うずまき

@paicheji

第1話 遊歩道

 初夏の陽気が数日続いたおかげか植え込まれた草木が葉の量感を一気に増し、遊歩道は早緑の隘路となった。そこを朝の散歩道に選んで、のんびりと行く。空の青がいつもより濃く感じられるのは、季節の割に湿度が低いせだろう。

 この遊歩道では人が歩く部分と植込みの間に幅1メートルにも満たない流れが造られ、鯉が泳ぎカルガモが遊ぶのを手が届く距離で眺められる。さらには道幅を少し広くして小さな滝やベンチを設けたところもあって、立ち止まっては深呼吸をして体の隅々まで空気を取り込んでやりたくなる。でも、こんな心地よい環境になったのはつい最近のことだ。かつては、まさにどぶ川と呼ぶに相応しい惨状を呈していた。

 僕は、都市部を行く河川は往々にして瘴気を放っていると感じている。これは山川に生じて病気などの障りを及ぼしてくる悪気で、ここも遠慮なく流域に漂わせていた。流れ込む生活や産業の排水は街の垢をたっぷりと含んでいるし、流域にひしめく人びとが抱く「負」の意識も一緒になって穢れを淀み溜まらせる。おかげで、近くで深呼吸などできたものではなかった。

 さらには台風や大雨のたびに周辺へ浸水被害を及ぼすこともあり、行政は暗渠化による治水事業を実施した。しかしコンクリートで川面に蓋をして周りを網目のフェンスで囲った程度と、内容は最小限に留まった。おかげで水害の心配と悪臭問題が解消できた一方で、新たな殺風景も出現させてしまった。

 これといった用途も与えられないまま、フェンスに囲まれた元どぶ川。こうなってしまえば近隣住民から存在意義を認められるはずもなく、落ち葉や土埃の吹き溜まりとなって頻繁にゴミの不法投棄までされるようになった。それに誘われたように、瘴気も蓋越しに地表へ染み出すようにもなる。ひどくなる一方の荒れ果て方についには

「近寄るだけで、気分が悪くなる」

「昼間でも、暗くなくとも薄気味が悪い」

 などの嫌悪感を露わにした声が上がりだし、忌み地にも等しい扱いをされるようになった。こうして人々が寄り付かなくなった空白に入り込むように、ブルーシートの小屋を造って得体の知れない老爺が住みつく。これが夏場に白褌一丁で歩きまわったり日陰を見つけて蓮華座を組んで瞑想にふけったりしているうちは、まだよかった。けれどもそのうちに悟りを啓いた! と叫びだし、

「我こそは弥勒菩薩の生まれ変わりであり、迫りくる人類滅亡の危機より衆生を救うがために現れ出でた。我が法力の前に、ひれ伏せ。そして明日にでも総理官邸から救済を仰ぐ使者が来るから、しかと見ておれ」

 などと今さら感しかない予言まがいと大法螺自画自賛を、大音声で演説するようになった。偶々近くに居合わせた高校生が

「弥勒菩薩が現れるのはお釈迦様が入滅した56億7000万年後だから、計算が合わないぜ」

 と突っ込んだところ、本気で殴られたという。そうした非行蛮行に周囲は辟易とさせられていたが、ついには焚火をして呪文を叫びながら踊り狂いだしたのを警察に通報され署へ連行されるに至った。

 この逮捕劇直後に暗渠の遊歩道化が着工となったのは、自称弥勒菩薩の暴挙が行政の背中を押した結果かもしれない。とにかく子供の遊び場ともなり通行人も多くなるよう整備すれば、問題を起しがちな連中には近寄りがたい環境になる。という計算も、あったのではないか。そして幸いにも工事落成後は雰囲気も一新され、目論見通りとなった。

 汚水処理システム新設で集まる排水も清潔さを取り戻し、鯉の泳ぐ流れの水源ともなった。改善された景観と植え込まれた草木に花々、そして飛来する鳥たちによって放つ気も浄化されて行った。

 こうしてすっかり清々しくなり瘴気とも無縁になった心地よさの中で、散歩を続ける。滝のわきに設けられたベンチに腰を下ろして一息を入れていると、鳥たちの声に混ざって甲高く金属的な靴音が聴こえてきた。

 植込みに遮ぎられて音の主はすぐには見えてこないが、サンダル履きで速足の女性だろうと思えてきた。やがて姿を現したところを見ると、やはり社会に出てまだ数年のOLさんといった雰囲気の女の子だった。淡い水色のブラウスに、ふんわりしたラインの白いスカートでサンダルもまた白い。羽織っている紺のジャケットも、ゆったりした感じのものだ。服のデザインのおかげで中肉中背と映りかけたが、近づいて来たら心配になるくらいに痩せている。同年配女性の標準くらいの肉付きなら清楚で愛らしい顔立ちになりそうだけれど、真っ直ぐに肩の下まで届く黒髪の間で削ぎ落されたような頬と存在感がある両眼だけが印象に残る。体重も体力も知れたものと想像がつくけれど、華奢なサンダルを地面に打ち付ける勢いだけはやたらと盛大だ。

 さらには通り過ぎる折に、大きな空気塊までぶつけて行った。それは衝突感を与えてくるほどの威力で、長くも密でもない僕の頭髪は瞬時に残らず後ろになびいた。速足とはいえ華奢な体でこれほどの風を巻き起こしてゆけた異様さに驚いていたら、意識が揺らぎや波立ちに起伏を失い平板化してしまった。気を失ったわけでもなく五感もそのままなつもりなのに、以前にこうなったた折の様子を

「腑抜けたような顔つきになって口も半開きのままで、瞬きまでフリーズしちゃった。で、しばらくしたらぼそっと『見ちゃった』って…」

 と指摘されたことがある。今回も久々に同じことになってしまったと、意識が通常に戻ったところで溜息を吐く。靴音はもう届いて来なくなったが、辺りを見回しても朝の雰囲気はそのままだ。だから、さほどの時間も過ぎてはいない。わずかの間にまた「見ちゃった」体験をし、彼女がどんな存在かも否応なしに知ることになった。ただ強い風をぶつけられる以前、彼女を視認した瞬間に覚えた大きな違和感がどんなものだったか不思議と思い出せない。

 そして翌朝、またの好天に惹きつけられて遊歩道へ散歩に出てきてしまっ

た。一歩を踏み込もうとしたら背後から、

「センセー!」

 と声を裏返しにして語尾を持ち上げた調子で呼び止められた。声の主は殿山といい、近所の居酒屋で飲み友達になった男だ。こいつはフィリピンパブに遊びに行ったら数日間、女性の声色でタガログ語訛りを真似してばかりいる。だから試しに

「会社でいちばん偉い人は、なんて言う?」

 と水を向けたら、同じ調子で

「シャッチョサン!」

 と答える。タガログ語訛りだと、先生は語尾を持ち上げた感じのセンセー。社長さんは、シャッチョサンとなるそうだ。

「だけど僕はお医者さんでも教育者でもないから、先生と呼ばれる理由は持ち合わせていないのだがなぁ?」

 訊き返しをしても、意味ある答えなど返って来ない。そして、おっさん二人組の散歩が始まった。

「ここいら、前は本当に禍々しい雰囲気だったよね?」

 真顔で言ってきた殿山に、こんなことも考える奴だったかと初めて知る。

「よくなったのは確かだけれど、実は昨日…」

 何があったかを話しても、近所のご隠居さんたちがボランティアで木々や草花の手入れや清掃に励む様子に眼を向け

「俺も齢をとったら、あんなふうにしてのんびり暮らしたいな」

 などとはぐらかしてしまう。どうせいい加減な奴と常々思っているから、返すのも

「今だって、十分のんびりしているだろ?」

 の悪態だ。でもそこで会話に軌道修正をかけるように、覚えのある甲高い靴音が近づいて来た。昨日の女に違いないが、再会してしまっても大丈夫なのか? 緊張するのに合わせて、殿山も見たことがないほどの険しい表情を音の方へ向けている。

 程なく、緑の間から例の彼女が姿を現した。服装は昨日と同じだが、柔らかな笑みを浮かべているところが違う。やはりもともと可愛らしく整った顔立ちをした娘なのだな、と思いかけたところで前日の違和感を思い出せた。

「なぁ、脚の動きと靴音が揃っていないだろ?」

 小走りくらいの速さで進んでくるのに、脚運びはゆっくりゆったりとしたものだ。一方で靴音は、ひどく忙しない。

「変だろ? 違和感、すごいだろ?」

 頷いた殿山は、

「だよね。俺、鉄錆の臭いを感じている。異界の存在に出くわすと、必ずこの臭いがしてくるんだ」

 意識が平べったくなってしまった僕より、はるかに鋭い感覚を具えているらしい。

「強風をぶつけてきたってことは、それなりに攻撃性もあるんだだな」

 そんな彼女がいま一直線に、間合いを詰め来ている。逃げた方がいいというより、逃げるしかない。わかってはいるけれど、歩き出せない。ついには一歩も踏み出せぬうちに、目の前に立ちふさがられた。そして品定めでもするような視線を浴びせて小首を傾げ、右の口角をちょっと持ち上げた。

「よく、わかったわね…」

 一言を発し温もりのない笑みをさらに深くして歯を見せたところで、その姿から色彩が抜けはじめた。墨の濃淡だけで描かれた状態になったところで、踵を返して歩み去る。

 見送るうちに後姿は漆黒の真平らな陰になり、植込み下生えの間に頭から潜り込むようにして消えていった。殿山は、静かに祝詞とも経文とも呪文ともつかないものを唱え始めた。終えると、

「俺の婆ちゃん、いわゆる霊能者だった。田舎で拝み屋というか祈祷師をしていたんだけど、手伝いをさせられたりするうち自然といろいろ覚えちゃってね」

 ちゃらんぽらんが服を着て歩いているような外面の奥には、思いもかけないものが隠されていた。。

「で、あの娘と会った回数は二度目で間違いなかったかな。昨日と今日で二度、ってことだよな?」

 の念押しをしてくる。頷けば

「だったら当分、この遊歩道には来たら駄目だぜ。次の三度目は、何か仕掛けてくる可能性たっぷりだからな」

 と、断じてもきた。

「最初の遭遇で違う世界の存在と感づかれたことに、まずムカついている。今日になったら俺も一緒にいたから『気づいたうえに、見える友達まで引っ張ってきた』って、もっと怒っている」

 だから、強風をぶつけてきたのは見抜かれことへの意趣返しで「よくわかったわね」は追い払うための警告というわけだ。どうして三度目が危ないのかについては、

「だって、踏ん切りがいいだろ? 一二の三で調子を合わせたり、三度目の正直なんて言うじゃないか。だからあの娘みたいな身の上になっても、三回目に行動を起すのはあることなんだよ」

 もともと日本人は、苦に通じる九を除いた奇数を好む。真二つに割れる偶数を避けた、とも言える。三にしても三歳や三個を「みっつ」ともいい、「満つ」に通じる縁起のいい数とされる。

「あと俺、ああいう連中には気づけても祓う力までは持っていないんだ。だからお互い、ヤバいところには近寄らないのが一番だ」

 言葉通りに遊歩道から外れるよう促し、住宅街へと進んで行く。家並みの上には、稲荷神社の杜が見越せる。霊験あらたかと広く崇敬を集め、境内もパワースポットとして知られる神社だ。

「あの娘はお稲荷様に、清めて救っていただきたいって願っている。困ったときに神頼みをしたくなるのは、生身の人間だけじゃない。異界の連中だって、同じことさ」

 彼女もこの辺りをうろつきながら、お稲荷様のお通りを待っている。けれど運に恵まれず願い叶わぬままなのに苛立ち、居合わせた人間に八つ当たりをしてきたとも付け加える。

「だったら、もっとお社近くで待とうとしなかいのは不自然じゃないか。ちょこっとでも離れた遊歩道にまでお稲荷様が…」

 言いかけたのを遮るように、

「センセー、境内の外周をグルっと周ってみたことないだろ?」

 の訊き返しをして来る。認めると

「あのお稲荷様は本当に有り難いし、これはお稲荷様でなく俺たち一般人の無知や失敗から出たことなんだが」

 と前置きをして、

「周りの家並みに、問題があるんだよ」

 と答えた。神社の周りに家を建てるには、神様への失礼がないよう守らねばならない決まりごとがある。まずは位が高い方位である北と西北に面するところ、さらに本殿の真正面も避けねばならない。

「なぜだか、囲んでいる家並みの配置がまずいんだよなぁ」

 そのせいで、お社に隣接して気が濁った一帯ができてしまったという。そこは異界から参じた中でも性質がよろしくない一派には、かえって好もしい環境になる。彼女はそうした寄り集まりを嫌い、遊歩道側へ避けて待つことにしたのだそうだう。

「だからセンセーもお参りするときには、表の正参道からにしなきゃいけない」

 注意を喚起したあと、彼女が遊歩道にいた理由に話が戻る。

「整備されて浄化されたから、なんだよ。何しろ神様は清浄な場所を好まれるからね。だからもしかしてこっちにも、と思っているのだろうな」

 心中を読み切った、と言わんばかりの表情だ。さらに度を越して痩せていた点についても、

「食にかかわる原因で、無念を含んで現世を去ったのだろう。たぶん、拒食症に苦しんだ結果じゃないかな。だからこそ、穏やかで優しいこのお稲荷様に加護を求めているわけさ」

 お稲荷様は、豊かな実りや繁栄をもたらしてくださる神様だ。だからしばし食物神としても認識される。そしてこのお稲荷様に参拝すると、一の鳥居から本殿までの参道が一直線になっているのがわかる。

「荒ぶる神様をお祀りするお社だと、参道にも曲線を描いた造りにするなどの工夫がされている。それは強すぎるパワーに抑えをかける、って目的があるからなんだ」

 まさに、対照的だ。

「それらをわかって来ていたのなら、どうにも哀れなことだな」

 思わず漏らすのに殿山は、

「おっと、同情は禁物だよ。何もできない俺たちを頼りに思ってしまったら、かえって気の毒だ。俺たちにしたって、憑かれでもしたら厄介だしさ。あの娘とは全く関係ない存在でいないと、ろくなことにならないよ」

 あたりは、初夏を迎えた生き物たちの息吹でいっぱいだ。新緑はみずみずしく、花々は可憐だ。猫が用ありげな様子で通り過ぎ、樹上では四十雀が高く鋭い声を上げている。散歩に連れてこられた犬たちも、幸せそうだ。

「こんなところでも、異界との接点が転がっていたりするんだよな。気づきもしない人が、殆どだけどさ」

 殿山は感慨深げな様子を見せるが、ほんの少し前までの緊張感からは解き放たれているのがわから。他の通行人にも、散歩に興じる呑気なおっさん二人組と映るようになったに違いない。そして長閑さに慣れてゆくにつれ、にわかに空腹感が湧いてきた。

「朝飯、食った?」

「俺、まだ。センセーは?」

「同じく、さ。どうだい、駅前に出て牛飯屋で朝定食でも食わないか?」

 賛同は、

「俺らに、カフェなんて似合わないからな」

 の一言だった。確かに僕もシアトル系のカフェでは、本日のコーヒーとエスプレッソ以外のメニューは意味も分からなくて注文すらできない。

「昭和の頃は喫茶店て言葉がまだ通じたし、朝なら『ブレンド、モーニング付けて』で注文も完了だったのにな」

 などと昔話含みの軽口を叩きあいながら、僕らは最寄駅方向へと角を曲がり込んだ。



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