第5話 すべては推測である
「先生、お母さんは、幸せだったと思いますか」
その時の春川の視線が怖くて、僕は、目を逸らした。
答えられるわけがないじゃないか、そんなこと。
逃げ出したかった。その場を。
何も聞こえないように大声で叫びながら、逃げ出したかった。
『私の本当のお父さんって、先生なんじゃないですか』
春川の目がそう言っているような気がして。
違う。
いや、違うとは言い切れないのだ。
僕と
確かに僕達はそういう行為をしていた。けれども、どんな時でも毎回きちんと避妊はして――、いや、
『捨てるなんて、もったいないじゃない』
もしかして、それは、アレだったのではないか。
ゴミ箱の中に捨てたはずの避妊具の中身を――もしかして。
だとしたら。
だとしたら。
僕は何も言えなかった。
この場をおさめられるような魔法の言葉――というのは、大人が子どもを丸め込むのに適した、という意味でだが――が浮かんだとしても、そんなものでやり過ごしてはいけないような気がしたのだ。
「すみません。先生をそんなに困らせるつもりはなかったんです。忘れてください」
そうして、言葉を探しているうちに、春川はそう言って走り去ってしまった。
正直、助かった、と思った。
僕が本当の父親かもしれない、なんてうっかり口を滑らせかねなかったから。
だけど、僕は紫陽が既婚者だったなんて知らなかったのだ。
いま思えば、あのネックレスに通していた指輪は結婚指輪だったのだろう。あの時計も旦那さんからのプレゼントだったのだろう。『もう好きじゃない人』からもらったとは言っていたが、過去の恋人だとは言っていなかったのだ。例え婚姻関係にある亭主であっても、『もう好きじゃない』場合だってあるだろう。
じゃあ、僕に対しては愛情があったのだろうか。
愛情があったから、僕との子どもが欲しいと思ったのだろうか。
「私がいたら、あなたは教師になれない」
あの言葉は、つまり、「あなたと私は不倫関係にあるから」という意味だったのではないか。だから、僕のために身を引いてくれたのではないか。
それでも、僕との子が欲しかったのだ。
僕との思い出を『形』にしたかったのだ。
僕達大人は思い出を『形』にしないとどんどん忘れてしまう。いや、それは大人に限ったことではないかもしれないけど。
『私は、捨てるのがもったいなかったから、産まれたんです』
春川の言葉だ。
紫陽にとって、捨てるのがもったいない、ということは、つまり、大切にしたい、ということだ。
もちろん、これはすべて僕の推測だ。
本当のところは紫陽にしかわからない。
春川が本当に僕の子かどうかだってわからない。
可能性がある、というだけで、本当は旦那さんの子なのかもしれない。
そう考えてみれば、だ。
春川が僕に似ているところなんてひとつもないのだ。
確かに紫陽には似ているけれども、完全に同じ顔、というわけではない。ということは、紫陽の要素だけではなく、旦那さんの要素も加わっている、ということである。
そうだ、僕の考え過ぎだ。
第一、そんな方法で簡単に妊娠出来るわけないじゃないか。
そう思いつつも、それからは何となく春川と距離をとるようになってしまった。
彼女の方でも同じ気持ちだったのかもしれない。春川の方でも何となく、僕を避けているような素振りが見られた。けれど、僕らはただの教師と生徒である。特別べたべたと関わる必要なんてまったくないのだ。受験を控えている3年生ならまだしも、彼女はまだ1年生なのである。
だから、程よい――と言うには多少遠すぎるかもしれないが――距離を保ってあくまでも『担任教師』というポジションに徹することにした。
そして、あれから公園で春川に会うこともなくなっていた。僕を避けているのか、それとも、紫陽花が散ってしまったからなのか。
もしまた偶然ここで会えたら、「先生、母は、幸せだったと思いますか」の僕なりの答えのようなものを伝えるつもりだった。さすがにこれは学校で話すことではないだろうと思ったからだ。例え進路指導室などを借りて2人きりになれたとしても。これは、学校で口にする話ではないような気がした。
いや、それを理由にして逃げていただけかもしれない。
きっともうここで会うことはないだろう。
だから、そういうことにしておけば、僕はずっとこの話から逃げられる。
と、思っていたのだが。
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