第7話

 嵐はその日、怒り狂った猛獣のように、一日中休むことなく吹き荒れていた。

 三人は持っていた食料を、昨日食欲がなく、以前よりも痩せてしまっていたヤタに多めに配り、残りを香帆とネイラで分け合いながら食べ、じっと嵐が過ぎ去るのを待った。その間も、ヤタはぼんやりとした感じで、返事も会話も、体力があるときはしてくれるのだがほぼ寝て過ごし、目覚めても心ここにあらずといった風で、まだまだ傷は癒えず、まるで、ヤタの肉体だけを屋敷から助け出し、心はそこへ置き去りにしてしまったかのようだった。ふと香帆は、あの海賊たちのことを思い出した。

「そういえば、あの海賊たち、もう行ったかな?」

「大降りになる前に船出してると思うけど、いたらちょっと厄介ね」

「…かい…ぞく?」

「ヤタがまだ目覚める前に、あそこに見える浜辺に二人、雨を浴びにきたの」

「こっちには気づかなかったけど、乗ってきた小舟はバレちゃったから、感がよかったら見つかってたかも。そのまま向こうに帰っていったからよかったけど」

香帆は、その海賊たちが運んでいる物については言わなかった。その意図を汲んでか、ネイラもそこには触れずに、ただ向こうに行った。とだけ話した。ヤタは黙ってそれを聞き、海賊が行ったと思われる方向へ顔を向けると、立ち上がろうとし始めた。恐らく攫われてから七日間、歩くことも、動くこともなく、ずっと痛めつけられ、ハーバートの娯楽の為だけに生かされ、繋が続けた体は、限界寸前まで衰え、生まれたての小鹿のように、膝に力が入らず、そのままガクンと元の位置に倒れ込んだ。倒れ込んだ体を、ネイラと香帆が両脇からパッと支えた。

「ヤタ!まだ無理しないで!」

「でも…いないかどうか…確かめないと。また戻ってきたら…確実に…やばい…」

「カホ!何言ってるの!危険よ!」

「何言ってるの?危険なのにどっかのお屋敷に、一人で突っ込んでいったのはどこのだ~れ?」

「それはそうだけど…」

「大丈夫よ。様子見てくるだけだし、こんな嵐の中、向こうだって、出歩かないでしょ。それにもういないかもしれないし」

「あれ!あの、なんかふわってなる状態のやつ!あれならここから離れずに見れるんじゃない?」

「だいぶ前にやろうと思ったけど、出来なかったの。まだ上手くコントロールできないみたい」

「そんな…」

「じゃあ私行ってくるから、ちゃんとここで待っててよ?ヤタをよろしくね」

 香帆は二人に手を振ると、嵐の中へ身一つで飛び出していった。

 風が、強い。踏ん張っていないと飛ばされてしまいそうなほどだ。手を顔の前にかざし、吹き込む雨に立ち向かいながら、ちらりとひっくり返した小舟を見たが、まだそこにあった。ただ砂浜があるはずの場所は、半分海水に浸かっており、小舟の方にも、切り離され、自由になった波の欠片が襲い掛かっていた。最もまだ飲み込まれるまでは時間がかかりそうで、波本体が暴れている場所から、小舟までまだ一メートル半くらいあった。

「なんとか…戻るまでには、持ちこたえてくれそうかな」

 暴れまわる波を横目に、戻ったらネイラと一緒に、小舟をもっと奥に引っ込めようと決心した。必死で風に抗いながら、尚且つ、そこに立つ木々を風よけに隠れながら、恐る恐る少しずつ歩みを進めていった。

 海賊たちが歩いて行った方向に真っ直ぐ進み、その先にある、香帆たちがいる砂浜より倍以上は大きめの、海賊船がいたであろう浜辺まで辿り着いた。案の定そこに船はなかった。ぽっかりとだだっ広い、今は荒れ狂った空間が広がるだけで、そこに何かがあった痕跡すら、雨で洗い流されたのか存在していなかった。

「やっぱり、もう出てるよね。よかった」

 香帆が安堵に胸をなでおろし、元来た道を、風雨に紛れ込ませながら、歩こうとしていた時、不意に誰かに口を塞がれた。その手は明らかにヤタやネイラのその手ではなく、骨ばっていて大きく、薬品かハーブか、そういった鼻を突き抜ける爽やかげな香りがした。

 必死にもがく香帆をあざ笑うかのように、その手は一切緩むことはなく、やがて首に軽い衝撃を受け、香帆は気を失った。『やってしまったかな…』薄れていく意識の中、二人に会って謝ることは、もう出来そうにないなと悟った。


 目が覚めると、香帆は後ろ手に縛られ、目の前には焚火の炎があった。その向こうには岩肌が剥き出しの壁があり、小さなテーブルが視界の隅に映った。どのくらい気を失っていたのかと辺りを見回すと、香帆の足元、斜め向かいに人が座り、ゆらゆらと揺れ動く炎を眺めていた。

 長く伸びた髪も髭も、真っ白な老人。年季の入ったボロボロのシャツと、ズボンを履いて、その腰には、紐でくくられた鞘と一緒に、短めの短剣がぶら下がっていた。

「気が付いたか」

 香帆はしばられたまま、なんとか上体を起こし、老人に向き直った。

「あの、ここは?あなたは誰ですか?」

「わしのことはいい。ここはわしが暮らしている隠れ家じゃ。お主は何者じゃ。なぜあそこにいた?海賊の仲間か?」

「違うわ!あんな野蛮な奴らの仲間だなんて、死んでもいや!」

「ではやつらが運んどった奴隷か?あそこから逃げおおせたのか?見たところそんな風は感じられんが」

「違うったら。海賊とは無関係よ。たまたまこの島に立ち寄ったの。それだけよ」

「ここは何もない小島。ここへ来るのはいつも、あの海賊たちくらいじゃ」

「おじいさんは、海賊から逃げてるの?」

「それは違う。先にいたのはわしじゃ。あやつらは時々、夜なるとここへ寄って、朝になると出て行く。月に一度ほど立ち寄るようになった」

「ねえ、私が気を失ってからどのくらい経った?友達が待ってるの。縄、解いてほしいんだけど…」

「お主が海賊の仲間ではないという証拠は?」

「そんなものないわよ」

「嵐の中、あそこをほっつき歩いていた理由を、わしはまだ聞いてはおらん」

「海賊に…友達が今、ケガして動けなくて、海賊に見つかったら、大変な事になるから、いないか確認しに行ってたの。ここから出るには、まずそこを確認しとかないとって、友達が言うものだから…」

「ケガは重いのか?」

「見た目はまだ大丈夫なんだけど、まだ、ちゃんと歩けなくて…」

「そうか」

そういうと、老人はおもむろに立ち上がり、腰に下げていた短剣を抜きながら、香帆の方に歩み寄ってきた。『殺される!』香帆は目をつむり、その短剣が、緩やかに命を絶っていく瞬間を待った。

『ザクッ』という音が、聞こえた。その瞬間、香帆の胸に痛みが走ることはなかった。その代わり、後ろ手に縛られていた両手が自由になった。ゆっくり目を開け、どこにも切られた跡がないことを確認すると、短剣を鞘に仕舞いながら、元の場所へ座ろうとしている老人を見て、不思議に思った。

「どうして?」

「解いてほしかったのではないのか?」

「そう…だけど、証拠ないのに…」

「先ほどの、友を心配するお主の心は嘘ではあるまい。それでよい」

「あれだけで?」

「言葉ではいくらでも嘘・偽りを述べることはできるが、心は嘘をつかん。それは信じるに値する」

「ありがとう…ございます…では私は戻りますので…」

「それはならん。」

「は?なんで?信じてくれたんじゃ?」

「信じてはおる。だが、この場所を知られるわけにはいかんのでな、戻るのならば、わしが浜まで案内する」

「確かに道は分かんないけど…」

「それもあるが、そうではない。お主はここを出る際、その行程の道筋を見てはならぬ、ということじゃ」

「え?目を閉じて歩けってこと?無理無理無理、そんなことしたら、前も見えないし、転びまくって擦り傷だらけになっちゃう!」

「そこは心配いらん。じゃが、嵐がひどくなってきておるから、しばらくは動けん。友のことは心配であろうが、この嵐じゃそやつらも動けまい。大人しく収まるまでここにおれ」

「そんな…」

「嘘じゃと思うならそこの扉を開けてみい」

 香帆は言われるまま、岩壁を伝い歩き、洞窟っぽい室内の、ここが家である、という事を知らしめている唯一の扉へ歩き、かんぬきを外し引き開けた。

 外は言われた通り、風が吹き荒れていた。さっきよりも強く、本体から切り離された葉や枝が宙を舞い踊り、至るところで円を描き螺旋を形作っていた。この高い山の上にあるであろう家から見える海も、相当荒れており、いくつもの白い飛沫が、波の間に見え隠れしていた。香帆は風に煽られながら扉を閉め、再びかんぬきをはめ込んだ。

「どうじゃ?歩けそうかの?」

「おじいさんの言う通りだわ、さっきよりひどくなってるみたい。早く戻りたいのに…」

「そう悔いても、この嵐は治まらん。スープでも飲んで落ち着きなさい」

 いつの間に置いたのか、両脇に積み上げられた石に支えられ、焚火の上に鍋がかけてあり、温められていた。鍋の中には黄金色のスープが輝いており、今か今かと水面を揺らしながら、沸々と湧き上がるのを待っていた。老人は中に入っている具を、木の匙でかき混ぜながら、横に積んであった椀を手にすると、一口分だけ掬って、ズズっと味見をした。

「よし、これぐらいでいいじゃろう。熱すぎると飲めんからな」

 綺麗な椀に匙で一杯分掬い入れると、さっと香帆の前へ差し出した。香帆は少しいぶかしみながら椀を受け取り、中身をじっと眺めた。

「毒などは入っておらん。山菜やきのこが苦手でないなら飲みなさい。温まる」

「いや、そういうわけじゃないんだけど、こんな小島の奥に、人が暮らしていたのがなんだか意外で…誰もいない無人島だと思ってたから…」

「いろいろあってな。全ては話せんが…帰り道を…失ってしまったから。とでも言っておこうかの」

「船が流されちゃった、とかですか?」

「まあそんなとこじゃ…お主、名はなんという」

「香帆。おじいさんは?」

「わしは…ケイブ…とでも名乗っておこう」

「え、ずるい。本名は秘密なんて」

「いろいろあったんじゃよ…さあ、早く飲まないと冷めてしまうぞ」

 なんだか、はぐらかされてしまったようだが、冷めてしまうのはもったいないと、ズズっとスープを啜った。味はそんなに濃くはなく、いい感じの塩味が効いていて美味しかった。山菜や茸から出汁がでているのか、ほのかにうまみも感じられた。ヤタとネイラにも食べさせてあげたい。特にヤタには、温かいスープと安らげる場所を、早く与えてあげたいと思った。とはいえお腹がすいていた香帆は、一心不乱に温かいスープを飲み干すと、ふぅと一息をつき、ケイブと名乗った老人に「美味しかったです」と告げた。

「海の恵みも、山の恵みも、全てがここに入っておる。この島は小さいが、とても豊かなんじゃよ」

 ケイブもその言葉が嬉しかったのか、食べ終わった椀を横に置くと、小さく微笑みながらそう語った。

「ずっと、一人なんですか?」

「…一度だけ、人と暮らしておった。島に漂着した気のいい若者だった。見た時は、お主と出会った頃のように警戒したが、ひどく衰弱しておってな、何もできまいと思って、ここへ運び入れ、看病してやったんじゃ…」

「その人はどこへ?」

「死んだよ」

「そんなにひどかったんですね…」

「いや、歩き回れるくらい回復はした。自分のことも、わしにちゃんと教えてくれた」

「どんな、ひとだったんですか」

「遠い…田舎から出稼ぎにきていたらしい。乗っていた船が難破し、ここへ流れ着いた。家へ帰ろうと、ここでいかだを必死に作っておったよ…まだ幼い子供が二人いて、妻に任せて残してきてしまったと、ずっと嘆いておった」

「そんな、ちゃんと回復できたのになんで」

「全快していないのに動き回るから、無理が祟ったのか、高熱をだして倒れてしまってな。うなされながら、妻と子供二人の名をずっと囁いておったが、そのまま熱が下がらずに、逝ってしまった」

「そんなことが…」

「遠い…過去の話しだ…忘れてくれ。私は少し眠る。お主も…カホといったかな、そこにある枯草の上で休むといい。どうせまだ風はやまぬ」

 ケイブは香帆とは少し離れた場所にある、枯草の上にごろんと横になると、そのまま振り向きもせずに眠った。香帆も、すぐ脇に積んであった枯草を整え横になった。残してきた二人は、今頃どうしてるだろうかと、心配ばかりが頭をよぎり、なかなか寝付けなかったが、気が付くと寝ており、次に目が覚めたのはケイブに揺り起こされた時だった。

「起きなさいカホ。雨はあがったよ。朝食を食べたら浜へ下りよう」

 香帆は眠たい目をこすり、伸びをすると、火の上で炙られている、穀物を練ったようなパンのような物を食べ、

「あの!これって、少し…頂けたりしますか?」

「穀物パンのことかい?いくつ食べたいんじゃ?」

「いえ、私ではなくて…下にいる友達に…一人、すごく痩せてしまっている人がいて…その子に分けてあげたいんです…昨日のスープも、私なんかよりその人にこそ、飲んでほしかったくらい…」

「よかろう。何個か包んであげるから、準備を手伝いなさい」

「ありがとうございます」

奥から穀物パンを六つほど抱え、香帆に大きなヤシの葉と、木の蔓を渡すとパンを包むように言い渡した。ケイブの支度が終わるのを待ち、パンを包んだヤシの葉を持つと、閂を外し、扉を開けた。昨日の嵐が嘘のような晴天だった。

「まぶしっ」

「そのまま目をつぶっていなさい。良いというまでは開けてはいけないよ」

言われるまま目を瞑り、ケイブが香帆の手を握ると、そろりそろりと歩き出した。このままでは下りるまでに日が暮れてしまうのではないかと思っていたが、そんなことはなく、香帆は一切転ぶことも、何かにぶち当たることもせず、ケイブの『開けて良い』の声を迎えた。

 目の前に広がっていたのは、うっそうとした森だった。香帆はその木々の向こうに反射する海を見た。そして、その手前の方に、ヤタとネイラがいるはずの、大きな岩が重なっている場所があった。香帆は思わず駆けだしていた。そして、岩の手前で深呼吸をすると、驚かそうと、顔だけをひょっこりだして、中を見た。誰もいなかった。

 中は抜け殻のように、荷物の袋が四つあるだけだった。香帆は周りを見回し、小舟の存在を確認した。そこに、ヤタの服とマントが二つ、並ぶように置いてあった。

「まさか…連れてかれたんじゃ…」

 一瞬悪い予感が頭をよぎり、顔からサーッと血の気が引いた。香帆のあとを遅れながらもついてきていたケイブは、

「お友達はいないのかい?」

と、香帆を心配しているような声色で聞いてきた。わけの分からない香帆は、その問いには答えられず、小舟の上に並べられた、三つの物を眺めていた。連れて行かれたにしては、綺麗に並べられて置いてあるそれらに、違和感を覚えた。そして、ガサガサと茂みをかき分ける音が後ろで聞こえた。反射的に振り返り、寄り添うようにして歩いている、いつもの顔が二つ見えた時には、安堵感でいっぱいになった。

「カホ!」

「ネイラ!ヤタも!無事でよかった!」

「それはこっちのセリフよ!今までどこに行ってたの?心配したんだから!返ってこないから、嵐の中ヤタが一人で探しに行くって聞かなくて、止めるの大変だったんだから。朝やっと行こうと向かってる時に、人影が見えたから、慌てて引き返して正解だったわ」

「ごめんね。嵐がひどくて戻れなくて…」

「まあもういいわ。無事だったんだし。それより、後ろの…おじいさん誰?」

「あ!ケイブさんていうの。雨宿りさせてもらって、助けてもらったの」

ちょっと違うけど、半分事実なのでまあいいかと、香帆は出会いを少しいじくって説明をした。ケイブもそれには顔色を変えず、何も言及しなかった。

「はじめまして。カホさんのご友人たち。お預かりしていた方をお返しに来ましたよ」

「なんかカホ、お姫様みたいよ?」

「からかわないで。大変だったのよ、いろいろ」

ネイラは笑いながら、ヤタを支える手を緩めることなく、

「そう?とても紳士なご老人に大変とか失礼じゃない?」

と、香帆をからかい続けた。そしてゆらりと、二人の間を通り抜ける影があった。ケイブがまるで吸い込まれるような動きで、ネイラが支えているヤタの前へいき、止まった。

「この傷は…」

そしてヤタの周りをぐるりと一周すると、鳥のようなマークが浮かび上がっているみぞおちに触れた。ヤタは少しビクッとし、痛みを感じたようだったが、ケイブの手がすぐに離れたので、安堵のため息を漏らした。

「お主は…捕らわれていたのか…」

ケイブはヤタの空いている方の手を取り、その手首にある、枷や縄の跡を撫でた。

「俺…は…」

ヤタはガクッと地べたに崩れ落ちると、頭を抱えてうなりだした。

「思い出さなくていい。全て忘れなさい。君は何も悪くないのだから、もう何も、心配はいらん…うんと、吐き出すといい…」

ケイブは優しく、諭すような声色で呟き、そっと手を回し、そのしわがれた両腕で、崩れ落ちて、放心状態になってしまったヤタを優しく包み込んだ。ヤタはケイブに縋り付くと、今まで押し殺してきた声を取り戻すように、声を思いっきりだして、抱え込んでいたものを吐き出すように、泣き続けた。

「痛くて…ずっと…痛くて…暗いし…熱くて…俺…もう…ダメかと…思っ…っ…最後に…なにも…していない…何も、出来なかった…なにも…して…やれなかった…」

「よく、頑張ったな」

 赤子のようにただただ泣き続けるヤタを、ケイブは抱きしめ、本当の子供のように頭や背中をさすりながら、ヤタが落ち着くまでずっとそうしていた。

徐々に落ち着きを取り戻し、鼻をすする音と、しゃくりあげる声だけになると、ケイブはするりと抱擁を解くと、懐をゴソゴソと探り始めた。「あったあった」という声と共に懐からでてきたのは、古びた懐中時計だった。

「これをお主にやろう。お守りじゃ。きっとお主を助けてくれる。辛くなったりしたときは、こいつに全て吐き出すといい。少しは楽になるじゃろう」

ヤタに懐中時計を見せ、言い終わると同時にヤタの細い首にそれをかけた。ずっしりと重みのありそうな懐中時計は、ヤタの胸元で年季の入った風合いを醸し出し、若いヤタが持つには、少し不釣り合いだった。だがヤタは首にかけられた懐中時計を手に取り、握りしめた。

「ありがとう、ございます…大切にします」

「そうしてやっておくれ。そいつも喜ぶ」

ケイブはそっとヤタの背中へ手を回し、軽い抱擁をした。

「ところで、なんでヤタは服脱いでるの?」

「折角、太陽が顔を出したんですもの、カラッと服乾かしてあげようと思って。そっちの方が傷の治りも早いだろうし」

「なあ~んだ、変に勘ぐっちゃった。確かに、上だけでも乾かした方がいいもんね!ネイラは服気持ち悪くない?」

「生乾きで、ちょっとだけ。でもへーき!カホはもう心配ないみたいね!」

「ケイブさんのところで、火に当たらせてもらったの。すっかりカラッカラッよ!」

「カホだけずる~い!あとで火を焚きましょヤタ!私たちもカラッカラッになってやるんだから!」

「お土産にほら、パン頂いてきたからこれで許して?」

「しょーがないなぁ!ヤタ、後で食事にしましょ。私たちそういえば何も食べてないわ」

「え?あ、うん…」

それから四人で荷物のある所まで行くと、ヤタは側にあった木に手を置き体を預け、もたれかかった。ネイラはヤタが安定したのを確認すると、香帆とともに、寝床にしていた岩の中から荷物を全部ひっぱりだし、ヤタがいる木の根元まで運び、香帆が運んできた穀物パンを、ヤタとネイラで一つずつ食べた。香帆はケイブのところで済ませていたため、、海を見ながら立ち尽くしているケイブの元へ向かった。

「海、お好きなんですか?」

「どうじゃろな。見飽きるほど、見てきたから、もう忘れてしもうた」

ケイブの横に立ち、一緒に海を眺めた。すごいことに巻き込まれた気がするなと、太陽の温かみを全身で受け止めながら、達成感が込み上げるワクワクを感じた。黙って隣で突っ立っていたケイブは、しばらくして前を見つめたまま呟いた。

「あの少年は…」

「ヤタのこと?」

「ああ。元に戻るには、まだ少し時間がかかる…もしかしたら一年どころではないかもしれん。じゃが支えがあれば、あやつはまた蘇る。完全に自分を取り戻すことはきっとないが、前へ進むことは出来る。お主らはその手伝いをして、決して、いかなることがあっても、見放してはならん」

「私は、長くいられるかわからないけど、ネイラは絶対、ヤタを見捨てたりなんてしない。もう二度と」

 ケイブは香帆の『いられるか分からない』という言葉には、突っ込まなかった。ただ心地よい海風を体で浴びながら、始めて海を見に来た人のように、じっと前を見据えていた

「…海は、綺麗だの…」

老人にしては、妙にキリッとした背筋を伸ばし、杖一つ持つこともなく歩く。仙人のようでいて、仙人ぽくないその格好は、彼が何者であるかを、ますます奥へ仕舞いこみ、その引き出しを開けにくくさせていた。ぼそっと呟いたこの言葉に、意図があるのかないのかは分からない。ただ、横顔から覗き見るケイブの目は、少し寂しい色を施しているように見えた。

 朝食を食べ終わったヤタとネイラは、香帆が連れてきた不思議な老人の後ろ姿を、じっと見ていた。スラッとした体躯に、背筋のはっきりした後ろ姿からは、年老いたイメージは沸きにくい。振り向けば皺だらけの顔が見え、ようやく老人であるという認識を出来るほどだ。この小さな島に人がいたのは意外だったが、害は無さそうだなと思った。と、強めの向かい風が、このあたり一帯にに吹き付けた。砂粒が目に入らないよう、目を閉じ、なびく髪を抑えながら、ネイラはそっと薄目を開け、それを見た。目の前に佇む老人の耳は、人間のそれとは違い、先は鋭く鋭利がかっており、ネイラのものとそっくりだった。髪を軽く押さえ、後ろへなびかせないように手を添えていたが、後ろで座って、風の吹く瞬間からケイブを見ていたネイラの目には、ばっちりと写り込んでしまった。ネイラはそっと息を飲み、ヤタを振り返ると、ヤタも同じものをみた様子で、目を見開き、視線の先をケイブに合わせ、逸らせずにいた。ケイブの隣で、突風で煽られた髪の毛を手櫛で直している香帆は、全く気にする様子もなく、乱れた髪の毛を手櫛でいじっていた。すくっと立ち上がったネイラは、どうしようかと思案した。自分もそうだと伝えようか迷った。あなたの仲間ですと、正直に打ち明けようかと、一歩を踏み出そうとした。

 そして、そうしなかった。ネイラの踏み出した足を止める手があった。ヤタの手が、ネイラの腕を優しくつかみ、首を横に振った。言葉はなかった。ただ真っ直ぐケイブの方を見ていた。もさっとした白い髪は、すでに元のように、耳を覆い隠すように整えられ、何事もなかったかのように、香帆の横に佇んでいた。ネイラは踏み出しかけた足を引き戻し、

「ヤタ、立てる?そろそろ…出発しようか」

そういいながら、ヤタに手を貸し、まだふらつく足腰を支え、立ち上がる手助けをすると、海辺に佇んでいる香帆を呼び戻し、荷物を船の側まで一緒に運んだ。それから、船の上に干していたヤタの服をつかんで着せると、ひっくり返した小舟を力ずくで表に戻した。

「よし!これで完璧。ネイラ、忘れ物はない?」

「ええ、全てバッグに詰めたわ、大丈夫」

 二人は来た時と同じように、小舟の下に覆うようにして隠していた枕木を四本、置いては舟を押し、また置いては押すという作業を、水際まで延々と繰り返した。ヤタは黙ってそれを木の影から見つめ、手をグー・パーに開いたり閉じたりしながら、筋力の回復の度合いを測っていた。まだ時々傷がうずくようで、その間もみぞおち辺りをぎゅっと抑えながら、自分の両手を動かしていた。

 やっと海沿いに船首が届き、あと一押しで海の上に浮かぶかという小舟を横目に、ケイブがのそりと口を開いた。

「お別れじゃの」

 小舟を押そうと、ふちに手をかけていた香帆は、その手をとめ振り向いた。

「ケイブさんも、行きませんか?狭いけど、詰めればなんとかなると思うし…」

「遠慮しておこう。その小舟には三人が恐らく限界じゃ、それ以上乗れば沈むやもしれん。それに、わしはここを離れられない。あやつを残していくわけにも、いかんからの」

 ネイラとヤタは疑問に思っているようだったが、昨晩話を聞いていた香帆は『あやつ』というのが、以前ケイブが助けて、家族の元へ帰ることもできず亡くなってしまった、青年のことであるとすぐにわかった。彼はここで命を落とした。故郷へ帰ろうと、必死に命の炎を削り、その炎が、小さくなっていることにもかえりみず続けた結果、燃やし尽くしてしまい、最後はここに骨を埋め、ケイブの手で弔われた。志を遂げることなく逝ってしまった彼を残し、自分だけが、ここを出て行くわけにはいかないと、そういっているのだ。香帆はケイブのその心を受け止め、どこかにあるはずの彼を想った。彼は会いたい人の元へ帰ることは出来なかったけれど、きっと最後まで、ここで幸せだったんだろうなと、彼を想うケイブを見て、確信した。

「分かりました。お世話に、なりました」

「え、いいの?ご老人を一人で置いていくなんて、説得とかしないの?本当に置いていくの?」

「いいんじゃよ、お嬢ちゃん。わしはまだここにいたいのでな」

ニコニコと頬笑むケイブを、ネイラは心配そうに見ていたが、やがて納得したのか笑顔に変わっていた。そして小舟をぐいっと押す動作をすると、香帆もそこに加わり最後の一押しをかけて、船尾部分を砂浜に残し、他を海上に浮かせた。ネイラはひょいっと小舟に飛び乗ると、いかりの代わりにオールを地面に突き刺し、流されないように舟を押さえた。香帆は荷物を船に投げ込み、こちらへ足をもつれさせながら歩いてくるヤタに手を貸し、どうにかヤタを乗せると、

「では、ケイブさん、お元気で」

「お主らも気を付けての」

「はい!」

ネイラが突き刺していたオールを引き抜き、香帆は小舟を強く押し、船底を全て海水に浸したのち、自分も飛び乗った。浜辺からだんだんと遠ざかっていく小舟を、砂浜の上の老人が、孫を見送るような優しい瞳で見つめた。オールを握りしめていたネイラは、

「ねえヤタ、どっちへ行けばいいの?」

方向をどちらへむければいいか分からず、オールを操る手を止めて尋ねた。

「貸して、俺が漕ぐよ」

「まだ無理よ。あまり無理すると傷が開いちゃう」

「そろそろ体力つけないと、それこそ弱っちゃう。大丈夫だよ。もう大丈夫」

ヤタが一歩もひかず、行先も言わなかったため、ネイラは少しだけならとオールを手渡した。ヤタは嬉しそうに受け取ると、そのまま真っ直ぐ漕ぎ始めた。ネイラは心配そうに見つめていたが、視線を遠ざかっていく浜辺にいる人物へ向けると、髪を縛っていたゴムを手で外し、海風に晒した。風は強くはなかったが、ネイラの髪を揺らすことくらいは容易かった。波のリズムに合わせ、海上で心地よい風が間をすり抜けていく。案の定揺れ動く金色の髪からは、人の物ではない、先端のとがった、特有の耳をあらわにさせた。たまたま振り返った香帆はギョッとした。

「ちょっと、ネイラ!耳見えてるわよ!」

「うん、いいの。ちょっとだけ、風を浴びたくて。また後で結んでもらっていい?」

「それはいいけど…」

チラチラと浜辺にいる人物を気にしながら、ヒヤヒヤしていた香帆は、遠目で見えてないことを祈って、ケイブから視線を逸らした。

「あの人、寂しくないのかなあ?」

「あそこには、ケイブさんの思い出が詰まってるのよ。だからきっと、一人だけど、一人じゃないんだと思う。私たちが思うよりずっと」

「思い出かあ…私たちもそこに加わったりしたのかな」

「隅っこの方には、いれてくれてるんじゃない?」

「なにそれフフフ」

 両側で弾む会話をよそに、ヤタはずっと考えていた。お守りの意味。舟を出す前、手伝おうとしたらネイラと香帆に叱られたので、ヤタは仕方なく木陰で木に体を預けていた。そこで、服の中に仕舞いこんでいた懐中時計を取り出し、上にある突起を押してみた。ピクリとも動かなかった。恐らく錆が進み、開閉部や突起部を固定してしまったのだ。強く押してみても、試しに振ってみても駄目だった。仕方なく懐中時計を裏面までじっくり眺めるだけにした。表も裏もみっちりと錆だらけだった。裏面には何かの装飾があったのか、何かが彫り込んであったのか、うっすらと線のようなものが見えたが、錆に埋もれ、年数も相当経っているのか、解読は出来なかった。

「ねえちょっと、ヤタ聞いてる?」

「え?」

不意に後ろから話しかけられて、ようやく、自分が女の子の論争の板挟みになっていることに気づいた。

「ネイラったら、パンにはバターが一番合うっていうのよ。絶対ジャムよね?ね?」

「バターのがおいしいわよね?ねー?」

「え?いや、どっちでも…いい…かな…ていうか、どこから…そんな話に?」

「んーなんだったかなー?ケイブさんからもらったパンのはなし?から?」

「そのあと、カホがパンにジャム塗りたいって言ったから、私がバターのがいいなーって言ったら、燃え上がっちゃったんだよねー!」

「というか、こんなに近距離で話してたのに、一つも耳に入ってなかったの?」

「いや、漕ぐのに集中してて…」

「そろそろ代わろうか?」

「ありがとうカホ。でももうちょっと…やりたいから、頑張るよ」

「わかった。あと少し、任せるね。辛くなったら早めに言うのよ」

「あと、どのくらいで着きそうなの?」

「二、三時間で…つくと思うよ。ほら、あそこに島が、小さく見えるでしょ?あそこに、行くんだ」

ヤタは、細くなってしまった腕でオールを動かし続けながら、進行方向に小さく浮かんでいる島を、目線だけ送り、指した。遠くに見えるその島は、先ほどいた小島より細長く、大きく見えた。香帆もネイラも雑談していた話を打ちきり、じっと島を見ていた。あそこを越えれば、ネイラが生まれ育った故郷の島まであと一息だ。

香帆は、もう、すぐ近くまで近づいている旅の終わりを、物語の終結を、少し寂しく感じた。

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