向日葵

コスギサン

第1話 『向日葵』

「結構遅くなったな...」


 数学教師の平野先生はとにかく話が長い。数学係の自分は集めたノートを職員室まで持ってくるよう言われたのだがクラス全体の授業態度について説教までされた。所謂"めんどくさい先生"で、授業中でも説教が始まるとチャイムが鳴るまで止まらない。そんなこんなで数学係は罰ゲームみたいな扱いであり係決めの時には最後まで残っていた。無論僕だって好きで数学係になったわけじゃない。


「まだ決まってないの誰だー。」


 まずい。


「ええと、永山か...もう数学係しか残ってないから頼むなー。」


 挙手する勇気がなくてタイミングを失い、残り物にされてしまったのだった。なってしまったものは仕方ない、説教なんて聞いているフリをして満足させればいいだけだ。理不尽に腹が立つ自分を大人になれと宥める。早足で下駄箱への廊下を歩いていると、耳の片隅で小さながした。


「...ピアノ?」


 3階の音楽室からピアノの音が聞こえる。吹奏楽にピアノってあったっけ?それとも音楽教師だろうか、いや、さっき職員室にいたはずだ。


 階段を通り過ぎたとき、最も音が大きく聞こえる。知らない曲だ。しかしそのあまりの美しい音色に吸い寄せられるように階段を上る。音の目の前に到達した。扉の前に来たはいいものの、それに手をかける勇気が出ない。だって知らない人だろうし先輩や女子生徒だったら気まずくてたまらない。そもそも僕はクラスにすら友達と呼べる相手はいない。自分から出会いのきっかけを作るような人間ではないのだ。

 そのまま僕は壁越しに耳をすませた。今まで聞いたどんな演奏よりも美しかった。メロディーが良いのだろうか、それとも演奏者の腕だろうか。腰を下ろし壁にもたれる。永遠に続けば良いのに。そんな時間だった。


 結局曲が終わるまで、僕は尻にあたる床の冷たさすら忘れていたのだった。僕は壁の向こうの誰かの音に一目惚れをした。



「じゃあ瀬川君、今日も戸締りよろしくね。」


「はい。」


 曲がり角の先から聞き耳を立てる。隠れる必要などないのだが何故だか彼に顔を見られてはいけないような気がした。

 どうやらあの音を奏でているのは同じ学年の瀬川という男子生徒で、週に2.3回音楽室の鍵を借りてピアノを弾いているようだった。



 今日はいないのか...。僕はいつの間にか彼の音を聴くのが楽しみになっていた。彼がピアノを弾いている間、僕は壁越しにその音を楽しむ。それが日課だった。彼は静かな落ち着く曲を好んで弾くようだった。中でもあの日僕に衝撃を与えた例の曲はお気に入りらしい。


 僕にもあの音が出せるだろうか。聴くだけでは満足できなくなり、僕はピアノを始めることにした。家にピアノはないのでピアノが売っている家電量販店に足を運ぶ。


 背中合わせに並べられたピアノ、それらには色と微妙な形の違いしか僕には見つけられなかった。なるべく通路から離れたところに置いてあるものを選ぶ。自分の中でピアノ売り場のピアノは弾ける人間しか触ってはいけないという偏見があり、少々怖気ずく。しかしこのまま変えるのも変な風に見られないだろうか。

 ああ、まただ。いつもこうだ。考えすぎなんだ僕は。少し触るだけさ、大丈夫。

 意を決して椅子に座る。意外と硬い。光沢のある白鍵を人差し指でつつく。小さい音が聞こえた。本当にか弱い小さな音だ。それでも僕を引き込むには充分だった。


 生まれてこの方楽器はリコーダーと鍵盤ハーモニカしかまともに触ったことがない。ドの鍵盤を見つけるのにすら十秒かかった。ただ自分が出したい音は押している鍵盤か否かは聴き分けられた。この分なら少し触れば簡単なフレーズなら弾けそうだ。自分の指から透き通るような音が鳴る。楽しい。どうしてもっと早く出会えなかったんだろう。



 どれくらい経っただろうか、時間を忘れて熱中してしまっていた。今日はこのくらいにしておこう。時間にして1時間と少し。さすがに店員に変な目で見られ始めているだろう。普段から人目に敏感なはずだが今日は周りの音すら聞こえなかった。

 片手ではあるが弾きたいフレーズはほとんど弾けるようになった。黒の鍵盤はまだ覚えられていないがそれはまたの機会にしよう。


 自分の指で音を奏でることが楽しくて仕方がない。僕は手持ちで足りる1番高価な電子キーボードを買って家に帰った。これで家でもピアノが弾ける。1時間アップライトピアノを弾いた末、買うのはこれ。それでも店員は笑顔で接客してくれた。時折りコンビニで雑な接客をされることもあるので安心した。


 帰り道はいつもより早足だった。口角が自然と上がってしまう。指にはまだ鍵盤を押す感覚が残っていた。

 家につくなり鞄をベッドに放り投げる。今日は忙しいんだ。乱暴に箱を開ける。ビニールの向こうに見えたそいつは店で見た時より大きく見えた。沢山のボタンがあるが鍵盤があって音が鳴ればそれでいい。プラグの付いたコードが付属していて、コンセントに直接繋げばすぐに音が出るようだった。


 しかし鳴らしてみれば所詮は電子キーボード。機械音感は否めない。それでもこれからいつでもピアノを弾けるという実感に僕は胸が躍った。



 学校で彼の音を聴き、家で僕が奏でる。僕の生活はピアノ一色になった。

 彼の音はなぜあんなに美しいんだろう。グランドピアノと電子キーボードではそれはそれはとてつもない差がある。でもそこじゃない。仮に僕がグランドピアノを弾いても、彼のようには鳴らせない気がした。



 いつものように壁から鳴る音に耳をすませる。彼が最後の音を鳴らし、床の冷たさが僕に時間の終わりを教える。

 階段を降りて下駄箱へ向かう。随分寒くなった。そろそろ季節は冬がやってくる。もうすぐ彼の演奏も聴けなくなるのだ。受験シーズンが始まるからだ。


 僕が音楽室に足を運ぶ頻度も減ったが、彼が音楽室でピアノを弾く頻度も減ったようだった。彼も受験に向けて忙しいらしい。

 運良く志望校が同じだったりしないだろうか。そして2人とも合格して同じクラスになったりしないだろうか。席が隣になってピアノの話ができたりしないだろうか。

 壁を隔てることなく、彼の音が聴けたりしないだろうか。


 授業中も気づけば彼が頭の片隅で音を鳴らす。押しても沈まない茶色い鍵盤の上で指が踊る。いかん、集中集中。


 僕は賢い方ではないしそこまで偏差値の高いところではないが第一志望の高校になんとな合格することができた。僕にしては頑張ったと思う。

 彼は志望校に合格できただろうか、また彼の音を聴けるのはいつだろう。卒業までの期間、床の冷たさを確認できるのは何回だろう。

 しかし卒業まで彼が再びピアノを弾くことはなかった。



 高校に入学して1ヶ月が経った。少しずつ新しい環境にも慣れてきて周りを見る余裕が出てきた。どうやら瀬川は別の高校に進学したようだった。高校でも放課後音楽室で美しい音を奏でているのだろうか。

 高校こそ別になったがもう二度と彼の演奏は聴けない、そんな気はしなかった。あれだけ美しい音を出すピアニストだ。いつかどこかでまた聴けると思う。プロになってテレビでとか、動画投稿サイトでとか。



「今日はこれを弾いてみるか」

 相変わらず僕は毎日日が暮れるまでピアノを弾いていた。部活には入らず学校が終わるなり飛ぶように帰る。制服を着替えもせず相棒の前に座る。

 この頃には少しずつ両手で弾けるようになっていた。本物のピアノを弾きたくなったときにはあの店に足を運んだ。


 交友関係は皆無だった。入学当初は何度か話しかけられたがみんなすぐに離れていった。中学の時と何も変わってない。別にそれで良かった。ピアノが弾ければ、それで。目の前の平べったいこいつは正直だ。何度指で尋ねても同じ鍵盤からは同じ音しか出ない。ミスタッチすれば違う音を出して教えてくれる。人間のように意見が簡単に変わったり余計な気使いをしたりしない。



 気づけばまた受験シーズンだ。進路には迷わなかった。音楽大学のピアノ専攻。これしかないと思った。高校三年間も全てピアノに打ち込んだ。惰性で毎日部活に向かう連中よりも余程努力した。中には本当に好きで部活に励む人間もいるだろうが。

 ただ一つ心残りがあるとすればピアノしかやらなかったことだ。もっと友達を作って遊びに行ったりバイトしたりもしてみたかったと不本意ながら思う。しかしピアノとそれらを天秤にかけてみると、やはりピアノの方に傾くのだった。


 独学ではあるが三年も打ち込めば形になる。もう僕は大抵の曲は弾けるようになっていた。楽譜も読めるようになったし簡単な曲は何度か聴けば楽譜を見なくても弾けた。ようやく自分の演奏に自信が持ててきた。だが不安もある。誰にも聴かせたことがなかった。僕が進む進路にはピアノ専攻というくらいだから実力のある者ばかりが集まってくるのだろう。彼らと比べて自分の演奏が聴けたものではなかったらどうしよう。そんな漠然とした不安と焦燥感に駆られてはまた鍵盤に指を落とすのだった。ピアノを弾いている時だけはそんな不安も消え去った。



 意外にも大学に自分より上だと思う人間はほとんどいなかった。音色の美しさもそうだし、僕が練習しているような曲を弾ける者は数えるほどしかいなかった。

 僕は拍子抜けしたがそんなことはすぐにどうでもよくなった。なぜなら瀬川がいたからだ。


 彼の音は変わらず美しかった。僕のそれより遥かに。でも評価されるのは僕ばかり。みんなが聴きたがるのは僕の演奏だった。


「永山君、キミは才能があるよ。」


 教授までもが僕を褒め、瀬川のことは話題に上がらなかった。音符の多い曲を弾けるのがそんなに凄いことだろうか。彼のような美しい音を出すことこそ本当に難しいことのはずなのに。


「これに出てみないか?」


 教授は僕に一枚の紙を差し出した。


「コンクール、ですか?」


「ああ、君の演奏は素晴らしい。自分の実力を試してみてもいいと思うんだ。」


 僕は大きなコンクールに出場することになった。そんなものに興味はなかったが、もしかしたら彼に匹敵する、はたまたそれ以上の音が聴けるかもしれない。そう期待して出場を決めた。



 大きな会場、大勢の観客。その空気に圧巻された。僕の出番は後ろの方だったので他の演奏者の音に耳をすませる。

 だがすぐにガッカリした。誰も彼も瀬川どころか僕より拙い音だった。後半は退屈だとすら感じた。一体彼らは誰のために演奏しているのだろう。聴かせるための音に色は宿らない。自分のために出した音こそ最も輝くのだ。音楽室での彼は誰に聴かせるためでもない、自分が楽しむために演奏していた。僕も今までそうしてきた。今日も同じように弾くだけだ。


 結果あっさりと優勝してしまった。拍子抜けもいいところだ。ピアノを始めたのは中学、そして大学に入るまで独学だった背景もあり、誰もが僕を天才だと言った。

 どれだけ讃えられようとどれだけ高難度とされる曲を弾いたって満足できなかった。あの音じゃなきゃなんの魅力もない。僕は昔より強く彼の音を追い求めるようになった。


 その頃だった。瀬川が大学を中退したのは。手が震えてピアノが弾けなくなった、ということらしい。病気だろうか。あれだけ美しい音を出す人間がそんな運命を与えるなんて神はなんて残酷なのだろう。

 もう二度と彼の演奏を聴けないかもしれない。それは僕にとっても残酷な知らせだった。



 相変わらずコンクールなんてものに興味は湧かなかったが瀬川が大学を辞めてから僕は数々のコンクールで優勝した。有名になろうとした。彼に僕の音を聴いて欲しかった。そうしているうちに、卒業はあっという間にやってきた。


 僕は数十年に一度の逸材だと称され、卒業と同時にプロの演奏家になった。

 僕の演奏を聴くために全国から数千人が会場に足を運ぶ。僕の演奏を聴いて涙を流す人もいた。こんな音で感動できたらどれだけ幸せな耳だろうか。僕にはそうとしか思えなかった。


 だが良かったこともある。大勢の人間が僕を認めてくれたことで自分に自信が持てた。僕は自分でも分かるほど社交的になっていった。



 プロになって数年、大学時代より情熱的にピアノに打ち込んできたつもりだ。でもいつまで経っても満足できる音は鳴らなかった。ただの一度も。

 自分の演奏で食えるようにはなったがいくら稼いでも満たされない。金で満足いく演奏ができるようになるのなら、この世に苦悩する演奏者はいないだろう。しかし生きていくのに金は必要である。銀行のATMで金を下ろす。

 結局自分はこの程度なんだろうか。そんなことを考えていると懐かしい顔を見た。瀬川だ。



「聞いたよ、プロになったって。」


 2人並んで歩く。瀬川とまともに話すのはこれが初めてだ。これほど強く憧れている相手なのに。


「ああ、なかなか忙しいよ。」


「幸せだろうな。自分の演奏が世に評価される。」


 世の中がズレてるんだよ、お前の演奏こそ本当に素晴らしい。そんなことを言っても嫌味にしか聞こえないだろう。


「...まあな。瀬川は今何してるんだ?」


「バイトだよ。中退が祟って結局就職できなかったんだ。」


「そうか...金は平気なのか?」


「なんとかな、裕福とはかけ離れてるけど俺にはこれくらいが丁度いい。」


「お前が満足してるなら良かったよ。」


 僕はこんなにつまらないことしか言えない人間だっただろうか。


「じゃあ、俺こっちだから。」


「ああ、またな。」


 このまま別れていいのだろうか、この運命的な再開を逃したらもう会えないかもしれない。そしたら僕の望む音も一生手に入らない気がした。


「なあ、瀬川。」


 瀬川が振り返る。


「連絡先教えてもらってもいいか。」




「またお前と話したくなったら電話するよ。またな。」


 軽く手を上げて返事をする。こっちだから、そう言ったもののこの道は家とは別の方向だ。人と長く話すのは疲れる。それもよりによって永山だ。


「あいつは人生が楽しくて仕方ないんだろうな...」


 空を飛ぶカラスを見ながらぼやく。それはそれは楽しいだろう。誰もが彼の演奏を讃え、それが金になる。これ以上ない幸福だ。彼が幸せでなかったら俺の人生は悲劇どころの話ではない。


 そういえば明るくなったな、永山。出会った頃は暗くて無愛想な男だった。環境は人を変えるものだ。



 ぼんやりテレビを見ていると昔音楽室でよく弾いていた曲が聞こえてきた。少々音質は悪いが。永山からだった


「もしもし。」


「おう、今電話して平気だったか?」


「ああ、何か用か?」


「またお前と話がしたくてさ、明日飯にでも行かないか?」


「...明日はバイトが...」


「一日中?」


「ええと...」


「昼は?どう?」


「...まあ、空いてるけど...」


「よかった!じゃあ明日の12時にこの間の銀行前集合で。」


「...銀行に集合するのか?」


「細かいことはいいんだよ。じゃあまた明日な。」


「ああ、また。」


 どうも俺は押しに弱い。断る勇気がないだけか。



 空は晴れていた。風の暖かさも快い。集合場所の銀行前に背筋の伸びた男がいる。おそらくあれだろう。


「時間ぴったり。素晴らしいな。」


「お前はその前からいたみたいだけどな。」


 改めて見ると私服も随分変わったものだ。よく似合ってる。


「飯って、何を食べるんだ?」


「行きつけの店がある。もう予約もしてあるんだ。」


 さすがは永山。スマートだ。しかしこいつの連れていく店は高そうだな...。



「...さすがに手持ちが足りないぞ。」


 案の定、そこは俺からしてみれば"超"高級レストランだった。


「心配するな、今日は僕が持つから。」


「さすがに悪いよ...」


「わがままに付き合ってもらうお礼さ、もう予約もしてるって言ったろ?」


 予約してある。その言葉で選択肢を奪われてしまった。どれだけできる男なんだ、こいつは。


 レストランでは大学時代の同期の話をした。アイツがどうだとかコイツは今こうでとか。みんな頑張っているみたいだった。俺は大学を辞めてからほとんどの連絡先を消してしまった。残した二人とごくたまに連絡を取るくらいだ。最近永山が増えたから三人か。


 おそらく同期の中で最も対極にいる俺たちが同じテーブルで飯を食ってる。なんだか不思議な感じだった。



「美味かったな、また来よう。」


「悪いな...こんないいところご馳走になって。」


「悪いな、じゃなくてありがとうと言え。」


 いちいちイケメンだ。


「ああ、ありがとう...お前は凄いな、完璧で。」


「...そんなことないさ。少し歩こう。」


 また永山と並んで歩くことになるとは。しかしこの前とうってかわって沈黙が続いた。さすがの永山も話題が尽きたか。


「なあ、昔の話をしないか?」


 永山が唐突に切り出した。


「昔って...大学の時の話か?」


「もっと前、中学の時だ。」


「...俺たちが知り合ったのは大学からだろ?」


「お前からしてみればそうだな。」


 含みのある言い方。永山はもっと前から俺のことを知っていたのだろうか。


「中学の時からお前を知ってる。お前が放課後音楽室でピアノを弾いていたあの時から。」


「...同じ学校だったのか?」


「ああ、高校は別だけどな。お前のあの音を聴いて、僕はピアノを始めたんだ。」


 そんなまさか。これほどの天才が俺の演奏を聴いて?ピアノを始めた?何の冗談だ。そして再び彼が口を開く。


「僕の話を聞いてくれるか、瀬川。」



 それから永山は俺にいろんなことを話した。俺の演奏を壁越しに聴くのが日課だったこと。家電量販店でたまにピアノを弾いていたこと。大学で俺と再開して嬉しかったこと。昔も今も自分の音に満足できていないこと。そして俺の音に強く憧れていること。


「お前は天才だよ、瀬川。お前以上に美しい音を出すピアニストを僕は知らない。」


「天才は永山だろ。世間が認めたのはお前の演奏で、みんなが聴きたいのはお前の音なんだよ。」


 突き放した言い方をしたかもしれない。でもわかるだろ?当時から天才と言われていた永山に、憧れてるなんて言われても頭が認めることを拒否する。俺は諦めなければならなかったのに。


「...確かにな。でも自分が満足できなきゃ意味がないだろ?人から評価されるために弾くなんてつまらない。」


 そう言われてハッとした。いつの間にか俺はみんなに認められるためにピアノを弾いていた。褒められる永山が羨ましくて、天才だと言われる永山が妬ましくて、ピアノを弾く目的が変わっていた。昔は弾くことが楽しかったはずなのに。


「...瀬川?」


「ああ、悪い、なんだって?」


「もう一度お前の音が聴きたいんだよ。」


 世界を代表するピアニストにそんなことを言われるとは。なんて光栄だろうか。だが、


「...弾けないんだ。弾こうとすると手の震えが止まらなくなるんだ。」


「今も震えるのか?何かの病気だとか?」


 病気だと言ってしまえたらどんなに楽だろうか。そうすれば永山も諦めるだろう。気を使ってピアノの話もしなくなるだろう。もう、会うこともなくなるだろう。


「...いや、病気じゃないんだ。なあ、永山。」


 永山は全てを話してくれた。俺も話さなければならない。


「俺はずっと、お前が妬ましかったんだ。」


 俺は永山の顔を見て話すことは出来なかった。目があったら口を閉ざしてしまいそうだったから。


「誰からも認められるお前に、お前の才能に嫉妬してた。お前を見て自分には才能がないって思った。お前のようにはなれないって悟ったんだ。そしたらもう、弾けなくなってた。」


「お前は俺の音を羨むけど俺からすれば評価されない音に価値なんてなかったんだ。」


 少しの沈黙が居座った。そりゃピアノが弾けなくなったのはあなたに嫉妬したからです。なんて言われたらなんて言っていいか分からなくなるだろう。


「...ライバルだったんだな。」


 ライバル、永山はそう言った。これほどの男に好敵手と評されるなんて生涯No. 1の称号だろう。 


 再び沈黙が起こった。しかし今回の沈黙は短かった。


「さっきより背筋が伸びたな。」


「...そうかな?」


 妙なところに気づく男だ。


「まだ時間平気か?」


「ああ、バイトは夕方から。」


「少し寄り道しないか?」


 永山が誘ったのは家電量販店だった。ここには俺も何度か来たことがある。永山はある場所へ向かっているようだった。足取りに迷いがない。そして、ピアノ売り場で足を止めた。


「買うのか?」


「いや、弾くんだ。」


 家電量販店でピアノを弾くプロはなかなかいないだろう。


「いつもこの位置で弾いてたんだ。懐かしいなあ。」


 その後ろ姿を見て俺はいつか見た少年に彼を重ねた。ああ、そうか。大学で知り合う前から俺は永山を知っていたんだ。そして憧れていたんだ。


「瀬川、座って。」


「え、俺が?」


「お前の音じゃなきゃダメなんだ。」


「だから手が...」


「大丈夫だよ。瀬川はもう大丈夫。」


 何を根拠に大丈夫だと言ってるんだ。そんなに信じられないなら見せた方が早いだろう。俺は鍵盤に手を伸ばす。ああ、やっぱりダメなんだ。


「ほら...」


 手が震える。震えるんだ。


「...なあ瀬川。もう自分を認めてやれよ、自分の音が出せればそれでいいんだ。他の誰でもない、瀬川だけの音。」


 そう言われた途端、俺の耳から余計な音が消えた。目の前の四角い宿敵と俺だけの時間が流れた。中指が白に触れる。


 手は、震えていなかった。


 何年ぶりだろうか。ピアノが弾けなくなって大学を辞めることを決めたあの日から1度も弾かなかった。弾こうともしなかった。俺の目から二つの線が落ちた。


「リクエスト、してもいいか?」


「ああ。」


 今の俺に弾ける曲など数えるほどしかない。それでも不安はなかった。何をリクエストされるか分かっていたから。


 深呼吸する。両手を鍵盤に置いて肩の力を抜く。大丈夫。あの音楽室で何度も弾いた。指が覚えてる。鍵盤に重みをかける。小さい音が聞こえた。本当にか弱い小さな音だ。それでも俺を引き込むには充分だった。指は正確に音を奏でた。

 永山は今、どんな顔をしているだろう。


 一度のミスもなく自分でも満足のいく演奏だった。横から小さな拍手が聞こえた。


「変わってないな。綺麗だよ。」


 その手から出る音も聴きたいものだ。そう言おうとしたのも束の間、


「時間だ。久々に楽しい時間だった、ありがとう。」


 俺より先に永山が発した言葉はそれだった。2人の時間を終わらせたのは意外にも永山からだった。永山はいつも唐突だ。


「何か用事か?」


「ああ、仕事がな。」


 口に出す言葉とは裏腹に永山から急いでいる雰囲気は感じなかった。


「そうか...お前の演奏も聴きたかったな。」


「悪いな。じゃあ...」


「ああ、またな。」


 彼が歩きだす。いつの間にか空は曇っていた。雨が降りそうだ。


「永山!」


 彼が振り返った。嬉しいような、寂しいような、そんな顔をしていた。


「また今度、連弾でもしよう!」


 彼は無言で手をあげる。そして再び歩きだす。彼の後ろ姿が小さくなっていく。

 その背筋はいつもより丸まっている気がした。



「よし。」


 帰ってから埃かぶっていた家のピアノの掃除をした。明日調律師を呼んで弾ける状態にしてもらおう。またピアノを弾けるのが楽しみだった。




 ノートパソコンに文字を打ち込む。短くていい。誰かに伝えたいわけじゃない。それでも一応見えるようにしておく。

 目線を上げて時計を見る。暗くて針は見えない。黒い円を眺めながら瀬川と別れた時のことを考える。自分でも唐突だったと思う。不自然に感じていないだろうか。最後に自分の演奏も聴かせてみればよかっただろうか。


 深いため息をついてから思い腰を上げる。部屋の中心にはピアノの椅子が置いてある。しかしピアノはない。別室から椅子だけを持ってきたからだ。そしてその椅子に登る。上に手を伸ばして縄を結ぶ。片端は柱に、もう片端は輪の形に。


「あ...」


 輪の向こうにピアノ弾く後ろ姿を見た。瀬川だろうか。いや、あれは昔の僕だ。自分の音が好きだった頃の僕だ。あの頃は弾いているだけで楽しかった。他に何も要らなかった。

 いつからだろう、彼の音以外に価値を感じなくなったのは。戻りたい、向こうへ行きたい。


 そして僕の頭は輪を潜った。世界が広がる。椅子を蹴った。床に椅子がぶつかる。鈍い音がした。

 体は最後まで抵抗を続ける。開いた口から空気を吸おうとする音が聞こえる。自分の体から出た音のはずなのに随分遠くから聞こえる気がする。縄が揺れる音。柱の軋む音。そして、僕の頭にピアノの音が鳴った。壁一枚隔てた時の、少し籠った音。


 音は、苦しさを和らげていった。


 音は、余計な音をかき消した。


 音は、静かに意識を飲み込んでいった。


 音は、もう聞こえなくなった。




 俺は家電量販店でピアノを弾く少年を思い出していた。

 高校時代、将来やりたいことがなくて進路に迷っていた。そんな時、あの店でピアノを弾く少年の後ろ姿を見た。同い年くらいだった。そのあまりの美しい演奏に足を止められた。俺がピアノの道を選んだのは彼の演奏に引き込まれたからだった。

 あの少年は...


「瀬川さん!」


「ああ、ごめん、何の話だっけ。」


「だから、瀬川さんって趣味とかないんすか!」


「ええと、ピアノ、とか。」


「え!聴きたいなあ。」


「機会があればな。」


「店長!瀬川さんのピアノ発表会やりましょうよ!」


「おお、そりゃいいな。バイトも社員も全員強制参加だ!」


 拒否権はなさそうだ。もう店長もみんなもその気になっている。たまには誰かに聴かせるのも悪くないか。もっと上手くなったら永山にも聴かせたいな。


 ピアノを弾くようになってから俺は自分でも分かるくらい明るくなった。足元ばかり見て俯いていたが前を向くようになった。バイトにも精を出すようになり、その姿勢が認められ正社員として雇用してもらえた。笑顔も増えてみんなと打ち解けられた。大学を辞めてから今までずっと働いてきた場所なのにこれほどアットホームな職場なのだと今更になって気づいた。

 ピアノを弾くこと以外にも楽しさを見出せるようになってきた。



 店長が数十人入るコンクール会場をレンタルしてくれた。グランドピアノを弾くのは大学以来だ。浮ついた足取りで舞台に登る。


 照明ってこんなに眩しいのか。  


 タキシードってこんなに窮屈なのか。


 大勢の前に立つとこんなに緊張するのか。


 みんなが自分の演奏を楽しみにしてくれるってこんなに嬉しいのか。


 深々と礼をする。大きな拍手が起こる。椅子の高さを調整し深々と腰掛ける。弾くのはもちろんあの曲だ。

 曲名は、『向日葵』




 私は最後まで自分の音が許せなかった。

 私にあの音は出せない。




 ペダルに足を置く。深呼吸。とても静かだ。両手を鍵盤に添える。聴かせる演奏になってはいけない。自分のために弾くんだ。

 指に優しく力を込める。

 そして俺だけの音が鳴る。





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向日葵 コスギサン @kosugisan

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