第5話
森へ続く、屋敷までの道のりを、なんとなく街の人から聞き出し、しっかりと位置を確認するとその日の夜こっそり宿を抜け出し、ネイラと香帆の二人は様子を見に、屋敷へ向かった。誰にも見つからないように回り込んで、森の中から屋敷が見えるところまで行き、茂みから、岩肌に包まれた、ひんやりと静まり返り今にも闇に潜む者が飛び出してきそうな屋敷を見た。ここにヤタがいる。二人はそう確信し、息を潜めて、その大きな塊を見上げた。そして香帆に例の感覚が蘇がえった。
香帆は上から香帆を、横にいるネイラを見ていた。あの感覚になっているのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。浮いている香帆は、茂みから屋敷を眺めているネイラの前に飛び出すと、手を振り反応を待った。しかしネイラは瞬きをしただけで、こちらに気づいている様子は、微塵も感じられなかった。横にいる香帆は、時が止まったかのように、瞬きすらしていなかった。これなら行けると確信し、香帆はそのまま、文字通り屋敷に突入した。
まずは三階から。豪華な調度品に囲まれ、部屋の主はガァーグォォと、ひどいイビキを部屋に響かせながら眠っていた。やはり三階はハーバートの私室だった。ベッド脇に置かれた鍵の束と、部屋に鍵がついていることを確認すると、香帆は扉をすり抜け、浮いたまま階段を下った。
二階は小部屋がたくさん並んでいた。小部屋に扉はなく、暖簾のように布が全ての入口を覆い垂れ下がっていた。一つ一つ見ていてもキリがないので、端の部屋からダーーっと一気に端の部屋まで飛びぬけた。中には、足枷の付いた奴隷たちがいたりいなかったり、どうやら二階は、買われた奴隷たち用のフロアみたいだった。
いよいよ疑惑の一階へ下りる。窓もなく、暗くて何もみえない右と、窓と部屋がいくつかある左。香帆は左へ向かった。左端に辿り着くと、そこにある静まり返った調理場へ入ってみた。外へ続く裏手の出入り口。そこは鍵が厳重に外からかけてあり、また調理場と屋敷内部をつなぐ箇所には鉄格子がかかり、そこも鍵がないと通れないようになっていた。調理場斜め前にある二つの部屋は、鍵のない扉だったが二つともただの物置だった。玄関の向かいにあるあの格子のない窓の部屋、そこも鍵がかかっていた。香帆は扉をすり抜け中へ入った。中は応接間というよりは、会食の場みたいな内装だった。部屋の真ん中に、
重りのように鎮座している、黒い闇のような机。それが、ここが人をただ迎え入れる場所だけではないことを物語っていた。その闇の化身のような机に差す、一筋の光のように、格子のない大きめの窓から、月の光が注ぎ込んでいた。窓から外は断崖絶壁。下は強い波がこれでもかと飛沫をあげ、低い悲鳴のような音がこだましていた。香帆は、急に怖くなり首を引っ込め、今にも闇に飲み込まれそうな部屋を急いで出た。
ここまでヤタの影は、その痕跡すら一つもなかった。ということは残るのは右側、あの暗闇が支配しているような場所、扉のない小部屋が、三部屋あるはずのあのゾーンだった。香帆は、バクバクしている鼓動とともに、まだみていない右側へ足を向けた。
闇机の部屋を出て階段を通りすぎ、窓のない廊下と、底知れぬ暗闇が口を開けている場所へ足を踏み入れる。闇に慣れた瞳ですら、そこを見破るには少し時間がかかった。
暗闇に少し慣れてくると、四角く口を開けた入口が三つ浮かび上がった。その内の一つ、廊下からちょうど正面にある部屋から人の、苦しそうな息遣いが聞こえてくる。香帆はそっと中へ向かった。だんだん慣れてきた瞳を凝らし、よくよく見つめる。そして床にうずくまるような塊が見えてきた。ハっとした。それは入口から聞こえていた、荒く呼吸を繰り返していた人、ヤタだった。声を漏らしてはいけないと口元に手をあて、さらに近づいてみた。ヤタは猿ぐつわをされ、後ろ手に縛られていた。それだけでも涙が出そうだったのに、足元は枷が嵌められており、この部屋からでられないように、短めの鎖に繋がれていた。そしてふと、ヤタの胸元に目が止まった。みぞおちの辺りに謎のふくらみがあった。なんだろう?と顔を近づけてみると、それは膨れ上がった肌だった。香帆は恐ろしくなり、その場に座り込んでしまった。その膨らみから目が離せなかった。荒い呼吸の意味はこれだったのだ。必死に痛みに耐えようともがいている息遣いは、普段のヤタからは、想像もつかないような、声にならない声になって、隙間から漏れていた。ひどすぎると思った。
「起きてるのか?」
急に後ろからかけられた声に、香帆は呼吸が止まるかと思った。その長身の人物は、ヤタが連れ去られるときにいた人だった。香帆の方には見向きもせず、「意識がないのに、この呼吸の荒さか」とぼやくと、ヤタの下半身に申し訳程度にかかっていた毛布を取ると、体全部を覆うようにかけなおした。香帆はそっと彼の脇を通り抜けた。背後で彼が、
「逃がしたことが、お前にとってよかったのか…すまない」
と漏らしている声を効いた。香帆は自分のことかと一瞬ビクリとしたが、見えていないはずなので香帆ではなく、それがヤタに向けられた言葉だと悟った。
ハッと我に返ると茂みだった。元の体に戻れたらしく、ひんやりとした空気が肺を横行した。香帆は横にいるネイラを指先でチョンチョンとつつくと、戻りましょう?と小声で話しかけた。ネイラは
宿へ戻るまでの道のりは、動悸と冷や汗がどっと押し寄せる香帆とは対照に、不安に支配されながらも、達成感でいっぱいのネイラが前を歩いた。行きと同様のルートを黙々と歩き、静まり返った路地を抜け、月明かりに佇む、静寂で支配された宿へこっそり戻り、音を殺しながら階段を駆け上がって、自室に戻った。香帆はさっきあった事を話そうか迷ったが、起きているのがバレるのも、声が漏れるのもよくないと判断し、翌朝話すことにして、寝床に潜り込み、ネイラと共に夢の世界へと落ちていった。
香帆たち二人が目覚めたのは、お昼に差し掛かる少し前だった。二人は顔を洗い、下にある食堂に朝ご飯兼お昼ご飯を食べに行き、部屋へ戻った。
部屋へ戻ると、香帆は開口一番に、昨日体験した出来事を話した。ネイラはキラキラと希望に満ちた瞳をしながら、意外と大人しく話に耳を傾けた。
「すごい!カホったら、いつの間にそんなすごい事やってたの!さすがお空から来た人だわ!こんな奇跡が起こるなんて!これなら助け出せる!」
「私もなんだか分からないんだけど、急にホワってなって、気づいたらそんな感じだったの。でね、やっぱり…難しいと思う。中には入れるかもしれないけど、鍵がないと。扉の鍵と枷の鍵。最低でもそれがないと無理よ。それに…」
「それに?」
「帰るときにチラっと窓の方見たんだけど、その時に中に人がいたの」
「あの時間に起きてるなんて、不眠症かトイレかしら?」
「そうじゃないの。こっち見てたのよ」
「そんなはずないわよ。だったら絶対大騒ぎか、今頃見つかって捕まってるもの」
「目があったから間違いはないんだけど…黙っててくれてるのかな…それに…あの顔どこかで…」
「味方ってこと?それか女の子二人だし、入れっこないから、大目に見てくれたのかも?」
「だといいんだけど…とにかく用心しなくちゃ」
「問題は鍵か~ヤタを繋いでる足枷だけでも、外せたらいいんだけど…」
「あんなヒドイ状態を見てしまったから、すぐにでも行きたいけど、やっぱり無理なのかな…」
「無理でも行く」
「ネイラ…」
「私は、ヤタに会いたい…」
ネイラは泣き崩れてしまった。泣き続けるネイラを香帆は優しくなだめた。大丈夫だよ。と何度も声をかけ、背中をさすって、抱き締めた。ネイラはしゃくりあげながら、
「ヤタが…いないならもういい…私は、ここで暮らす」
「それはダメよ!この街は危険すぎるもの。なんとか出来ないかしら…」
この街は、見た目は平和で普通だが、街の半分はハーバートの敷地だし、チンピラはウロウロしているし、だからケンカも耐えない。奴隷市も隠れた場所で開かれていると、聞き込みをしているときに言っていた。ここに、ネイラはいてはいけない。一度、ハーバートには顔が見られてしまったし、屋敷でも見られた。いつまでもここにいたら、きっといつか捕まってしまう。この街を出なければ。香帆は思い立つと、ネイラの横を離れ、荷造りを始めた。
急に立ち上がって、ゴソゴソと荷物をまとめ始めた香帆に、ネイラは涙を止め、不思議な目をして見つめた。
「なに、してるの?」
「ここを出るの。いつまでもここにいたら、ハーバートにも、屋敷の人にも見られてるから、見つかっちゃうかもしれないし。そしたら宿の人にも迷惑がかかっちゃう。とりあえず荷物をまとめて、夜ひっそりと出ましょう」
「そんな…だってまだ助ける方法も決まってないのに」
「私たちが捕まってしまったら、助けにすらいけないわ。だから今、動かないと」
「そうか。そうだね!私たちは逃げきらないと」
涙を拭い、覚悟を決め、ネイラも荷物をまとめ始めた。起きるのが遅かった為もうすぐ、夕方になろうとしていた。二人がいそいそと荷物をまとめあげていると、扉をノックする音が部屋に響いた。
「二人とも、いる?」
ビシューだ。もう仕事は終わったのだろうか。いつもなら太陽がオレンジ色に染まり、欠け始めた頃に戻ってくるのに。
「はぁーい。ちょっと待ってください」
二人は荷物を隠し、何事もないような顔をして、扉を開いた。
「やぁ。二人ともいるね、少し、お邪魔するよ」
ドキリとしたが、断るわけにもいかず、ビシューを招き入れソファーに案内した。ネイラは向かいのベッドに腰掛けながら尋ねた。
「あの、何か用事ですか?」
「君たち、ハーバートのこと、聞いて回った?」
「え?」
「いや、なんか知り合いが、女の子二人に聞かれたって言ってて、もしかしてって、思ったんだ」
ドキリとするどころじゃなかった。これはバレている。そう思った。そして、その時ネイラと香帆が顔を見合わせてしまったのも悪かった。
「その反応だとやっぱりみたいだね。はぁ~…まさか、行ったの?」
「見に行っただけよ。どういうところか見たかったの」
「そうよ。カホも私も何もしてないわ」
「ならいいんだけど、あんな厳重な中に飛び込めるとも思ってないけど、君たちが捕まって悲しむのはヤタなんだ。だから…」
「わかってる。だから私たち、ここを出ようと思って」
「ここを?でる?次の目的地とやらに行くのかい?」
「ええ、そう。ヤタがだいたいは教えといてくれたの。ネイラもいるし、なんとかなるわ」
「そうか、なら、僕はもう。何も言わないよ。ありがとう、決断してくれて」
「ビシューさんのお陰よ。でも、この島を出るには舟がいるの、小型の小さいのでいいから、宛がないかしら?」
「わかった。手配してみるよ。出発はいつ?」
「今日の夜」
「今日!?…さすがに今日は無理だ。準備が出来たら声かけるから、それまで待てないかい?」
「でも、留まってたら、私やカホのこと、捕まえにこないかしら…」
「今は…大丈夫だと思う…君たちには申し訳ないけど、アイツは新しい物を手に入れたら、しばらくは出てこないんだ」
「そう…ですか…カホ、どうする?」
「移動手段がないと動けないし、ビシューさんに甘えさせてもらいましょ。どのくらいで準備できそうですか?」
「ん~三、四日あればいけると思う。知り合いの漁師に声かけてみるから、手配出来たら置いておこう。どこへ運べばいい?」
ネイラは考えながら、そういえば、と、
「港の反対側にある、海岸から行くってヤタは言ってたわ」
「だったら小舟はそこへ運んでおこう。杭を打って砂浜に繋いでおくよ。目印はそうだな、僕のこの腰ひもを巻き付けておくよ」
そういって指差したのは、ベルトがわりにズボンを固定している、紫色と白い布を編んだヒモだった。ビシューはおやすみと、二人に手を振ると、部屋へ戻って行った。準備が整うまで、ここでしばらく足踏み状態になるが、こればっかりは仕方がないと、一度まとめた荷物を解き、夕べ眠れなかったので、仮眠を取った。
ビシューから連絡がくるまで、二人は部屋にじっとしているのも申し訳ないと、タダで泊めてくれているお礼に、一階にある食堂の手伝いをして過ごした。じっと籠っているより、食堂で動き回っている方が、気が紛れて楽だった。そしてあっという間に四日が経ったある日、
「準備オーケーだよ。人気のないところだから、二人とも気を付けて行ってね」
と、全てが整ったことを伝えられた。二人はここまでよくしてもらったお礼と、受付の人にもよく伝えといてほしいことを告げた。
「ありがとうございました。ビシューさんもお元気で」
香帆はお礼を述べ、ビシューもじゃあね、と手を振り、やけにあっさりと自室へ戻っていった。香帆とネイラもう一度、改めて荷造りをして、夜まで時間があったので、仮眠を取って出発に備えた。夜中に目覚めると、荷物をそれぞれ抱え、七日間過ごした宿をあとにした。
港の向かいの海岸といっても、地理に詳しい訳ではないので、二人は手短な反対側の海岸線を歩き、杭が打ってある場所を探した。しばらく歩いていると、砂浜にポツンと突き出るものがあった。紫色と白い布を編んだヒモが巻き付けてある杭だった。船は茂みに半分突っ込まれ、目だたないようにされていた。二人は、茂みから船をなんとか押し出し、砂浜に全体を乗せた。波打ち際まではまだ距離がある。ちょっとずつ、ちょっとずつ推し進め、ようやく先端が波に乗った。ここまでくればもう問題はない。
「ねえ香帆。私行ってくるから。ここで待ってて」
「本気?ねえネイラ、やっぱり危険…」
「必ず、帰ってくる。約束よ。このままサヨナラなんて、私には無理」
我らかの地を
汝、これを糧とし、我の
我はエアリーの
ネイラは呪文を唱え、あの透き通るような羽を出現させた。月明かりに照らされたそれは、とても儚く、今にも砕け散ってしまいそうな煌きだった。
「わかった、待ってる。その代わり途中まで私もこれで行くわ。あの突き出た岸壁の向こうが、恐らくお屋敷だから、あそこで待機してる」
「どこへ行くんだい?」
突然、後ろからかけられた声に、二人は心臓が止まるかと思った。
「ビシューさん!」
知っている顔が茂みから現れた時には、二人ともその場に膝から崩れ落ちた。
「びっくりさせないでくださいよ!もう!」
「ここへ船を置いたのは僕なんだから、不思議ではないだろう?それに、ネイラ…君は」
ネイラの光り輝く羽、その存在を、すっかり今ので忘れていた。見られてしまった。もしもの事態に備え、二人は立ち上がり、舟を押し出そうと身構えた。
「そんな構えなくても、取って食べはしないよ。だいぶ驚いたけど、人を売り渡すなんて行為、僕は大嫌いなんだ…そんなことより、その羽でどこへ行くの?本当に飛んで忍び込むつもり?」
「ビシューさん、私たち一族はいつも隠れて、おびえながら暮らしています。存在がバレれば、きっとタダではすまない。この羽は存在の象徴そのものです。見つかれば、私もヤタと同じめに合うかもしれない。それでも、届く場所にいるのに、羽を広げて飛び立てば、届くかもしれないのに、それをせずに縮こまっているのは、違うと思うんです。私は私がここにいる意味を、ここにいさせてくれた人を救いたい。ただそれだけなんです。だから、私たちを、私を行かせてください」
ビシューは動かなかった。じっと動かず、ネイラを真っ直ぐ見つめ、それから香帆をみた。そして、ふぅ~とため息をつくと、困った笑顔で二人を見つめた。
「全く、ヤタもおてんばな友達を持ったもんだな。こっから先へは僕は行けない。君たちだけで乗り越えるんだ、出来るね?」
「私とネイラならできます。絶対」
「ヤタを、助けてやってくれ。これ以上心を失わないうちに。今ならまだ間に合うはずだから…それと…」
「それと?」
「…あそこにいる奴隷たちは、君たちの敵でも見方でもない。そういった思考は、もう持っていないだろう。だから、彼らにもし見つかっても、変に騒いではいけないよ。注意するのはハーバートだけだ、いいね?」
『はい』と二人が頷き、返事をしたのを見届けると、『さあいっておいで』と舟を海へ押し出すのを手伝ってくれた。ビシューが勢いよく押し出し、二人を乗せた舟は沖へ向けて、まるで導かれるように動き始めた。
「あいつの、傍にいてくれてありがとう」
浜辺から離れていく舟の向こうで、ビシューの呟く声が聞こえた。
船は真っ直ぐ突き進み、沖の方へ向かっていった。香帆はオールを手にし、向きを変え、崖の方へ漕いだ。
屋敷の影を崖上に認め、そこから見えない位置にある岸壁に船を寄せると、香帆はネイラへ視線を送った。『気を付けて』という声に頷き、ネイラはその煌びやかな羽を羽ばたかせ、岸壁の向こうへ消えていった。
ネイラは低く飛んだ、海面スレスレを、まるで泡立つ波の一部のように、潮の香りをまとわりつかせながら、スピードを限界までだし、飛んだ。屋敷のある崖下までくると、そこから一気に上昇し、目的の窓を目掛けて飛び出した。
窓はすぐそこにあった。注意深く中を覗いて、人がいないのを確認すると、するりと中に忍び込んだ。部屋の中に降り立ち、羽を呪文を唱えて仕舞った。
「驚いたな。まさか飛んでくるなんて」
終わった。ネイラはそう思った。人はいなかったはずだった。しかし、闇の中、息をひそめていた者がいた。
「こないだの子ではないな。もう一人の方か」
こないだ?ネイラの頭はパニック寸前だったが、かろうじて、香帆が屋敷の中の人と目が合った。と言っていたのを思い出した。ネイラが黙っていると、
「君の羽のことは言わない。あいつを助けにきたんだろう?」
暗がりにいたその人は、こちらへ歩みを少し進めた。そして隠れて見えなかった顔が、月明かりであらわになった。
「あ、あなたは…」
ネイラはその見覚えのある顔に、さらに緊張の糸を張り巡らせた。その顔は、ヤタが連れ去られるときに見た人物だった。長身の、整った顔立ち。
「タージを連れてったことは謝る。だが俺の意思ではないことは、覚えていてほしい」
「信用しろと?」
「俺たちは、
「だから、連れてったというの?そんなの…」
男はネイラの方へもっと近づいた。そして傷だらけの体を、月光の下にさらした。
「その傷・・・」
「これが俺たちの逆らえない理由、意味だ。分かったなら俺についてこい」
「それだけで信用しろと言うのは無理だわ。第一、あなたにはなんのメリットもないじゃない」
「あるさ。これが俺に出来る、唯一だからな」
そういうと、男は
「来るのか、来ないのか、どちらだ」
男はぶっきらぼうに尋ね、感情のない瞳をこちらに向けた。
「い、行くわよ…」
思わずネイラはそう返答し、扉へ駆け寄った。まだ信じてはいない。だがこうするしか道がないのも分かっていた。だからネイラは男の後について行くことにした。方向が違ったら、駆けだそうと思っていたが、香帆の言った通りの方向へ進んだ為、ネイラは少しだけ緊張を解いた。男が進んでいる先は、真っ暗な穴が空いているみたいだった。この先にヤタはいる。ネイラはそう確信した。真っ暗な穴を見つめ、ネイラは深呼吸をして、拳を握りしめた。早く、早く会いたい。その一心だった。
「ここだ」
足を止めた男の先には、四角い部屋の入口があった。その先はさらに真っ暗で、よく見えない。ただ、かすかに荒い吐息が聞こえ、床の上に転がっているものが見えた。ネイラは男の横を通り抜け、中に飛び込んだ。目をこらし、顔を近づけ、「ヤタ?」と声をかけたが、返事は返ってこなかった。ネイラは床に『くの字』になって寝ている人に顔を近づけた。ヤタだった。ネイラは急いで猿ぐつわを外して、何も着ていない、傷だらけの体を、涙をこらえながら抱きしめた。苦しそうな息遣いが、ネイラの耳元で吐き続けられた。
「そいつは今、痛みで意識がほとんどない。暗くてよく見えないだろうが、傷が治りきっていないから熱もある。お前はどうする?」
「やっと会えたのに、置いていくなんて無理だわ。枷が外れなくても、私はここにいる」
後ろ手に縛られたままのヤタを抱きしめ、もう離さまいと、ネイラは男をキツく見つめた。
「ならば連れていけ。枷なら外してやる」
「鍵がないのにどうやって?ヤタの足を切り落とすつもり?」
「鍵ならここにある。俺は長いから信用が厚い。だから合い鍵を持たされている」
「本当なの?信じていいのね?」
「別にどちらでもいい」
男はヤタの足枷を二つとも外すと、ネイラからヤタをはぎ取り、両手で抱きあげた。
「ちょっと、何するの!」
「このままあの部屋まで、こいつを引きずっていく気か?」
「あ…」
「こいつは自力では歩けない。意識が戻れば別だが」
ヤタはまだ手を縛ったままだ。一刻も早く自由にして、この淀みきった空間から出してあげたい。その為に、この人の力を借りるしかない。
「ありがとうございます。お願いします」
ネイラは立ち上がり、男へお礼を言った。男は入口へ向き直り、動こうとするネイラを手で静止した。誰かいる。
「そこに誰かいますか?」
声の
「ヨークか」
「ジルさんですか?こんな夜中にどうしたんです?」
「お前も、何している」
「いや、なんか胸騒ぎがして…タージさんに何かあったんじゃないかと…て、え?なんでタージさんを?」
「お前には関係ない。
「どこへ連れて行くんです?命令ですか?」
声の主は少しずつ近づき、とうとう部屋の中まで入ってきた。ネイラはまたもや冷や汗が止まらなかった。鼓動が荒く、今にも爆発してしまいそうだった。
「あれ?後ろに誰か…女の子?なんで…こんなところに…もしかして…タージさんを…」
「去れ。お前は何も見ていない。さっさと戻れ」
「いやです。僕も…お手伝いします」
「もう出来ることは何もない」
「ではせめて、お見送りを、させてください」
「なぜだ」
「僕は、タージさんを任せられました。せめて、最後だけでも、その使命を全うさせてください」
「終わったら、全て忘れろ。いいな」
ヨークは「はい」と頷くと、チラっとネイラを見て、ジルの後ろへ回った。そのまま三人は黙って廊下を歩き、あの部屋へするりと滑り込んだ。ジルは窓辺にヤタを下ろすと、
「俺が出来るのはここまでだ。行け」
「ジルさん、ここって下、崖ですよ?女の子一人でどうやって…」
我らかの地を
汝、これを糧とし、我の
我はエアリーの
ネイラは羽を出した。もうここに来ることはないし、一度見られている。ためらいはなかった。
「君は、よう…せい…?」
「私はネイラ。ここまで助けてくれてありがとう」
「君が、ヤタの友達?それとも恋人?」
「まだ、友達。私が、一方的に好きなだけ。でもいいの、それで」
「君は優しいんだね」
「そうかしら」
「うん。そうだよ。ここに来た時、まだ心が生きてた時、きっと君のお蔭でヤタは光を失わなかったんだね」
「私だけじゃないわ、カホもいるもの」
「そっか…最後に、ヤタの顔をみてもいいかな?」
「ええ。でも、あなたはヤタのこと、ちゃんとヤタって呼んでくれるのね」
「こっちが、本当の名前なんでしょ?だからだよ」
「あなたは?あなたの本当の名前」
「僕はヨークが本当の名だよ。ハーバート様は、気に入って名前を変えなかったから」
「そう…ありがとう、ヨーク。ヤタのこと、思ってくれて」
ヨークは壁に寄り掛かるヤタの頬へ手を添えた。それから軽く抱きしめると、ヤタを抱えて持ち上げようとした。
「無理をするな。お前には無理だ」
筋力が少ないヨークには、持ち上げることができなかった。横からそっと差し出されたジルの手により、ヤタは持ち上げられ、窓辺に差し出された。
「そろそろ行け。俺達も戻らないといけない」
ネイラは羽をひらめかせ、宙に飛び出した。一回りも大きなヤタを抱きかかえ、今にも落ちてしまいそうだった。もう、離さない。ただそれだけの、たった一つの想いが、ネイラに不思議な力をもたらした。
「ありがとう、二人とも。どうか、元気で」
「そいつを頼んだ。もうここへは二度と近づかせるな」
ジルとは対照に、ヨークは何も言わず、じっとネイラの腕の中にいるヤタを見つめた。風に揺られ、ヤタの前髪が揺れる。ヨークは前髪を掻き上げ、ヤタの寝顔を見つめた。
「元気でね…兄さん」
小声で呟かれた真実に、今まで顔色を変えることのなかったジルまで、ヨークを見ていた。
だがすぐに我に返り、手でネイラを追っ払った。
「早く行け」
ネイラは泣きそうな顔をしたヨークを見つめ、後ろ髪をひかれながら、ヤタを抱き、屋敷を離れた。
崖の向こうに見えなくなるまで、羽を生やした天使を、二人は見つめていた。
「お前いつから気づいてた?」
「最初からです。顔を見た時から、ずっと」
「そうか」
「ずっと、会いたかったんだ。小さいころ、いつも守ってくれてた兄さんに。母さんに売られてしまったと知っても、会いたかったんだ」
「あいつは気づいていたのか」
「いいえ。記憶が、昔の記憶がないみたいで、僕を見ても気づかなかった。それでもいいんだ。昔の、優しい兄さんのままだった。ちょっとだけど、話も出来た。それで、充分なんです」
「ついて…行きたかったか?」
「それは出来ません。僕の家は、ここですから…でも兄さんは…外で、幸せになって欲しい…」
「今なら、暗くて何も見えない。風の音で、耳も機能しにくいようだしな」
それを聞くと同時に、ヨークは泣き崩れた。我慢していた涙がこぼれ、後から後から溢れてくる。遠い過去に、枯れてしまったと思っていた涙が、なくなってしまったと思っていた感情が、心の底から沸々と湧き上がる。声を殺し、小さな嗚咽を漏らしながら。心地よい風が吹きすさぶ中、行ってしまった空を、涙で歪む視界で必死に仰いだ。
「明日は、満月だな」
横ではジルが、黙って月を見上げていた。
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