第2話 捨てられた男
「あれは、誰からのプレゼント?」
ピアスの穴もあいていなかったし、指輪もしていなかった。華奢な彼女の腕にはめられた少々ごつすぎるように見えるクロノグラフと、細いネックレスに通されたシルバーのリングが彼女の美しい鎖骨の上にちょこんと乗っかっていただけだった。
うにゃうにゃとミミズが這ったような筆記体で書かれたメーカーのクロノグラフは、決してロレックスだとか、そういう高級時計の類ではないらしく、それに比べたら「全然安物なのよ」とのことだったが、文字盤とベルトが黒で彼女の服装によく似合っていた。安物とはいえ、1000円2000円で買える品でもない。きっと誰かからのプレゼントだと思った。それにあのネックレスに通された指輪。アレだって、もともとそういうものではないだろう。贈った側はきっと、ペンダントトップとしてではなく、指輪として彼女にプレゼントしたはずだ。
だから、そう尋ねた。
僕らが初めて肌を重ねたその直後のことだ。そういうきっかけというか、勢いでもなければ聞けなかったのだ。情けない男だと笑うが良いさ。
紫陽は気だるげに乱れた髪に手櫛を入れ、「もう好きじゃない人」とだけ言って笑った。
「捨ててよ、それなら」
新しい時計なら、僕が買ってやる。
指輪だって、何なら僕とお揃いのを――、
「捨てるなんて、もったいないじゃない」
その言葉一つだった。
その言葉一つで、僕は黙った。
あとから思い返してみれば、正直納得出来るものではなかったのだが、なぜかその時はそれで引き下がってしまったのだ。何だか、刃物を首筋にあてられたかのように、ぞわりとした。蛇のあの長い舌が、僕の額をつぅ、となぞったような感覚を覚えて手を当ててみれば、なんてことはない、僕自身の汗だった。
蒸し暑い夏のことだったから、汗の一つや二つ、何の不思議もなかった。けれど、エアコンはガンガンに利いていて寒いくらいだったのに。だけど、汗は一向に引かなかった。
実家から送られてきたムードもへったくれもないタオルケットだけを身体に巻き付けた紫陽が、妖艶な笑みをこちらに向けている。それがただ、僕を熱くした。若かったのだ、その時は。
いつしか、何に恐怖を感じていたのかわからなくなった。
紫陽を抱いている時は、もう彼女のことしか考えられなかったから。
彼女と重なる時は、大抵、一回では済まなかった。
僕は毎回全身全霊を尽くして、彼女を抱いた。そうして、ピロートークもままならないまま寝落ちして、朝になれば、そこに紫陽はいなかった。それで、いつも書き置きだけがテーブルの上にあった。
そんな日々がずっと続くものだと思っていた。
紫陽がいてくれるなら、教師になんかなれなくても良いかな、なんて思い始めていた。そうだ。別に教師じゃなくても良いじゃないか。地元に戻れば、塾の講師だとかあるだろうし、それくらいなら……なんて思っていた。紫陽と僕とで、慎ましく生きていくんだ。なんて。
紫陽が僕の元を去る、一週間くらい前のことだった。
その日も僕の部屋で何度も互いを求め合った。
紫陽は実家で暮らしているとかで、決して家には招いてくれなかったのだ。
そうして、いつものように、心地よい気だるさと疲労感の中でまどろんでいると、頼りない豆電球の明かりの下で、下着を身に着けている紫陽が目に入った。どうやらいつもかなり早い時間にここを出ていたらしい。
まだ日付も変わっていないじゃないか。
そう言って呼び止めようとしたが、もう右手を持ち上げる力もなかった。ただただ眠かった。疲れてて、眠かった。また会おう。明日か、明後日か。そう思って再び目を閉じる。その時の僕にとって、彼女は特に繋ぎとめる努力なんかしなくても、側にいてくれる存在だったから。
おやすみ。
そう心の中で呟いて、夢の世界へと足を踏み入れた時だった。
「捨てるなんて、もったいないじゃない」
そんな声が聞こえた。
それも夢の中の言葉だったのか。定かではなかった。
ただ、その後間もなくして、紫陽は僕の元を去ってしまった。
その晩が、最後になってしまったのだ。
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