葉桜の君に

宇部 松清

第1話 捨てない女

「捨てるなんて、もったいないわ」


 それが彼女――紫陽しはるの口癖だった。

 

 例えば僕が慣れない料理に挑戦して、ちょっと厚めにじゃがいもの皮を剥いてしまった時。

 それから、胸のところにちょっとした穴があいてしまったシャツを捨てようとした時。

 それから、僕が教師の夢を諦めようとした時。


 厚めに剥いてしまったじゃがいもの皮は、きれいに洗ってからりと揚げてくれた。塩をパラリと振って、それをつまみながら二人で映画を見た。

 シャツの穴にはちょっとオシャレなエンブレムのアップリケを付けてくれた。セールワゴンに入っていた安物のチェックのシャツが、世界にひとつだけのお気に入りになった。

 

 そして――、


「私がいたら、あなたは教師になれない」と言って、僕の前から去った。


 もちろん僕は反論した。

 むしろ君がいなくちゃ頑張れないよ、なんて弱いことも言った。

 けれども彼女は行ってしまった。


 なぜ彼女がいたら教師になれないのか、その時はさっぱりわからなかった。ただ、その時の僕は、彼女にかなり依存していた――まぁ、よく言えば夢中だった――から、確かに勉学の方は疎かになっていた。だからたぶん、そういうことなんだろうと思い、教師になって見返してやるんだ、というよりは、教師になれたら彼女の方から戻ってきてくれるんじゃないか、なんて考えていた。


 それから数年が経ち、僕に新しい恋人が出来た。丸顔で、愛らしい顔立ちの子だ。紫陽は僕よりも5つ上だったが、その子は4つ下だった。


「ねぇ、それ、もう捨てたら?」


 それが新しい彼女、舞美まいみの口癖だった。


 それが良いか悪いかは別として、彼女はとにかく何でもすぐに捨てるタイプだった。何でも捨てる、というのは少々語弊があるのだが、つまり、良いものをメンテナンスしながら長く使う、ではなく、安いものを買って使えなくなったら捨てる派だったというわけだ。


「その方が常に新しいものを使えるし、経済もそっちの方が回りそうじゃん?」なんて、事も無げに言いながら、まだ使えそうなものを次々と捨てていく。

 洋服はもちろん流行の先端のものを選び、それが廃れると傍目にはまだまだ新品のように見えるものでも躊躇なく捨てる。


「さすがにそれはもったいないんじゃないか?」


 と僕が言うと、舞美はさすがにちょっとばつの悪そうな顔をして「これは安いやつだから、良いの。それにいまこんなのを着てたら笑われちゃう」と返すのだ。

  

 正直僕は女性のファッションのことなんて何もわからないので、そう言われたら引き下がるしかない。そりゃあ僕だって自分の彼女が笑いものになるなんて嫌だし。


 けれど、ずっと引っ掛かるのだ。


 流行り廃りなんて関係のない落ち着いた色のニットとジーンズを身に付けて、親戚の方から譲り受けたらしい上等な革のバッグをきちんと手入れしながら長く使ってた紫陽のことを。


 彼女の影響で、僕は、昔に買った安物のシャツも繕いながら大切に着るようになったし、新しく何かを買う場合には、多少値が張ってでも長く使えるものを選ぶようになった。

 

 そういう価値観のズレが原因だったのだろう、舞美とはクリスマスの後、年をまたぐ直前に別れることになった。僕がプレゼントしたペンダントがその時の流行のものではないからといって、捨ててしまったのである。


 さすがに僕からのプレゼントを捨てるつもりはなかったらしいのだが、新年を迎える前に不要なものを処分しようとしたところ、ついいつもの癖でごみ袋に突っ込んでしまったのだという。そこへ、半同棲状態だった僕が、その瞬間を目撃したというわけだ。


「違うの。たまたま目に入って、それで……」

「たまたま目に入って、それで捨てたってことは、つまりいらないってことだろ?」

「そういうわけじゃ……ないけど……」

「悪かったな、ダサいものプレゼントしちゃって。流行に左右されないようなデザインを選んだつもりだったんだけど」


 その後は、そりゃあケンカになった。

 舞美は「葉君は私の好みを全然わかっていない」と声を荒らげ、僕もついそれに乗っかり「じゃあ流行の最先端の安物をあげりゃ良かったのか」と返す。お互いに、相手を確実に打ち負かせる言葉を探していた。


「ちまちまツギハギしてまで着るなんて、貧乏人みたい」

「お前はころころ男を変える尻軽みたいだな」


 そんなことまで口をついて出て。

 たぶんそれまで、心のどこかにそれはあったのだろう。じゃなきゃ、咄嗟に出て来るわけがない。

 そして、出てしまった言葉はもうどうにもならない。お互いの放ったその言葉は、お互いを的確に刺した。こうなればもうどうにも修復なんて不可能だった。


 そんな経緯で、僕は舞美と別れた。

 教師になって3年目のことだった。


 

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