少年は青年になる

 高校卒業後は専門学校に進学した。コツコツとアルバイトをしてお金を貯める毎日だ。

 勿論今でも絵は描き続けている。

 最近はこの公園が気に入っているんだよな。

 広くて解放感がある。夜は人通りが少ないから静かだ。

 夜に描きたくなったらここに来ることが多い。

 ただ自然が多い分、虫もたくさん生息している。

 夢中になって絵を描いているのをいいことに、こっそりと刺すだけ刺してどこかへ行ってしまうのはやめてほしい。

 虫よけスプレーを肌に吹き付けた。

 夏がもう少しで来そうだというのに、風が肌を掠めると肌寒く感じる。虫対策も兼ねて、もう一枚羽織ってくればよかった。

 わざわざ家に戻るのも面倒なので、我慢して絵を描くことにした。


 この間描いたブランコの絵は結構いい出来だったな。

 フラゴナールのブランコには足元にも及ばないけれど。

 風景ばかり描いてきたから、人を描くのはあまり得意ではないが、描きたかったものに近いものを描けた気がした。

 僕はふと思い出す。

 あの絵を描いているときに声を掛けてきた青年は誰だったのだろうか。

 彼は彼独自の世界を生きているように思えた。

 漫画の読み過ぎかな。ただの憶測だ。


 絵筆の重みを手のひらに感じて、ついさっき描き終わったばかりの絵に向き直った。

 高校生、懐かしいな。みんな元気だろうか。

 あの黒板の絵の件で与えられた孤独は、どこか斜に構えた態度をしていた僕への戒めだったのかもしれない。

 〈やっち〉は僕にも力があるって言ってくれた。

 それを聞いた当時は「そんな馬鹿な」と流してしまったけれど、今更になって少し信じてみたくなった。

 その力は誰かを支えられるのだろうか。

 僕は絵を描く者だ。僕は絵画が好きな者だ。そして、犯罪者だ。


「相変わらず、いい絵だな」

 顔を見なくても誰の声か分かった。

 この間とは違う。丁度思い出していた彼の声だ。

「〈やっち〉」

 初めて〈やっち〉と話したのも夜の公園だ。

 僕が火を起こした夜もそう。隣には彼がいた。

「久しぶりだね。なんでここに?」

「たまたまだよ。公園で絵を描く男の情報が耳に入って、もしかしたらと思ってって来てみたら、案の定そうだった」

 照れくさそうに笑う顔は高校生の時と変わらない。

「〈やっち〉って呼ぶの子供っぽいかな」

 彼は「高校時代でも十分恥ずかしかったけどな」とペロッと舌を出した。

「篠塚君」

いつも〈やっち〉とばかり呼んでいたから少し違和感がある。

「名前は?」

「保典」

 篠塚は満足そうに頷いた。

「よかった。みんなに〈やっち〉って呼ばれてたからさ。フルネーム知らないのかと思った」

「知っている人は知っている」

 似たようなことを言われたことがあったな。

 篠塚は「当たり前だね」と言って、僕の手元の絵を覗き込んでくる。

 僕は再会のタイミングが急すぎて動揺していたが、平静を装っていた。

 篠塚はまじまじと絵を見つめている。

 矛と盾を手にしている男が丘の上に立っている絵。

 柔らかい光に包まれている男。これから誰かを助けようと立ち上がる男。

 僕はそういう絵にしたかったのだが、上手く表現できているだろうか。

 人物画はもっと練習が必要だ。たくさん練習して、もっと誰かを支えられる絵を描きたい。

 篠塚は写真を撮ってスマホをポケットにしまうと、僕に缶を手渡した。

 手の中にある缶を見て、思わず「あっ」と声を上げてしまった。

「コーンポタージュ」

「懐かしいでしょ?」

 シュパッとプルタブの音が響いて、飲み口の少し下らへんをへこませる。

 こうするとコーンの粒が底に残りにくいと教えてくれたのは篠塚だった。

 温かくて甘いポタージュが僕の緊張をほぐした。

「かずま。そういえばさ」

 篠塚の横顔が僅かに引き締まった。

「昔、海外の美術館に行きたいって言っていただろ?」

「ああ、うん」

 何気なく言った将来の夢をよく覚えていたものだ。僕は感心する。

「一緒に行かない?」

「え」

 不安そうな顔でこちらを見ている。

 僕もそのためにお金を貯めているし、篠塚がいれば心強いけど。

 鼓動が速くなっていくのを感じる。

「いいの?」

「かずまが誘われているんだよ?」

 ああ。なんて幸せ者なのだろう。

「ありがとう。では、お供します」

 僕は深々と頭を下げる。

「お供しますって、なんだよそれ」と愉快そうに笑う声が降ってきた。

 篠塚には一生恩を返しても返しきれないような気がする。

 さっきまで描いていたあの絵。僕は英雄を描きたかった。

 ギリシャ神話に出てくるペルセウスを思い浮かべて描いたんだ。

 ペルセウスは素敵な英雄だと思う。怪物を倒して、生贄となっていたアンドロメダを救った男。

 そんな彼でさえ見る角度が変わると、「悪者だ」「邪魔者だ」と言われていたらしい。

 それでも誰が何と言おうと、アンドロメダにとっては英雄であることに違いはないだろう。

 ペルセウスはあの矛と盾を誰かを助けるために使ったんだ。

 傷つけるためじゃない。

 誰かを救うための行動力の象徴だった。

 助けようと思って動いている人はあんなにかっこいい。

 篠塚がペルセウスと重なっていた。高校三年のあの日から。

 リスクを覚悟して飛び込んでくれた。僕の為だったことが何より嬉しかった。

 篠塚の目に僕が映った。

 本当はね、英雄。僕はあなたを描きたかった。

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本当はね、英雄 糸師 悠 @i10shi_yu

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