続・紅い人物画

紫 李鳥

続・紅い人物画

 


 姉の復讐を為し終えた和子は、事件後間もなく、姉の描いた人物画たちと共に、そこを引き払った。さすがに、死体があった部屋で生活する度胸はなかった。


 引っ越し先は、そこからさほど離れていない1DKのアパートだった。通勤する上で、同じ駅の方が便利だったからだ。それに、半年分の定期を無駄にしたくなかった。



 それは、休日の午後。駅前のスーパーで買い物をしている時だった。


「――久しぶり」


 ハスキーな男の声と共に、肩を叩かれて振り向いた。そこにあったのは、例の事件のアリバイを証言してくれた、スナックのマスターの笑った顔だった。


「あっ。……お久しぶりです」


 マスターとの再会は、なぜかしら和子を不安にさせた。


「ねっ、引っ越したの?」


「えっ! どうして?」


「だって、あの部屋、カーテンもないし、明かりもついてないから」


「! ……」


 気味が悪かった。この男は、私の部屋を見張っていたのだろうか……? 和子はそんな風に思って、眉をひそめた。


「……だって、あの事件があったから」


 和子は顔を伏せると、声を小さくした。


「ああ、そうだよね。ごめんごめん、うっかりしてた」


 マスターはわざとらしく、頭を掻いてみせた。


「……その節はありがとうございました。証言をしていただいて」


「あ、いえいえ。本当のことを言ったまでだから。それより、たまには飲みに来てよ。ボトルもそのままにしてあるし」


 そのフレンドリーな言い方は、逆に脅迫めいて聞こえた。


「ええ、近いうちに行きます」


 行く気などなかったが、とりあえず差し障りのない返事をした。マスターは含み笑いを浮かべると、


「じゃ、待ってるから」


 手を上げて、背を向けた。途端、言い知れぬ不安と恐怖感が、ひしひしと迫り来るのを和子は感じた。



 ――それから数日後だった。会社からの帰り、バッグの中でケータイがバイブしていた。……誰だろう? 見てみると、知らない番号だった。出ずにいると、またバイブした。見ると、同じ番号だった。誰よ? もう一度番号を確認したが、やはり心当たりがなかった。


 電話帳に登録していない番号からの着信は、スーパーで偶然に遇ったマスターの時と同様に、和子を不安にさせた。急に食欲をなくした和子は、食事もせず、シャワーも浴びず、ケータイをバッグに入れたままで布団に潜った。――



 朝、目を覚ましてケータイを視ると、その番号からの着信が30回近くあった。恐ろしくなった。「真犯人を知ってるぞー」と言われてるみたいな気がした。


 ……でも、どうして伝言メモに設定してあるのに声を入れないのだろう? ……声でバレるから? つまり、私の知っている声だから? ――アッ!


 電話を寄越した相手に見当が付いた和子は、なぜ、教えてもいないケータイ番号を知っているのか考えてみた。


 ――アッ! そうか。思い当たった和子は、次に、相手をどう処分してやろうかと考えた。


 そして、壁に飾った、姉の描いた人物画たちを悲しい目で視た。




『――今回は、私が殺るわ。和子を悲しませる人間は許さない』


 緑色のかんざしを挿した和服の女が言った。


『えー? 私に殺らせてよ。和子のお姉さんに、こんなに綺麗に描いてもらったんだもん。恩返ししたいわ』


 パールのイヤリングの女が言った。


『恩返ししたいのはみんな一緒よ。綺麗なのはあんただけじゃないわ。みんな美人に描いてくれた。和子の姉さんは、私たちの産みの親も同然。その妹の和子を悲しめる人間は、絶対に許さないわ』


 ショートの茶髪の女が言った。


『みんなの気持ちはよく分かったから、少し落ち着いて。どんな方法で殺るかによって、適役を決めよう』


 サラサラストパーの女が言った。


『分かったわ』


 みんなが返事をした。


『まず、茶髪は前回、秀夫を殺ってるから除外』


『何よ、回数で決めないでよ。成功例で決めてよ』


 茶髪が不平を言った。


『そうじゃないわよ。万が一にも、前回の刑事だったらまずいでしょ? 同じあんたが登場したら。今回はおとなしく押入れに隠れてて』


 ストパーが釘を刺した。


『別に押入れじゃなくてもいいでしょ! 何よ』


 茶髪が口を尖らせた。


『ちょっと、茶髪、お黙りっ! ストパーの話をちゃんと聴きなさい』


 和服が仲裁に入った。


『は~い、姉御』


 和服の鶴の一声で茶髪はおとなしくなった。


 そして、ストパーが提案した殺害方法に、人物画たち全員が賛成すると、綿密に計画を練った。――




「いらっしゃいっ!」


 マスターが満面の笑みで迎えた。他に客は居なかった。


「……こんばんは」


 和子はカウンターの隅に腰を下ろした。


「待ち兼ねてたよ。やっと来てくれた」


 マスターはおしぼりを手渡しながら、卑しい視線を向けた。


「あっ、そうだ。これ、店に飾って」


 額装したF8号の絵を紙袋から出した。


「うわ~、スゲー……」


 マスターは、リアルな人物画に感嘆の声を漏らした。


「アリバイを証言してもらった、ほんのお礼です」


「……綺麗だ。高かったでしょ?」


 マスターはカンバスを手にすると、その絵の女に見とれていた。


「ううん、そうでもない」


「ありがとう。早速飾るよ」


 マスターは水割りを和子の前に置くと、ドアから真っ正面の壁に、その絵を飾った。




「――ところで、……少しばかり融通してくれないかなぁ。……お金」


(案の定だ! やはり目的は金だった)


「えっ?」


「最近、暇でさぁ。こんな小さな店でも、維持するの大変で。100万ばっか、お願いできないかなぁ」


 マスターはおもねるかのように、いかにもへりくだった口振りと仕草を作っていた。


「ええ。マスターは恩人ですもの、お役に立ちたいわ。月曜でいい?」


「ああ、勿論さ。助かるよ」


 マスターは捕らぬ狸のなんとかを目論んでか、たちまち本音を露にした。まるで、ろくに食ってない浮浪者が、拾った小銭で万馬券を当てたような顔つきだった。


「じゃあ、ケータイの番号を教えといて。何かあったら連絡したいから」


「ああ。……あ、そうそう。何度か電話したんだよ、来てもらいたくて」


 声を入れていない着信との合致を見越した上でか、マスターは慌てて電話したことを自ら吐露した。


「あ、そうなの? じゃ、この番号って、マスターだったんだ?」


 和子はとぼけると、ケータイを開いて見せた。


「ん? そうそう……」


 マスターは後ろめたい様子で、目を泳がせていた。


(この厚顔無恥こうがんむち野郎!)


 和子は、腹の中で汚い言葉を吐いた。


「あれっ。マスター、私のケータイ番号知ってたっけ?」


「ああ、ケータイ忘れてった時あったろ? ほら、例の事件の日」


 また、卑しい含み笑いをした。


「……ぇぇ」


「たぶん、君の忘れ物だと思って。電話番号が知りたくて、ケータイいじってたらプロフィールが出て。悪いと思ったけど、自分のケータイに登録しちゃった。――何か、予感がしてさ」


 マスターは、和子に据えた目を意味深に笑わせた。


(案の定だ。……この男は紛れもない海千山千の人間だ)


「……なるほど。それで知ったのね? ――じゃ、お金下ろしたら電話しますので」


 和子は、マスターが飾った壁の人物画に目配せすると、そう言い残して店を出た。


 帰宅して少し仮眠を取ると、朝までやっているもう一軒の馴染みの店に飲みに行った。――


 その帰り、新聞配達が起きる前の、人っ子一人通っていない、路地裏のマスターの店に行った。


 内側から施錠し得ない計略の店のドアから入ると、先刻マスターにプレゼントした壁に掛かった絵を、バッグから出した袋に入れた。


 カウンターの中に倒れている、首を真っ赤にしたマスターの死体をチラッと覗いて。――



 部屋の壁に戻した絵の、和服の女が挿したかんざしは緑色から紅色に変わっていた。


 その紅色はまるで、今塗ったばかりの絵の具のように光沢があり、滴る血のように赤々と、今にも零れ落ちんばかりに満ちていた。――




   了

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