第6話

 ビシューはまだ、そこにいた。ネイラと香帆、二人と別れ、見えなくなるまで見送ったあと、誰もいない、波の音がこだまするだけの砂浜に、膝を投げ出し腰を下ろした。心地よい風が時折吹くだけのたった一人の空間。ザアーザアーと打ち寄せる波の音、体が沈み込むでもなく、変に固くもない柔らかい砂の上にいると、フカフカの布団で、子守唄でも聞いている赤子の気分だなとビシューは思った。

 おもむろに、ごろんと砂浜へ身を投げ出した。空には満点の星、とはいかなかったが、雲間からチラチラと覗く星と、雲の切れ間に、まるで近づくなと言わんばかりの光を放ちながら、月が輝いていた。

「明日、満月かな。」

 晴れるといいな。と心の中で呟いた。

 夜空を眺めているうちに、ウトウトしてしまっていたらしく、あんなに心地よかった風も、少し肌寒い顔色へと変わっていた。そのせいか、目が覚めた時、両手足を投げ出すようにしていた格好から、生まれる前の赤子のように、縮こまって丸くなる態勢になっていた。ビシューは身震いをすると、丸まっていた手足を伸ばし、『う~ん』と伸びをしてから、ひょいと立ち上がった。波はまだ穏やかにうねっていた。二人は行ってしまったかなと、少し残念に思い、水平線の向こうを眺めた。そしてそこに一点の拳ほどの点が浮かんだ。目を凝らして、よーく見た。舟だ。そこには二つの影が、まるで船から突き出た牙のようにあった。香帆とネイラが乗って行った舟。「二人か…」ビシューはそうつぶやき、舟に向かって大きく手を振った。屋敷へ入ったのかどうかは分からない。けれど、ここで大声を出してはいけない気がしたから、全身で手を振り続けた。船上の二人も気づいたらしく手を大きく振ってきた。陸地と海、二つの場所から双方は手を振り続けた。そして、海側の二人は手を振るのを急にやめ、何やらゴソゴソとし始めた。そして、二人が抱えるように間にあった空間から、何かを少し持ち上げた。

「あいつら…やりやがったな…」

 歓喜で叫びだしそうな気持ちを抑え、グッと胸元を握りしめた。二人が抱きかかえたのは、ヤタだった。まだ意識はないようで、ぐったりしているようだったが、喜びに溢れた二人の仕草から、無事に成し遂げたのだとビシューは悟った。

「もうこっち来んじゃねぇぞ」

 目を閉じて、意識のないヤタへ向けてそう小さくぼやいた。ヤタを抱えていた二人はそっとまた静かにヤタを下ろし、ビシューへ向けて口パクで、言葉を向けた。『またいつか』そう読み取った。

「だから、もう来んなって」

 ビシューは遠ざかっていくその小さな小舟へ向けて、困った笑顔をたたえながら、届かない反論を投げた。そして背を向けると、茂みへ分け入り、戻るべき場所へ戻っていった。


 香帆は、ネイラが飛び去った方向を見ていた。ヤタはまだ無事だろうか、ネイラは無事に屋敷へ入り込めただろうか、そんな疑問を、崖の向こうに見えるはずの屋敷へ投げかけた。隠れて、様子を見ることができないもどかしさに、船を少し動かして、屋敷が目視できる位置まで行こうかな。とか真下に行けば見えないかなとも考えたけど、やめた。ここで待つ。それが約束だったから。波が香帆のいる横の崖へ打ち当たる。その飛沫の音だけが、今は聞こえた。そういえば、ここに来て一人になるのは初めてかも。と思いを巡らせてみた。

 この世界は何なのだろうと。香帆は本を読んでいただけだった。始めはただ見ていただけ、そして次にこの世界に落っこちた。この世界はきっと本の中で、香帆はその中にいるのだと、それは間違いなかった。では香帆は、香帆の存在は果たして本の中に描かれているのだろうか、ここから出たら、自分はいなかったことになっているのでは?という悲しい気持ちも湧いてきた。けれど香帆はそれでもいいかなと思った。ただ、自分の記憶から、ヤタとネイラと共に過ごした日々や、経験した出来事、それは忘れたくないな。とそう思った。

 昔から、友達といえば本の中にいる主人公たちやその仲間、もしくは敵と呼ばれるもの、それだけだった。現実の香帆は友達なんていない、暗くて、教室の隅っこで本ばかり読んでいる、クラスの影、各クラスに必ず一人はいる、空気みたいな存在。点々とあるグループはまぶしくて、とても近寄れなかった。唯一、クラス内で一番近いにおいのするグループにすら、一線を引いて接していた。そんな現実から逃げるように、本を読み漁り続けた。

 ずっと、孤独に過ごした。友達なんていらないとそう思っていた。でも今は、友達と呼べる存在が側にいる。いずれ離れてしまうかもしれない。でも失いたくないと思った。

「これが、友達…」

 今まで、どうしてあんなに一人でいることに、こだわっていたのだろう。もし現実に戻ることが出来たら、あの一番近づきやすい色をしたグループに、混ざれるかな。混ざりにいこう。今なら出来る気がする。そう思った。

 空には少しずつ、星空を雲が覆い始めた。雨が、降るかもしれないな。と、まだ雲間に輝いている月を見た。「明日はきっと満月なのにな」そう思った。その視界の端に、にゅっと何かが現れた。ヤタを抱えながら、必死に羽をバタつかせたネイラだった。てっきり一人で戻ってくるとふんでいた香帆は、心底驚いた。同時に叫びだしそうなほどうれしかった。感情をなんとか抑え込み、小舟をネイラの方へ近づけると、ヤタを迎え入れるための空間を開けた。

「カホ、ナイフ!ナイフとって。縄を切らなきゃ!」

 ヤタをゆっくり下ろしながら、ネイラはまず始めに、抱き合って喜ぶでも、息をつくでもなく、ナイフを要求してきた。香帆は側にあった袋からナイフを取り出し、横にした態勢のヤタの、手を縛っている縄を切り解いた。ヤタの体は、思ったよりヒドイ状態だった。痩せこけて、あばら骨はその主張を激しく示し、頬もこけて、目元のクマもひどかった。体中、新たなムチの跡で赤く腫れあがり、みぞおちの辺りには、まだ腫れのひいていない刺青が、痛々しい姿を更に悪化させていた。手首と足首には枷の跡が線のように残り、ヤタの頬は熱を持って、赤くほてっていた。

「大変!熱があるわ!服、何か着せないと!」

ヤタは、腰布以外何も着ていなかった。その為、傷跡がむき出しで、肌寒い夜の海風を直に受け止めていた。香帆は船の中に何かないかと、持ってきていた荷物を探そうと、後ろを振り返った。

「あった!あれ?これ私たちの荷物じゃない…」

 香帆が探っていた荷物は、見た目こそ二人が持っていたバックに似ていたが、中身は全く違っていた。なぜか、男物の洋服が一組。それと、薄手のマントが入っていた。

「ネイラ、これって?」

「私たちが乗り込むときには、なかった、よね?」

「何もなかった。そこは確認したもの。てことは…」

 ビシューだ。二人はそう確信した。舟を移動するときに、こっそり香帆たちの荷物に紛れ込ませたのだ。あんなに最後まで反対していたのに、ちゃんとヤタのことも考えてくれていた。もう家路につき、寝床で夢の中にいるであろうビシューに感謝しながら、二人は意識のないヤタに、なんとかシャツとズボンを着せ、マントを上から被せると、やっと一息ついた。

「さあ、行きましょ!夜の間に屋敷から見えない海域まで移動しないと」

「オールは二本しかないから、交代で。まずは私がやる」

「ネイラは休んでて、私まだ何もしてないから、私がやるわ」

 オールを漕ぐのは簡単ではなかった。なかなかに重たいし、なかなか言うことを聞いてくれない。それでも、なんとか形にはなっているようで、前へ、前へと前進し始めた。沖へと必死で漕ぎ進め、なんとか進行方向の海流に乗れた。その間、ネイラはずっと、ヤタの頬に手をあてて、見つめていた。そのお蔭か、苦し気な表情は、少し和らいでいるようにみえた。ふと、ネイラが顔をあげ、横を見ていた。香帆も手をとめ、同じ方向を見てみた。そこはさっき、ビシューと別れた砂浜がある場所だった。そしてそこに、棒のように立っている影があった。

「待っててくれたんだね、あの人」

「てっきりもう帰ったのかと思ってた」

 二人はそこで始めて、切り詰めていた緊張を解いた。顔を見合わせて、フフフと笑いあった。思いっきり手を振り続けるビシューが、年上なのにとても幼く、かわいく見えた。そんなかわいいビシューに呼応するように、二人も大きく手を振った。声には出さず、ただ大きく精いっぱいの感謝を込めて。

「ねぇ、カホ、少し…ヤタの顔を見せてあげてもいいかな?」

「少しだけなら大丈夫だと思う。でもそっと、そ~っとよ。まだ病人なんだから、無理させないようにしないと」

「分かってる。でもやっぱりビシューさんには、知っておいてほしいから」

「私も、そう思う」

 マントを巻き付けたまま、ネイラが後頭部を少し持ち上げ、マントがずり落ちないように、香帆が支えた。そうすることで、船べりから少しだけ、ヤタの上半身が顔を出した。

 ビシューは二人の間にいる眠ったままのヤタに気づいたようで、振る手をとめ、ただじっとこちらを見つめているようだった。二人は誇らしい顔でそれを見つめ、

「ビシューさんたら、びっくりしてる」

「そりゃそうよ!ほんとに連れ出せるとは思ってなかったんじゃないかな」

「良かった。ちゃんと伝えることができて」

 喜びと、昂揚感が続く中、そっとヤタを元のように寝かせ、まだぼーっと立ちすくんでいる人影がある砂浜へ、目を向けた。

「ねえカホ、せーので、お別れ言わない?」

「声は出せないわよ?」

「うん、だから口だけで言うの。またね会おうねって事、伝えときたい」

「それなら、“ またいつか ”ってどう?短くて伝わりやすいし」

「いいね、それ!それにすしよう」

「「せーの」」

『またいつか』

砂浜に向けて、二人は無言の言葉を放った。逆光で、ちゃんと伝わっているかすら分からない。それでも、届いた。そう思った。

「伝わったかな。私たちのメッセージ」

「きっと、届いたよ。ほら、親しい人には、言葉はいらないって言うじゃない?」

「そうなの?始めて聞いたよ、それ」

「そうなの。だから大丈夫なの」

「ふーん、でもななんか素敵な言葉ね。ヤタにも後で教えてあげよう!」

 波に乗り、小舟は沖へ流されていく。遠ざかっていく砂浜で、ビシューが森の奥へ消えていくのが見えた。香帆はまたオールを手に取り、手短な小島目掛けて漕ぎ進めた。距離はまだまだあるけれど、ネイラと交代しながら、夜が深いうちに辿り着こうと、月の光を道しるべにして、オールを前へ後ろへと、動かせ続けた。


  二人は手にマメを作りながら、ひたすら漕ぎ進め、遠ざかっていくリングバー島と、遠くに見えていた小島が、少しずつ近づいていくのを嬉々としていた。香帆は途中、ずっと気になっていた、どうやってヤタを助け出したのかを聞いてみたのだが、『助っ人が現れた』とだけしか教えてくれなかった。隠していた力でもあったのかと、勘ぐったが、ただ『話が長くなるから、ヤタが目覚めた時に二人に話す』とのことだった。気になって仕方のなかった香帆は、漕ぎながら妄想という予想を考えてみた。実はあそこに潜り込める秘密の地下通路があって、そこから来たビシューに助けてもらった。とか、ブルーバード号船長のドミノさんが実は潜り込んでいた。とか、ありえないシチュエーションを思い浮かべたが、その非現実さに、ますます訳が分からなくなり、やめた。

 どっちかが漕いでいる間、もう一人は仮眠をする。という感じで進めていた作業は、目的地へのと確実に近づき、もうすぐそこまで迫っていた。空は既に白み始め、星も月も消えかけ、夜明けが近いことを示していた。最後の漕ぎ手は香帆だった。リングバー島はもうすでに遠い。けれど、香帆は用心のため、リングバー島と一直線になるような場所に舟をつけようと、小島を回り込み、舟をつけれそうな安全な場所を探した。そして、小さな砂浜を見つけると、そこに小舟を乗り入れた。

「ネイラ、起きて。島へ着いたわ」

「う、う~ん…おはようカホ。やっと着いたのね~長かった~」

「長かった~じゃなくて起きて?天気が悪いから、雨降るかもしれない。流されないようにもっとここから離さないといけないの」

「え?わ!ほんとだ空に太陽がない!ちょっと待って、すぐ降りるから」

 香帆はネイラが降りると、船を海側から、力づくで押した。ガリっと砂浜に食い込んで、それからは全然動かない。ネイラも岸から引っ張るようにしていたが、それでもだめだった。ふとネイラが思いついたように、『待ってて』と告げると森の中へ分け入り、しばらくして大きめの枝を四本ほど抱えて戻ってきた。それを船の進行方向に、等間隔に並べると、香帆のもとへ駆け寄り、

「せーので押すよ?…せーの!」

 という掛け声とともに船を押した。

「動いた!さっきまで全然動かなかったのに」

「へへっ、こうやってちょっとずつ木を動かしていけば、大きい物も動くの、思い出したから」

 四本の木を動かしては船を押し、また動かしては船を押す、という重労働を繰り返し、なんとか海辺から船を遠ざけ、森の入口付近の茂みまで移動させた。はあはあと息をつき、疲れでしばらく動けなかった。

「う…」

 船の中から小さな声が聞こえた。

「ヤタ!起きたのね!分かる?私よ!ネイラよ!」

「ネ…イラ…?なん…で…?ここは…そと?」

「そうよ!外!もうあんな穴蔵みたいな場所じゃない、おかえり。ヤタ」

「ネイラ落ち着いて、ヤタが混乱してる」

「カホも?お…おれは…」

「説明はあと、雨が降るかもしれないから移動しないと。ヤタ、歩ける?」

 ネイラがヤタの肩を支え、香帆がヤタの腰を支えた。

「っ…」

「ごめんね、傷、痛むよね…少しだけ、我慢してね…」

 まだはっきりとしていないのか、ヤタはふらつきながら、二人に支えられながら上半身を起こし、弱り切った足を砂浜に下ろした。

 そしてポツポツと砂浜に白い斑点が現れ、海の上に雫がはねたかと思うと、ザァーーーっという音とともに大粒の雨が降り注いだ。

「わ!大変!降ってきた!」

「あそこの岩の隙間なら、雨凌げそう!ネイラ、あそこまで行きましょ!」

 足の踏ん張りがきかず、砂浜に崩れ落ちるようにしゃがんでしまったヤタの両脇を固め、その岩場までなんとか辿り着き、ヤタをゆっくり下ろし、水を含ませると、香帆は、雨舟底に溜まってしまわないよう、小舟を上下反転させに引き返し、それが終わると二人の側へ戻った。

「ヤタ、大丈夫?わかる?」

「…出ら…れたのか…あそこ…なぜ…」

「ネイラたちが、助けてくれたのよ」

「たち?」

「二人…の人に手伝ってもらったの。詳しくは、明日。ヤタは少し休んで?」

「ふたり…おれは…終わっ…た…のか…?」

「そうよ。終わったの。もう自由よ」

 その言葉を聞いたヤタの目から、涙が溢れてきていた。泣き叫ぶという行為はせず、ひたすら涙を流して、小さく嗚咽を漏らしながら泣いた。降りしきる雨が、ヤタの涙を具現化しているようだった。

 泣きつかれたヤタは、落ち着きを取り戻すと、コクリコクリとし始め、やがてまた眠りについた。

「ネイラ、膝、貸してあげて?」

「あ、うん」

 香帆は、壁に背を預けて眠っているヤタを、ゆっくり横へ倒すと、ネイラの膝の上に頭が来るようにして、寝かせた。

「よっぽど怖い目にあったのね…私なんかじゃ想像も出来ないくらいの…」

「たぶんそれが、ハーバートって人の…やり方なんだと思う」

「体を見れば、大体の想像は付くけど…でもやっぱり、ただ見るのと、実際に体験するのとでは、全然違うと思う。ヤタの辛さは、私たちが思うよりずっと、何倍もの辛さなんだと思う」

「そうね…」

 そう言ったネイラの方から、スースーと寝息が聞こえてきた。どうやらネイラも夢の中へいってしまったようだった。今日はハードな一日だった。失敗したら危険が伴う場所へ単身で挑み、不可能と思っていたことを成し遂げ、帰ってきた。香帆も慣れないオールを必死に操り、ここまでなんとか辿り着いた。二人の疲れは振り切れまくっていて、限界をゆうに通り越し、ほとんど気力だけで動いていた。なので、ネイラの寝顔をみた香帆も、後を追うように、夢の中へと華麗にダイブしていた。三つの『すぅーすぅー』といった寝息が、雨が降り続く中、木の葉がこすれる音のように続いた。


 ヤタは夢を見ていた。懐かしい声のする。遥か昔に忘れ去っていた夢。

 小さな男の子と自分。そして優しい笑顔の女の人。三人で、小さなあばら家みたいな場所で、暮らしていた。そして現れた男の人が、女の人と自分を引きはがし、泣きじゃくって縋り付いていた男の子を蹴り飛ばした。

『行かないで!兄ちゃん!』

『お前は母ちゃんを守れ!』

『いやだよ!兄ちゃん!兄ちゃん!』

『ーーなら出来るさ。ーーは俺の、自慢の弟だからな』

『守る!兄ちゃんの代わりに!そしたらまた、会える?』

『…必ず。会える。会いに行くよ。それまで生きろ』

 蹴られた男の子の顔には、擦り傷がついていた。その男の子を抱きしめるように女の人が、泣いていた。『ごめんね』と呟きながら、男の子に顔をうずめて、こちらを見ないように背を向け、泣いていた。


 しとしとと雨が降り続く中、先に目を覚ましたのはネイラだった。膝の上に寝ているヤタは静かに寝息をたて、こけた頬と、クマが目立つ顔で、瞼から涙を流していた。ネイラは優しくそれを拭ってあげ、その向こうの香帆を見た。香帆も岩に身を預けて眠っていた

「目、覚めちゃったな~。今どれくらいだろ…」

 岩間から覗く空を見ても、その曇天模様の空からは何も得ることが出来なかった。空からは得ることが出来なかったが、地上で何かが動いた。ネイラはじっと、目を凝らし、その正体を探った。人だった。まだ少し遠いが近づかれればやばい。

「カホ!カホ!起きて!ねぇ!起きて!」

 急いで香帆を揺らして起こし、唇に手を当てると、向こうに見える二つの人影を指差した。香帆はネイラの方に向き直ると、

「ここ、無人島じゃないの?わりと小さな島だったのに…」

 と、体勢を低くし、ヤタのように地面に寝そべった。

「わかんない。でも隠れないとやばい気がする」

 ネイラも膝元のヤタの頭をそっと下ろすと、自身もヤタを覆うように、地面に寝そべった。

 二つの影はだんだんと近づいてくると、船がある砂浜に辿り着いた。

 一人が船を指差し、

「これ、前はなかったよよなぁ」

 というともう一人が、

「座礁かなんかで流れてきたんだろ。それよりさっさと浴びて戻るぞ」

 といって、服を脱ぎ始めた。どうやら雨を浴びに来たらしい。この島の人だろうかと、二人は聞き耳をたて続けた。

「それにしても、お頭も薄情だよなぁー、折角こんなにいいお恵みが降ってんのに、船上で浴びちゃだめだなんて」

「バカかおまえ。商品が逃げねぇようにだろ」

「知ってるさ。売り渡す前のみそぎだからな、仕方ねぇよ」

「まあでも、まさかこんな夜中に降るなんざ反則だよなあ、折角寝てたのに、アイツら起こすために叩き起こされるとか、最悪」

「違いねぇ。まあ今頃、甲板の方じゃ奴隷たちでぎゅうぎゅうだろうがな」

「まぁあいつらい渡したら自由だし、あと少しの辛抱だな」

「つってもすぐ仕入れるんだろ?めんどくせー」

「今回はアイツ来るかな?」

「あ~ハーバート?あのデブか。どうだろうな、この前は来なかったからなぁ…なんでも、新しい玩具が入ったとからしいけど、どこで拾ったんだか。まあそいつに飽きてれば来るんじゃね?」

「また傷だらけにするんだろうなあ。あーーもったいね!」

「お前そんな趣味だったか?」

「は?男にキョーミはねぇ!俺は女が好きだ!」

「そんなの知るか!勝手にほざいてろカス!」

「お前が振ったんだろフォリオのくせに生意気なんだよ!チビ!!」

「チビじゃねえ!!お前がデカすぎんだよクソゼプラ!」

「あああ???んだとてめえ!サメのエサにすっぞフォリオ!」

「出来るもんならしてみやがれ!俺がいねぇと船は動かねえんだよバァーカ!」

「クッ…言うじゃねぇか!まあいい!それよりそろそろ戻るぞ。この穴場を知られたくねぇ。バレねぇうちにとっととずらかるぞ」

「あいよ。胸糞悪い奴隷市に出航だ」

 男二人は雨を存分に浴びまくったあと、ビショビショの体に、ビショビショになって放置されていた服を、ねじ込むように着込むと、元来た方向へ進み始めた。ひょこっと顔を少しだけだしていた香帆は安堵しかけたが、不意にゼプラと呼ばれていた長身の男が立ち止まり、くるっと振りむいた。

「あ?どーしたゼプラ、忘れもんか?」

「いや、なんか視線を感じた…ような…」

「こんな離れたとこ、人も住んでねぇのに視線なんてあるわけないだろ?どんだけ自意識過剰なんだよデカブツ」

「うっせえな。チビッ子は黙ってろ」

「俺は普通だ!!!」

「いいから行くぞ。お頭に怒られたいのか」

 ゼプラはくるっとまた向きを戻すと、後ろでガヤガヤいっているフォリオを無視し、木々の向こうへ消えていった。香帆はひんやりとした地面で、安堵のあまり、気を失っていたかったと切に思った。後ろのネイラからも深い深呼吸が聞こえていたので、彼女もきっと同じだったのだろうと、二人の男が行った方をしばらく見つめ、安全が確認できると、ようやく起き上がった。

「今の…聞いた?」

「ばっちり。かい…ぞく?」

「やっぱりそうだよねえ…はあ…折角一段落付いたと思ったのになあ…対岸にいるっぽいし、下手に動けないし、も~最悪」

「で、でも、証拠はないし、もしかしたらただの運び屋かも…」

「甲板にギュウギュウって、どんだけ人運んでんの…あいつらの船…」

「朝には出るって言ってたから、しばらくじっとしといた方がいいね。にしても、カホの機転で、小舟に草とかで汚れつけといてよかったあ…あれなかったらちょっとピンチだったかも」

「雨で流されると思ったけど、木に守られて、そんなに落ちなかったぽいし、誤魔化せたのは万事休すだわ」

「ばんじ?きゅ?」

「あ、うん。なんでもない!助かったなって!」

 二人の思いがけない来訪者のお蔭で、今がだいたい夜明け前で、明日がもうすぐ来ることを知ることができた。香帆とネイラは態勢を元に戻し、ヤタの頭も再びネイラの膝へと戻された。

「う…うー…ん…」

 その動作でヤタが眠りから目覚めたようで、薄く目を開け、目の前にあるネイラの顔を不思議な感じで見つめていた。

「…あれ?ネイ…ラ?…え?」

 ガバっと跳ね起きようとしたヤタと、顔を覗き込んでいたネイラの額が、わりと大きな音を立ててぶつかった。案の定、ヤタはそのまま膝へ頭を落とし、ネイラは痛さに額を両手で抑えていた。

「いったーーい!ヤタ!もう!」

「ごめん、だって…目の前に…いるなんて思わなくて…ごめん。ネイラ…ってあれ?外?ここ…どこ?」

「なにヤタったら、そんなに盛大にネイラにぶつかったくせに、何も覚えてないの?」

「そーよ!大変だったんだから…昨日のことも記憶にないの?」

「う~ん…ハーバートに、ものすごく…ぶっ叩かれて…気を失った所までは…なんとか、覚えてるんだけど…後は記憶にない…かも?いや、なんかぼんやり…あるような?なんか…おっきな手?に抱えられて、ふわってなって…その後…手が変わって、風が…気持ちよかった気がする…ような?あれ?俺…」

 ヤタの目から涙が流れてきていた。なんで、なんの涙なのか、ヤタも理解できずに、ただそれは流れ続け、腕で覆った瞳から溢れた涙が、ネイラの膝を濡らし続けた。

「ごめん…ネイラ…膝、汚しちまった…」

「いいよ、そんなの。どーせ雨で濡れちゃってるし」

 香帆はそんな二人を膝を抱え、黙って見つめていた。『なんか、いいなあ』お互いを思い合う、でも決して、踏み込んではならない場所には、足を踏み入れない。そんな関係がうらやましく、前まで香帆が抱くことのなかった気持ちを、湧き上がらせた。互いを想い合う、そんな恋がしてみたい。そう思った。

「お取込み中悪いんだけど、そろそろどうするか決めない?」

「え!?あ。うんそうだね!ヤタ、起きれる?」

「あ!うん…へーきだとおも…うわっ!」

  腕で地面を支え、起き上がろうとしたヤタは、力が上手く入らず、そのままつんのめるようにして、地面に転がった。まだ筋力が回復しきっておらず、一週間使われずにいたであろう手足の筋肉は衰え、まともに食事を取っていなかったせいもあり、体力は香帆たち二人よりも落ちていた。そんな自分に情けなく思いながら、むくりと起き上がり、香帆とネイラの間の壁に背を預け、もたれかかった。

「いってえ…」

「大丈夫?」

「まだ…体中ジンジンする…クソ…あいつ、思いっきり…しやがって…」

「まだ体力戻ってないんだから、無理はしないで」

「ありがとう。ネイラ」

「で、そろそろ聞いていい?ヤタを助けた方法」

 香帆がネイラに尋ねると、二人に向かって、まず窓から侵入したら人がいたこと、その人がヤタの場所まで案内して、鎖を鍵を使って外してくれた所まで話した。

「ちょっと待って、鍵、その人持ってたの?持ってるのに、ヤタのだけ外したの?」

「そう…みたい…でも理由は…」

 ネイラは黙って聞いているヤタの、シャツの下にあるはずの傷跡を、目線で差した。香帆は暗くなる心を抑えこみ「それで?」と続きをねだった。

 それから三人で窓まで戻って、そこから私が運んだ。そう話した。

「なあ、今、て言わなかったか?」

「えーと、も一人、起きてきてて…」

「そいつは、阻止しなかったのか?」

「…手伝って…くれた…」

「俺も、そいつらにお礼、言いたかったな…」

「あのね!えと…ヨークって言ってた…」

 ヤタはハッとした顔で地面を見つめた。

「そうか…あいつ…てことは、俺を担いだ奴は…ジルかな。だといいな。なんとなく」

「うん正解。でね…最後に、ヨークが…」

「あいつが?」

「やっぱいいや!」

「ダメだ。ちゃんと聞かせてくれ」

「驚かないで聞いてほしいんだけど…」

「もう…あそこで、いっぱい驚いたから、これ以上は…驚かないよ」

「ヨークは、最後にこう言ったの、『元気でね…兄さん』て」

 ヤタは地面を見つめたまま、膝を抱えてそのまま顔を下へ向けた。髪の毛で見えない顔色とは反対に、涙は、抱えていた痩せこけた膝の隙間から地面に、ポタポタと雨跡のようになって姿を表し、静かに地面を染めていった。香帆とネイラは黙って、その雫が収まり、過ぎ去るのを、ぼんやりとした岩の天井を眺めながら、声をかけるでもなく、ただ、隣で待っていた。

 下に突っ伏した格好で、涙の止まったヤタは、そのまま二人に話しかけた。

「全く…記憶にはないんだ。親も兄弟も、自分が何歳なのかも…正直…はっきりわからない…でもなんとなく、兄弟がいた気がするのは…あいつと接してて…感じてたんだ。名前も顔も…何も思い出せないけど…なんとなく…まさかヨークがその本人だったなんて、伝えてくれれば…俺ももっと、何かしてやれたのに…黙ってるなんて、そんなの、わかるわけないじゃないか…」

「困らせたく、なかったんじゃないかな?」

 突っ伏した、涙で濡れた顔をあげ、ヤタは香帆をみた。香帆は天井を見上げたまま、話し続けた。

「再会が、奴隷になった後で、しかも同じ場所。変に気を使われて、気まずくなるより、黙ってこのままの関係で、一緒にいたかったんじゃないかな…優しい、弟さんだと、私は思うよ」

「ほんと、素敵な男の子だったわ。少し目元がヤタに似てたかも。笑ったらきっと、そっくりよ。カホは、兄妹がいるの?」

「私は、兄が一人。わりと離れてるんだけどね。ネイラは?」

「私は妹がいるの。とっても可愛いのよ。いっつもお姉ちゃんお姉ちゃんて、後ろくっついてきて、まるでアヒルの子みたいなの」

「なにそれか~わい~」

 気ままに。香帆とネイラは、以前のように笑える自分たちにホッとしていた。一方のヤタは、笑みをこぼすことはなく、ただぼんやりと、目の前に見える岩壁を見つめていた。

 以前と変わってしまったのは、ヤタだけだった。一瞬、普通になったのかとも思ったが、目に光が灯ることはなかった。死んだ目をしていて、これだけ話していても、心がどこかへ忘れ去られた顔をしていた。ビシューが前に言っていた『目に光がある』と言っていたのは、こういう事だったのかと改めて実感した。光のないヤタの瞳は、セミの抜け殻のようにじっと、動くことなく、ただ真っ直ぐ何もない場所を見つめていた。香帆とネイラは、そんなヤタを慰めることもできず、ただ側にいることしかできなかった。

 そんなヤタの心を代弁するかのように、雲行きはますます怪しくなり、雲の向こうに、見え始めるはずの太陽が表れることはなく、吹きすさぶ風と、激しい豪雨が、岩肌をたたきつけた。

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