狸と、ミニ葱トロ丼セットの冷やし狐でいいわ。両方とも、お蕎麦でね」

 店員が僕と眼をあわさぬようにして厨房に向かったところで、もともとの話題へ戻った様子だ。二人とも地声が大きく、やり取りは否応なしに届いて来る。自分たちの話を僕にも聴かせるために、態々隣席を選んだ気もしてくる。騒々しさのおかげで室温まで上がったみたいだと溜息を吐いたら

「○○さんもほら、ご主人の初盆だからねえ」

 の一言が聴こえて、先刻からの出来事に合点がいった。折しも日付は、八月十五日だ。正午の時報に合わせて戦没者へ黙祷をささげることは忘れなかったくせに、月遅れのお盆であることは完全に失念していた。

 これは先祖に対する意識が薄いからではなく、僕が生まれ育った家にお盆の習慣がなかったせいだ。一族が揃って神道を宗教としていて、自宅にも親戚宅にも神棚だけで仏壇はない。さらに新暦旧暦問わず一族のどの家でもお盆行事が執り行われることがなかったので、大人になるまで仏教限定の行事で神道には無関係だと思い込んでもいた。

 ところが実際には、神道にもお盆行事はあるとのことだ。先祖霊を迎えてもてなすという仏教のそれに対し、生きてあることを先祖に感謝するという性格のものらしい。ただ祖父母も両親も親戚の誰もが知らないままだったからなのか無頓着だったからなのか、話題となることもなかった。おかげで中年となった今でも、自分にとって未経験な行事のままになっている。

「織恵、そこにいるんだろ? 初盆とか新盆で、こっちへ戻って来たんだろ? お二人様認定されたのは、それだからってわけだよな」

 仏教だと初盆には、ことに丁寧に法要を行うらしい。だから織恵が僕以外の男の妻として亡くなっていたら、それなりの処遇を受けていたかもしれない。でも

「うちには、お盆の習慣がないんだ」

「変なの! ご先祖様に、悪いじゃない」

 の会話をした記憶はあるから、了解はしていたはずだ。それでも周囲の霊たちが現世へ出かける様子を見て、里心のようなものに駆られた可能性もある。

 もう一つの蕎麦茶もビアグラスも揚げ蕎麦も片付けてもらっていたが、

「せっかく来たのなら、一緒に飲んで食おう。でも、店員さんたちにしか姿を見せないのは困るなぁ」

「…」

 当然ながら、返事はない。

「これじゃ、一人と言い張って女房には『おあずけ』を喰らわす非情な亭主だって誤解されちゃうじゃないか」

 眼の前の席には、やはり織恵の姿も気配も感じられない。でもそれをいいことに、

「浮気の、リベンジよ。せいぜい、赤恥をさらしなさいよ」

 などと嗤っているのかもしれない。それなら障りとしては低レベルだけれど、やっていることは怨霊そのものだ。おののきながらこれ以上に何かを仕掛けたりせずに冥界に戻ってもらうには、とお盆の真似事を試みる。

 折よく隣の席へ蕎麦湯を持って来た女性店長をつかまえ、

「ビールをもう一本と、ビアグラスももう一つ貸してください」

 と頼む。

「あら、グラスにひびでも入っていましたか?」

 ミスがあったかと不安を浮かべるところに

「そうじゃないんです、初盆なので」

 答えた意味を理解したか、しなかったか。それは、わからない。でも、ビールとビアグラスはちゃんと持って来てくれた。新しいグラスにビールを注ぎ、目の前に織恵がいるつもりですすめて乾杯の仕草をする。

「そうだ、冷たいとろろ蕎麦が好きだったよな。お供えに、頼んでやるよ。お下がりも、責任もって平らげるから」

 隣席の初老二人組にも、織恵は見えていないらしい。だから一人なのにビールを二杯並べて虚空に向けて何やら呟く僕に、怪しさを感じ始めたようだ。時折視線が刺さって来るので、わかる。

「ねえ、デザートはかき氷にしない? 近くの和菓子屋さんの宇治金時、美味しいのよ」

「ああ、ココア大福が名物なお店でしょ? あそこ、いいわよね」

 話は即座にまとまり、帰り支度を始める。かき氷を食べながら、僕という怪しい奴の話題で盛り上がるに違いない。その後ろ姿をちらっと見て織恵分の蕎麦を注文し、ビールだけでなく冷酒も追加する。

 食後は仕事場に戻り、夜までもうひと頑張りするつもりだった。それに影響しないよう、ビールは一本だけにしようと決めてもいた。けれど、とてもではないが素面ではいられない。

「来ているなら証拠に、盃の酒にちょっと波でも立たせてくれよ。だけど実家には、行ってみたのか?」

 怨霊を刺激してもいいことはないけれど、以前の舅姑の冷淡さから気になってしまう。それが訊かれたくないことだったのか、ガラス製の猪口の中で酒はゆらりともしない。

「ま、僕の言うことなど聞き流したりはぐらかしたりしてばかりだったしな」

 この期に及んで、夫婦間の主導権を握れなかったことをひがんだりもする。「僕が甘いもの嫌いなのは、覚えているよな? だからすまんが、デザートには付き合ってやれない。そのくらいは、赦してくれよ」

 こんな調子で、幽明の境を隔てて住む元夫婦の食事となった。

「さっさと生まれ変わって、僕よりもっといい男と巡りあって幸せになれよ」

 永訣の折りにかけた言葉を、また繰り返す。そこに

「ただし、若いうちに病気に負けてしまわない丈夫な体でな。それと、ヒステリーと暴力はあの世にいるうちに忘れてしまった方がいいぞ」

 と付け加える余裕も、時間の流れは与えてくれた。

「それから、あの頃お前は何かに憑かれてでもいたのか? だからの暴力だった、のかな?」

 の問いかけもしたのは、荒れだしてからの織恵が神社参拝を強く拒んでいたからだ。稲荷神社を狐と関係険悪な犬連れで参拝するのが禁忌なように、何か穢れて粗暴な霊に憑かれていたのではないか。そんなものを背負い込んだまま神域に足を踏み入れたら、清浄を好む神様の怒りを買うばかりだ。それで、神社には近寄れなかったのだろう。

 またこの店の蕎麦は、今一つ美味しくなかった。近いうちに時間を作って墓参りに行こうと思い立ったから、その帰りに夫婦として立ち寄った老舗の名店で口直しをしようとも決めた。

 そばを一筋残さず平らげ、酒もビールも飲み干した。織恵にも義理を果たした気になって、伝票を取りレジカウンターへ向かう。

「有難うございました、またのご来店をお待ちしております」

 送り出す女性店長の挨拶は慇懃だったが、後半が完全に本意ではないのは明らかだ。だから店を出て数歩を進んだところで、念のために振り返ってみる。そうしたら彼女はいつの間に用意したか小皿を手にしていて、そこから摘まんだ塩を撒こうとしていた。その瞬間に眼が合ったから、ばつの悪さ丸出しの表情となり手の動きも止まる。図らずも、やはり僕が一人客ではなかったことをその様子が物語っている。


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うずまき @paicheji

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