第8話

 出だしの数メートルをヤタが漕ぎ、残りを香帆とネイラで交代に漕ぎながら、照りつける太陽の下、島にようやく近づくことができた。近付く度に大きさを増し、鬱蒼と茂る森が、しんと静まり返り、近寄り難さを濃い色にしていた。ネイラはオールを動かしながら、視界に映った島を一瞥した。

「大きいのね…」

「ほんとね…リングバー島と大きさが似ている気がするけど、どっちが大きいんだろう…」

「比べたことはないから、俺にはわからないけど…だいたい同じくらいか、こっちのが一回り小さいくらいだと思うよ。一応…歩き回ったことは、あるから…」

「歩いたの?この島を?」

「うん…ここに流れ着いたときに、食べ物とか…誰かいないか、探して。結局人は…見つけらんなくて…木になってたものとか、適当に食べたんだけど…」

 ちょっとだけ表情が暗くなったような気がして、掘り出してはいけないと思い、それ以上は尋ねなかった。

 小舟でゆっくり近づき、視界いっぱいを緑が覆いつくすくらい、近くへ寄った。しかし程よい岸が見つからず、目の前には断崖絶壁。とても小舟を停めることの出来る場所がなかった。半周程オールを動かし島を回り込むと、ようやく着眼できそうな、小さな空間を見つけた。そこは水草が生い茂り、砂地ではなかったが、湾のようになっており、小舟を隠しやすく、水草が密集していた為、置いておいても流される心配は無さそうだった。ネイラは方向を起用に変え、湾のようになった所へ、スーっと船先を突っ込ませていった。小舟はスイスイと進み、やがて土手になっている部分へぶち当たると、ネイラがオールを逆にしてそこに突き刺し、ヤタが力ずくで更に押し込んだ。刺したオールと、船の漕ぎ手用の台座を、ビシューからもらった腰ひもで括り繋いだ。その後、横にある岩がゴロゴロとしている場所へ荷物を放り、順番に飛び移った。

 三人は平らな場所を探し、そこで休憩と昼食をとることにした。

 残り少ない食料を分け合い、満腹ではないお腹を誤魔化しながら、これからのことを話しあった。時間は正午過ぎくらいだったので、まだ充分動き回れる。二人が交代でオールを動かしてる間、軽く仮眠をとって、体力を温存していたヤタの体力が消えないうちに、明るいうちに、行けるところまで行ってしまいたかった。

「ネイラの島までは、こっから近いの?」

「この島の一番先端の所から、妖精族の大人たちが出てくるのを見たんだ。だからそんなに遠くないと思うけど、潮が引かないと、俺たちは、行けないと思う…」

「私だけ行くなんていやよ。ちゃんとお礼もしたいし」

「けど、秘密主義の一族だから…よそ者に、いい顔はしないと思うんだ。いれてくれるかも…分からないし…ネイラの為には、ここで別れた方がいい…」

「絶対大丈夫よ!私が説得するから!」

「人が踏み込むなんて、許されないよ」

「きっとわかってくれるわ!」

「俺は…行けないよ…」

「どうして!」

「二人とも落ち着いて!とりあえず、そこまで行ってみない?まだ日没まで遠いし、ちゃんと目で見てから、それからどするか決めましょう?」

「まあ、行くだけなら…ついて行くだけなら…案内するよ」

三人は海岸伝いに歩みを進めていった。朝、あれだけ弱っているように見えたヤタも、だんだんと体力が戻ってきたらしく、歩を進めるごとに、あんなに揺らぎまくって、もつれまくっていた足運びも整っていき、ネイラや香帆を追い越し、少し前を歩けるくらいに回復していた。途中、岩肌の間からちょろちょろと湧き出る水があり、そこで小休憩を取ったり、木になっていた、食べられそうなフルーツをもいで食べたりと、少しずつ着実にゆっくりと歩みを進めた。

 見えてきた島の先端部には、大きな石がたくさん転がる、岩礁のような無機質な場所だった。ただ、そこから見える範囲には、他の島影はなく、だだっぴろい海が、岩に打ち付け波打っているだけだった。

「本当にここなの?見た感じ海しか見えないけど」

「詳しくは知らないんだけど、なにか特殊な膜?のようなもので、島全体を覆って隠してるんだと思う。ネイラなら知ってるんじゃないかな」

 歩みを緩めることを止めずに、ヤタはちらっとネイラに視線をおくった。ヤタと目が合ったネイラは言い淀んでいたが、

「…結界みたいなのを張ってるのは本当よ。でも私もどうやってるのかまでは知らないの。大人たちはみんな知ってるみたいだけど、私はまだ…」

 ネイラがそう話しているとき、ふいに物陰から何かが飛び出て、前を歩いているヤタを押し倒し、羽交い絞めにすると、刃物を突き出し、後ろにいた二人へ向けた。ヤタはまだ全快しているわけでも、体力が全て戻ったわけでもなかったので、屈強な男の力に抗えず、ねじ伏せられもがいていたが、なかなか振りほどくことができずにいた。

「大人しくしろ!後ろの二人も動くなよ。動けばこいつの首が飛ぶ」

「ヤタを離して!まだケガが治ってないのよ!」

「こいつがケガをしていようとなかろうと、俺らには関係ない」

「は!?何よそれ!何もしていないのに!何者なのよ!」

「お前らには関係ない。ここに何しに来た」

「さっ…さと…離せよ…」

「うるさい!子供だから殺されてないんだぞ。少しは感謝したらどーだ!」

「上に…乗ら…れて、感謝なんか…できるかよ…」

「黙れ、死にたいか小僧」

「待ってよ!まだここにきた目的は言ってないわ!言ったら話してくれるんでしょう?」

「場合によっては、返答次第で全員ここからだすわけにはいかないがな」

  香帆が怒りのあまり、男に飛びかかる勢いで一歩踏み出した時、横にいたネイラの手がそれを阻止した。ネイラは首を横に振ると、男に聞きとれないような小声で、香帆に話しかけてきた。

「見たところ、賊のたぐいではないから、もしかしたら見張りかもしれない…」

「それなら、ネイラも仲間だという証拠を見せれば…」

「確実にそうではないとは言い切れないから、まだ、手の内は明かせないかも…」

 危険な手段に出るのは、最悪の時、最後の切り札として取っておかないといけない。まだネイラを危険にさらすには早すぎる。香帆はそれとなく、目的としては間違っていないと思われる目的を、少しだけ変えて言った。

「私たちは、彼女の親を探して旅しているの!だから怪しい者じゃないわ」

「親?この島にか?」

「そうよ。ここにいるって垂れ込みがあったの」

「残念だが、この島に人は住んでいない。他をあたれ」

「そんなはずないわ。だったらあなたはどうしてここにいるの?人がいるって証拠ではないの?」

「俺はただの見張り役だ。ここには踏み入ってはならない場所があるのでな、そこをお前らみたいな侵入者から守っている。わかったら本当のことを言え。見え見えの嘘をついても、寿命が縮むだけだぞ」

 いつの間にか手を縛られ、手で頭を押さえつけられたヤタの首元に、先ほどの鋭利な刃物が向けられた。

「ネイラ…どうしよう…」

 拳を固く結んで、ヤタの方をじっと眺めていたネイラは、目線を男に合わせ。覚悟を決めたように口を開いた。

「ディナシーランド」

「え?」

 香帆はネイラの言った意味がよく分からなかった。ただ、どこかでこの言葉を聞いた気がした。

「貴様。なぜそれを」

「私はそこの住民です。あなたもでしょう?」

 男は黙ってネイラを見つめた。男の格好は山賊や海賊の物とは少し違い、履いているズボンにも羽織っているマントにも敗れたような箇所はなく、被っている帽子も、深く被れるように、頭の部分をほぼほぼ覆ってしまうような大きめの帽子、顔ははっきりとは見えないが、浅黒くはなく、むしろ色白に近く、小綺麗な格好に見えた。男は、ネイラに質問を続けた。

むらはどこだ」

「北の外れのミノウ」

おさは」

「ネック様」

「母の名は」

「フィル」

「年は」

「十四」

「なぜここにいる」

「買い物に言ったら、変なのに捕まって」

そこまで言うと、男はヤタをじろっとみた。

「彼らじゃないわ!二人は私を助けてくれたの。わざわざ遠回りして、ここまで送り届けてくれたの。だから彼を離して」

「証拠は」

「まずはあなたも何者か教えてくれないと、見せられない」

 ネイラは男から目を逸らすことなく、睨み続けた。そして男は深く被っていた帽子を握りこむと、サッと取り去った。そこから現れたのは、特有の、あの鋭利な耳だった。

「お前の番だ」

ネイラは、昼食時に香帆が結びなおし、束ねた二つの結びを解き、耳に髪をかけた。

「これで信じてくれるでしょう?さあ離して」

男はフンっと鼻を鳴らすと、縛っていた縄を切り、ヤタの上から下りた。

「いいだろう。同郷の仲間ならばこれ以上は止めない。しかし人間。お前らは違う。この島は我らの土地だ。さっさと去れ。そうすれば危害は加えない」

「何を言ってるの?ここまで連れてきてくれたのに、このまま帰れだなんて、そんなの無理に決まってるでしょう」

「お前を送り届けに来たのなら、任務はここまでだ。ここから先は我らの居住区。人を入れるわけにはいかない。お前はそう習わなかったのか」

「それは!知ってるけど…でも、ここで別れるなんて無理だわ。折角、助けたのに…またそっちに追い返すなんて出来ない…それに私はまだ一緒にいたい」

「どういう理由があろうと、無理なものは無理だ。」

おさに!ミノウの長に知らせて!そうすれば許可してくださるわ!」

「小娘が何をいう。訴える先を変えても、結果は変わらん。わがままを言わず、二人を送り出してやれ」

「聞いてくれるくらい、してくれてもいいでしょ」

 ネイラは一歩も食い下がらず、断られても断られても食らいついて諦めなかった。どちらも頑固で一歩も引かなかったが、辛抱強さは女の子の方が強いのか、最後は男が折れ、聞いてくれることになった。男は口笛を吹き、何かをこちらへ呼び寄せ、それはパタパタと手の甲にとまった。綺麗なオレンジ色の毛色をして、先に行くほど黄色味を帯びた、華麗なグラデーションでその身を染めた小鳥だった。男は小鳥になにか小言を吹き込み、終わると上へ手の甲を掲げ、カラフルな鳥は男の手を飛び去った。

「返事が来るまで全員ここで待機だ」

 日も沈みかけ、世界が闇色に染まろうとしていた。時間的にはまだ問題ないが、鳥は夜目の為、暗くなると空を飛べない。今日中に戻ってくることは無理だった。

「ねえ、ここで夜を明かさせるつもり?」

「人間がいる。宿所へは連れていけない」

「そんな…じゃあせめてもう少し、風の当たらないところまで…移動してもいいでしょ?」

「こっちだ」

 男は不愛想に踵をかえすと、森の中へザクザクと足を踏み入れた。ネイラは『行こう』と合図をすると、男の後ろへついて歩いた。押し倒されたヤタも、胸元や手首を撫でつけながらしぶしぶ従った。香帆はヤタに声をかけ、先に行ってもらい、念のため最後尾を歩いた。

 男は森を熟知しているのか、ズカズカと迷うことなく歩き、やがて少しだけ開けた空間で足を止めた。

「ここなら風はこない。側に湧き水もある。朝までここで過ごせ。朝になったらまた迎えにくる」

そのまま男は、来た道とは逆に進み、遠ざかって行く足音と共に、やがて見えなくなった。

「なんなのあれ!ほんとにネイラと同じ仲間なの?信じらんない」

「外での任務は大変で、強くないと出来ないって言ってたから。島を守ろうとする心も強いんだと思う。人を疑う…仕事だから」

「まあ…ね…そうしちゃったのは、人だから、仕方なんだろうけど…先に線を引いてしまったのは、手を出してしまったのは、人だし…」

「みんながちゃんとわかり合えれば、こんな仕事も、島を覆う結界もいらなったのに」

「人は…きっと変わらない…だから、あいつは…正しい…」

「ヤタ…」

 暗くなってしまった空気は、そう簡単には取り払えず、沈黙が流れた。そんな雰囲気を破ろうと、香帆は思い切って切り出してみた。

「もし、もし私たちが島に入れなかったら、ネイラはどうするの?」

「ネイラは…返す。ちゃんと、送り届ける。例え俺たちが行けなくても、それが、初めにかわした約束だ」

「私は、二人を置いてはいかないわ」

「ダメだ。帰るんだ。後のことの心配はいらない。元の道を辿って…戻るだけだから」

「それがダメなの!約束したの、ジルさんたちと」

「心配しなくても、あの屋敷には近づかない。港に、あの小舟で行くだけだ」

「あの島に、まだ行ってほしくないの。きっと大騒ぎになってるから、あの人の手下がうろうろしてるかもしれないのに…」

「大丈夫だよ。今度はうまくやってみせる。絶対…捕まらないよ。俺も…もう、戻りたくは…ない…」

「私も、ヤタを守るわ。それに、ケイブさんからもらったお守りも、ヤタを守ってくれるわ。だから…」

 ネイラは下を向いて、ポタポタと服の裾を握りこんでいる手を濡らした。またこの子を泣かせてしまったなと、香帆は優しく背中を撫でて諭した。

「大丈夫よ、ネイラ。きっとうまくいくわ。何もかもうまくいく」

「私は…みんなと…いたい…いやだよぉ~~行かないで…」

 寒くなってきた空気を温めるため、ヤタは薪に使う枝を拾い集め、火打石を打ち鳴らし、焚火を起こした。火は煌々と赤く染まり、パチパチとはじける音が響く。炎をしばらく見ていたネイラは、やがて落ち着きを取り戻した。

「ごめんね。まだ離れるなんて決まってないのに、泣いちゃって」

「そんなことないよ…」

「ネイラのむらの長に言ったら…状況が変わるのか?」

「変わる。絶対に入れてくれる」

「どうして分かるの?」

「私ね、人との間に…生まれた子なの」

ということは、両親のどちらかが妖精ではなく、人間ということになる。 ネイラの突然の告白は、二人の度肝を抜く内容だった。まさかのカミングアウトは、ヤタに続いて二度目だ。ネイラの話によると、父と母は偶然に街で出会い、そのまま恋に落ちた。ネイラの母は身寄りのない父を、黙って島へと連れ帰り、一緒にしばらく暮らして、やがて二人の子供を授かった。長には連れ帰ってすぐバレていたらしいが、それらしいお咎めも特になく、いたって平穏な島暮らしだったのだという。

「何も言われなかったの?じゃあなんで、あの人はあんなに頑なに嫌がるのかしら」

「前例がないからよ。こっそり連れ込むのと、真正面から堂々と連れ込むのでは、全然違うもの」

「でも、許してくれるんだろう?ネイラんとこの長はさ」

「うん!絶対!」

 それから三人で、恐らく最後になるであろう、ささやかな晩餐をした。豪華な食事ではなかったけれど、それはとても格別で、いつもの粗末な食事が数倍美味しく思えて、とてもしょっぱかった。

 翌朝、一番早く起きたのはネイラだった。ネイラはそっとヤタの側まで行き、まだ寝ている寝顔に軽く触れると、おでこにキスをした。昨日あれだけ虚勢をはって、大丈夫と言ったがやはり、ちゃんと二人の許可が下りるか、不安で仕方がなかったのだ。もしもの時のため、せめて…と、朝まだ誰も起きてないのを見計らって、そっと想いを伝えた。それからまたそっと立ち上がり、元の場所へ戻ろうとした。

「お前は、そいつが大事か」

声がした方を振り向くと、昨日の男がそこにいた。肩には昨日放った小鳥がちょこんと止まっており、可愛らしく小首をかしげていた。

「見てました?」

「いいや。何も見てない」

「そうですか」

ネイラはそのまま元いた場所にトンと腰を落とすと、

「その伝書鳥がいるってことは、答えは出たんですか?」

立ったまま動こうとしない男に向かって、素っ気なく尋ねた。

「ああ、返事は来た」

「長はなんて?」

「それはあとの二人が起きたら伝える。二人を、起こしてくれ」

ネイラは言われるまま、まずは側に寝ていた香帆を揺り起こし、次にヤタの元へ行き、同じように揺り起こすと、寝ぼけた風な二人を置いて、男は話を始めた。

「全員起きたな。ミノウの群長むらおさから返答があった…結論から伝える」

寝ぼけた顔をしていた二人は、目が冴えてきたのか、男をじっと見て、息を飲むような仕草をしていた。

「群長は、許可を出した」

「やったぁーー!やったねネイラ!」

「うん!よかったー…自分で言っといて自信なくて…ちょっと焦ってたんだよね実は」

ヤタは何も言わなかった。何も言わず、ただじっと男を見ていた。ヤタが何かを感じていた通り、男の話にはまだ続きがあった。

「ただし」

「ただし?群長はまだ何か?」

「群長と我ら管理部の出した条件を飲んでもらう」

「やっぱりか…そう簡単に許可が下りるとは、思ってなかったからな…」

「で、条件て何なの?泳いでこいとかそういうこと?」

「泳がなくても、こちらから緊急用の船を出す。条件は別だ。一度島に入ったら、居住をこちらに移してもらう。島外への外出は最小限。外で暮らすことはこの先出来ない。それでもいいなら入島するといい。迎えは昼頃来ることになっているから、それまでに決めてくれ」

男のはそれを言うと、スタスタとその場を去っていった。残された三人は、どうすればいいかわからずに途方にくれていた。島に永住しろと急にいわれたので、小さな混乱の中にいた。

「なんか、変な条件だよね。ごめんね…」

「私は平気よ。全然ついて行くわ。少し、びっくりしたけど」

「俺は…」

「無理しなくていいから、ほんと!わりと無理やりな、横暴な提案だと思うし!!」

「いや…俺は…行くよ。買い物とかには、出られるんだろ?その時にでも、置いてきた荷物、移動するし。そんなに…というか、全く…外に未練なんてないしな…」

「ありがとう。二人とも…ごめんね…ありがとう」

 三人は昨日の夜に、朝食用に残して取っておいた物を食べ、ネイラに、ミノウの群での暮らし方を聞いたりして、昼まで時間を潰していた。やがて、男が森の奥から現れて三人の総意を聞き、頷くと迎えがくるという岩場まで歩いて向かった。岩場に着くと男は、

「俺は、持ち場に戻らなくてはいけないから、案内はここまでだ。迎えは見れば分かる。それまでここで待て。じゃーな」

「え?ここで、放置なの?え?」

「待ってれば分かんなら、いいんじゃない?」

ということで、男を見送ると三人は岩場で立ち尽くして、迎えを待った。

「来ないねぇ」

「来ないなぁ」

「遅いねぇ」

 香帆・ヤタ・ネイラの順で似たような言葉を放ち、岩場の少し手前にある、開けた空間に座り込んで、ただただ見えないはずの島を見て迎えを待った。次第に退屈してくると、地面に落書きをしたり、その辺の草を意味もなくむしったりして、各々時間をつぶし、手持ち無沙汰を解消した。そうこうしているうちに、ようやく、海の上に急に小舟が現れた。一番始めに気づいたネイラは立ち上がり、それを指差した。

「ねぇ、あれ、そうじゃない?」

「さっきまで何もなかったのに…」

「ようやくか…」

ヤタも香帆も立ち上がり、こちらへ舟先を向けてゆったりと向かってくる小舟を見つめていた。

「ねぇ、二人ともホントに大丈夫?」

「いったろ。未練はないさ」

「私も」

そう話す二人の後ろで香帆は少しだけ、違和感を感じた。なんだか、声がぼやっとしたような気がしたのだ。前にいる二人は、そんな香帆の様子には気づかず、話を続けていた。

「私のお部屋見ても、引かないでね」

「なんだ?そんなに汚いの?」

「そこまで汚くはないわよ!たぶん…」

「掃除なら手伝ってやるよ」

「えーーーそんな汚れてないってば」

 段々と二人の陽気な話し声が、スーっと空気に乗って動き去るように、遠くなっていくのを感じた。段々と視界にも、もやがかかるように色彩が薄くなり、目の前の景色が下に流れていく。小舟が島へ近づいてくるのが見えた。一人、誰かが乗って小舟を操っている。ゆっくり、ゆっくりと岸へ近付く。三人の旅は多分ここで終わる。そう思った。

 香帆がさっきまで感じていた、風の心地よい肌触りも、海からふんわりと香る潮の、お日様のような芳香もしなくなり、二人の声ももう遠く、聞き取ることは出来なくなっていた。ここからは、二人の、少年と少女の物語がずっと続いていく。香帆はその外側でずっと見守っていこうと、そして、中で起こった出来事を忘れないでおこうと、薄く遠ざかっていく意識の中で自分に言い聞かせた。


 ずっと、忘れない。と。

 たくさん教わったことも

 たくさん悩んだことも

 全部を持って、進んで行こうと。

 そして、いつか、旅の続きが見てみたいと思った。

 

『また いつか』 



 机の上に突っ伏した状態で香帆は目覚めた。見慣れた部屋の風景、ぼーっとした頭で部屋を見回し、机に置いてある時計を見つめた。時刻は香帆が記憶にある時間より、約一時間だけ進んでいて、十二時を回ろうとしていた。

「私…あれ?夢?」

 目の前にある開かれた本に目を落とした。開いている本は、読んでいたはずの始めの方のページではなく、最後の一ページだった。最後の一行。

『やっと辿り着いた彼らの道は、描かれ始めたばかりだ』

 という一文。そしてその横のページには、男の子と女の子の挿絵があり、小さな舟に乗った二人の向こうには、鮮やかな色をたたえた島が、大きく描かれていた。絵を注意深く見ていた香帆が、さらにびっくりしたのは、二つにくくられた女の子の髪には、蝶々の髪飾りがついていたことだった。それは正しく、香帆がネイラへ髪留めとしてあげたものだった。

 香帆はハッとして、恐る恐るそこにあるはずのを見た。そしてホッと肩をなでおろした。腕には、緑と藍色そして、赤の紐で編んだブレスレット。夢から覚めたと思っていた出来事は、夢ではなかったのだと、は教えてくれた。香帆はそっとブレスレットに手を添え、本を閉じた。背表紙には、ヤタのみぞおちに刻み込まれたあの刺青が、活版風に刻印されていた。


 その翌週、香帆はいつも通りに学校へ通い、なかなか周りに声をかける勇気が絞り出せず、過ごしていた。少しずつ、周りと話す頻度は増えていると自負しているのだが、それでもまだまだ、溶け込むには程遠かった。

 学校へ通う平日が終わり、休日がやってきた。香帆は借りていた残りの三冊全てを読み終え、図書館へ四冊の本を抱えて向かった。図書館へ向かう一本道、並木が続く裏道を通り抜ける。

 図書館に着くと、返却棚がいっぱいだったので、司書の人に手渡しで返却した。本を確認し終えた司書の人は困った顔で一冊の本を差し出した。

「すみません。これはこちらのではないので、お返ししますね」

「え?でもこちらで借りたんですけど」

「ここの印鑑も書棚のラベルもないし、検索しても引っかからないので、ご自宅のご本かと」

 そんなはずはない、と思ったが、とりあえずは預かるしかなく、次の本を借りることはせずに、本を持って、どうするべきか迷いながら、出口へ歩いていた。

「あの。すみません」

 知らない紳士風なおじいさんが、、香帆の目の前で足を止め、語りかけてきた。

「わたし、ですか?」

「ええ。その本…」

「これ?これは、ここの本ではなかったみたいで…」

「よかった。探していたんです。どうやら間違えて、こちらの棚に収めてしまったみたいで。よかったよかった」

 香帆は名残惜しいなと思いながら、おじいさんへ本を手渡した。図書館へ来ても、もうこの本は読めないのだ。こんなことならもう一度読んでおけばよかったと後悔した。

「ありがとう。お嬢さんはこれを読まれましたか?」

「あ、はい。とても、素敵なお話でした」

「それはよかった。この本もさぞ、喜んでいるでしょう」

「本が?」

「ええ。本には魂が込められているんです。読んだ人の人生を、まるごと変えてしまうような、そんな目に見えない魂が宿ってるんです。お嬢さんみたいな方に出会えて、本も幸せでしょう」

 おじいさんは愛おしそうに本を撫でながら、それでは。と歩き去って行った。香帆は新しい本を借りようか迷ったが、胸の奥の方にぽっかり空いた何かがあり、結局借りることをやめ、帰路についた。

「田坂さん?」

 そう声をかけてきたのはクラスメイトの女の子だった。何度か話したことはあったけど、図書館の辺りで出会ったのは初めてだった。

「葉山さん?」

「田坂さんは、図書館からの帰り?」

「うん、借りてたやつを返してきたの」

「そっか。田坂さん本好きだもんね!…そうだ!今からみんなで、テストも終わったことだし、図書館にあるカフェでお茶するんだけど、よかったら来ない?」

「今から?」

「うん。田坂さんそういうの苦手かもしれないけど…」

 香帆は少し考え、腕にある三色のブレスレットを見て、思い出した。勇気を学んだその出来事を。

「ぜひ」

「え?」

「迷惑じゃなければ、私も行きたい…かも…」

「ほんと!?私、前から田坂さんと、ちゃんとお話ししてみたかったの!嬉しい!みんなともよくそんな話してたのよ!じゃあ行きましょ、面白い本の話もたくさん知りたい!」

「たくさん…たくさんある…本のお話しなら…全部、教えてあげる」

 二人は図書館へ向かって歩き始めた。


 蒔いたばかりの種は、芽がでるのを待っている。

 少しずつ育てていこう。物語は今、始まったばかりなのだから。

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