第6話 それは僕の願望だけど
「先生」
やはり後ろから名を呼ばれた。
見なくてもわかる。春川だ。
「秋田先生」
振り向けないでいる僕に、彼女は再び声をかけてきた。
さすがに2回も呼ばれたのでは、聞こえなかった、気付かなかった、という言い訳は苦しいだろう。
「おお、春川か。ここで会うの、久しぶりだな」
「そうですね」
今日の恰好もまた彼女らしいシンプルなコーディネートだった。薄手のVネックセーターに、ストレートのジーンズ。セーターは、あの日に見た紫陽花と同じ色の薄い紫色だ。
「先生、結構頻繁にここ来てましたよね」
「え、ああ、まぁ、散歩コースだから」
「すみません。私、ずっと先生のこと避けてました」
そう言って、ぺこり、と頭を下げる。
「私、変な話しちゃったから、何か顔を合わせづらくて」
「良いんだ。僕は気にしてないから」
嘘だ。
僕だってずっと避けてたじゃないか。
「それで、その。春川が言ってたこと、僕なりに考えてみたんだけど」
「もう本当にあのことは」
「いや、聞いてほしいんだ」
僕は何をそんなに意地になっているのだろう。
それを伝えなくては僕自身が前に進めないと思っているのかもしれない。
すると春川は「座りませんか」とあの時のベンチを指差した。
「ずっと考えてたんだ。あの時の春川の言葉を」
「ええと――」
「お母さんは幸せだったのか、って」
「ああ、はい」
「もちろん僕にはわかるわけもないんだけど」
「そう……ですよね」
「でも、僕は、幸せだったと思いたい」
「それは……なぜですか」
「もったいない、という言葉は悪い言葉じゃないと思う。大切にしたいものに対して使う言葉だと思うから。お腹に宿った春川を大切にしたいと思ったからこそ、もったいない、という言葉が出たんだと思う。だから、君が愛されてなかったわけはない」
「でも、お母さんはお父さんのことなんて――」
「好きじゃないように見えた?」
「……はい」
「好きじゃないって、春川に言ったのか?」
「そこまでは……」
「だとしたら、それは春川の推測でしかないと思う。好きだ、ってストレートに言うだけが好きの形じゃないと、僕は思う。だからきっと、お母さんは幸せだったと思うよ」
そう言うと、春川は、ぐっと下唇を噛んだ。そして、少しだけ笑うと「良かった」と呟いた。
確かに
「私、死のうと思ってたんです、実は」
「えっ」
「それで、最後に先生にお別れを言おうと思って。それで声をかけたんです」
「そ、そんな……」
「私がお父さんの子じゃないとしたら、私とお父さんを繋ぐのはお母さんしかいなかったんです。そのお母さんがいなくなっちゃって、私は、もうどこにも居場所がない気がしてて」
ずず、と鼻を啜る音が聞こえて、思わず春川を見る。ほたり、ほたりと、涙が彼女のセーターに小さな染みを作っていた。
「そしたら、お母さんが昔言ってた捨てるのがもったいなかったから、っていうのを思い出して、何だかお情けで産んでもらったのかな、って思って。そう考えたら、どんどん寂しくなっちゃって。いっそ死んじゃおうかなって」
「そんな、駄目だ。死ぬなんて」
「大丈夫です。もうそんなことしません。だって、命を捨てるのは、もったいないことですもんね。『もったいない』は悪い言葉じゃないんですよね」
「そうだ。大切にしたいものに使う言葉だ」
「私は愛されていたんでしょうか」
「春川が健やかに育っているのがその証拠じゃないか」
その言葉だけはまっすぐ彼女の目を見て言えた。
僕は、そうじゃない子ども達を何人も見てきた。
春川がもし、本当に愛されていなかったとしたら、それは目に見える形で表れているはずだ。
だから、その点では、彼女は間違いなく愛されて育ったと断言出来る。
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