第4話
香帆、ネイラに『ごめん』と告げ、ヤタは後ろ手に縛られたまま、ハーバートと従者の男に連れられ、停めてあった馬車まで大人しく歩いた。逃げることも考えたが足が手が言うことを聞かず、なすがままにここまで来てしまった。乗り込む際に首筋に衝撃を受け、ヤタは意識を遠のかせ、そのまま馬車へ押し込まれた。ヤタとハーバート、そしてハーバートの従者を乗せて、馬車は屋敷までの道乗りを、通りを方向転換し走り去った。
どこをどう走って、どうやってここまで運ばれてきたのか、気が付くとヤタは、両手を天井から垂らした鎖で繋がれ、両足は、床に固定された枷を付けられた状態で目が覚めた。部屋に窓はなく、壁に据え付けられたランプと、部屋の入口から入ってくる光だけが、石で囲われた無機質で、よどんだ室内を申し訳程度に照らしていた。
「俺、最悪じゃん…」
思わずこんな言葉が漏れてしまった。自分の現状を逃避したくて気丈にふるまおうとしたがやはり無理だった。泣かないつもりだったが、涙が溢れてくる。こんなつもりではなかった。三人で島へ辿り着き、ネイラを送り届けて、元の狩りをして暮らしていたあの頃へ、あの場所へ帰る。そして誰かと結婚して、子供も生まれて、しわくちゃの顔になるまで幸せに暮らす。そんな些細な目標すらもう叶わない。
「ち…く…しょう…」
手は鎖で繋がれ、こぼれる涙も拭けない。涙は頬を伝い、ポタリ、ポタリと床に二つの斑点を刻んだ。声を殺し、増える斑点模様を見つめ、唇を引き結びながら泣き続けた。もういい。かっこ悪くても、もう誰も見ていないのだから。
「目が覚めたようだな」
声は入口からだった。ゆったりとした紳士風な紺色と赤のチェックの洋服を着て、ピカピカの茶色のレザーブーツを履いた、太めの足と、長身で、身に着けている物は腰布だけの、素足のほっそりとした、枷のついた足が見えた。ハーバートとあの時の従者、まさしくその二人だった。ヤタの涙は瞬時に止まり、同時に恐怖と震えが襲った。記憶が、蘇る。
靴のツカツカという音、と鎖のジャラジャラと金打つ音が、手元に持たれたランプと共に近づいてきた。ランプを持った男はヤタの斜め前で止まり、そのまま動きを止めた。ハーバートは彼を一切気に留め、ずズカズカと歩み寄ると、ヤタの髪の毛をぐいっと掴み、顔を自分に、正面に向かせた。
「ほう?泣いていたのか。余程前の主人に可愛がられていたようだな?恋しいか?」
涙が流れたあとの残る頬に、ランプの光が反射し、キラキラと、そこだけ光の筋のように輝いていた。引っ張られる髪の痛みも忘れ、無理やり向かせられた正面に映る、狂気に歪んだ、獲物を見つけた時のサメのような、歪んだ笑みをただ空っぽな絶望の眼差しで見つめた。
「ふん。まぁいい。しばらくはまたお勉強のし直しだ。ジル、こいつの世話はヨークにやらせろ。お前はもう下がれ」
「わかりました。ハーバート様」
掴んでいた髪の毛をパッと手放し、カツカツと靴を響かせながら、小さな気色の悪い笑い声をクックッと鳴らし、ハーバートはこの場を去った。残されたジルと呼ばれた男は、ハーバートが去ると、ランプを壁に掛けた、消えそうなランプと入れ替え、部屋の出入口へ向かい振り向きながら声をかけた。
「お前、いくつだ」
ヤタは自分に向けて口を開い、たジルという男を見た。二十五歳くらいの青年だった。
「じゅう、ろく…?」
「…そうか。災難だったな。何もできなくてすまない」
「ジル…さんはなんでここに?」
「理由なんてみんな一緒だ。俺も買われた。丁度君くらいの年だったかな…後で君のお世話をする、ヨークって子が来るから、何かあればそいつに言ってくれ」
サッと向きを出入口の方に戻し、消えかかったランプを抱え、足元の鎖をジャラジャラと鳴らしながら出ていった。
残されたヤタに残ったのは、静まり返った部屋と上の方で暗い室内を、唯一の希望のように照らし続ける、揺れるランプの光だけだった。極度の緊張と疲れで、意識を保っていられず、ヤタは再び深い眠りについた。
目覚めても、状況は変わらず、今がいつくらいなのかも分からなかった。部屋の入口から、遠くの窓に差し込んでいる光が、さっきより少しオレンジがかったように見えるが、段々とはっきりとしてきた頭でも、それだけではよくわからない。手も足も繋がれているので身動きはとれないし、さっきは気づかなかったけれど、着ていた服は全て脱がされ、先ほどのジルと同じく、腰布一枚になっていた。直接、壁や床のひんやりとした空気が肌に流れ込み、涼しすぎる程に冷えた。別にこれくらいなら、まぁ暑いよりいっかと、残してきた二人のことが頭をよぎった。
『香帆は結局どこから来たかとか、わからなかったな。本当に空の向こうに国があるなら話、聞きたかったな。ネイラは…かわいかったな。出会ったときは、吸い込まれそうな澄んだ瞳に引かれたんだっけな。ちょっと涙もろいとこもあるけど、弱くない。それに…』
動かない体のことを忘れようと、思考を巡らせていた時に、またあのジャラジャラという音が聞こえてきた。
「あの。生きてますか?」
首を動かし、入口の方へ目を向けると、ヤタよりも少し小さい、小柄な少年が入ってきた。髪は肩よりも長く、整った顔立ちの中にまだあどけなさが残る部分が垣間見えた。
「よかった。生きてた。あの、僕ヨークって言います。お腹すいてませんか。水も持ってきたんで飲んでください」
「君が、ヨーク…水、もらって、いいかな、えと、手が使えなくて…」
「手枷は…外してはいけないと、言われてるので、このまま飲んでください。飲み終わったら、首を下に向けてもらえれば水筒を離します」
そう言うと水筒の蓋を取り、ヤタの口元へ近付け水を与えた。相当喉が渇いていたヤタはほぼ全てを飲み干してしまった。
「わぁ。もう空っぽだ!二本もらってきててよかった。お腹は空いてますか?」
「まだ、腹は減ってない。それより、今何時くらいか教えてほしい」
「今は、ちょうど夕方に入ったところですね。タージさんが連れてこられてから、四時間くらい経ってます。タージさんはこういうの、初めてではないのですか?初日からそんなに傷だらけだなんて」
「…ここで飼われるのは、二度目だ。何も、聞いてないのか?」
「何も。ただ、新人が来たから、いつものように世話をしろと、それだけです」
「そうか。君はもう。自由に歩き回れるんだな。ここの制度も、変わったんだな」
「僕はもう、教育は受けたし、二年半経ちました。それに、遅くても一ヶ月もすれば、そこから出られますよ。制度が変わる前ってことは、昔の…火事があったっていうお屋敷にいたのですか?」
「まぁ…そんなところかな」
「そうですか。
「君は、ここから出たいの?」
「いえ…それは……考えてはいけない…ので…無理だし…僕は親に売られたので、行くところもないし、兄も、いたけど、僕より先に…親が……なので、ここが家なんです。もう、ここしかないんです」
彼は沈黙すると、ヤタが飲み終わった水筒を両手で強く握りしめた。それからだらんと手を横に垂らして、壁に寄りかかり、壁に掛けられた明かりを見つめていた。彼の体も傷だらけだった。恐らく、逃げよう。と手を差しのべても、差し出さないだろう。前のヤタがそうだったように。
「ヨークは、いくつ?」
「僕は今年、十五になります。ヤタさんも同じくらいですか?」
「俺は多分一つ上くらいだ」
「たぶん?」
「昔の記憶が、あまりない。売られたのが、十にも満たない年だったから、正確に何歳だったのかも、誰に売られたのかも、覚えてない」
「そんな…今は、十才未満の売買は禁止されてるはずで…」
「昔はなかったか、それか闇取引ってやつかもな。覚えてないけど。正確な年を把握してるのは、俺を売ったやつと、買い取ったやつだけだ」
「そん…な……」
「そろそろ日が、落ちてくるみたいだな」
入口から漏れてくる光が薄まって、闇の色に染まりつつあった。それを突破口に、話は中断し切り替わった。
「あの、僕、そろそろ夜になるし、ここ寒くなってくるんで、毛布取ってきますね」
ジャラジャラと鎖を響かせて、空になった水筒を持ち、ヨークは奥の方に消えていった。不思議な子だなと思いつつ、
『そういえばあの子、俺のこと、一瞬ヤタって呼んでたな。どこで聞いたんだか。まぁ俺の情報は筒抜けってことか…ネイラやカホのことだけは、気付かれたくないな。絶対』
と、心の中で願った。
「腕、痛いや…」
見えるはずのない空を思い浮かべ、一人で暗く、狭い室内で空しい時間を過ごした。時間が経つと、ようやく、どこかへ行っていたヨークが帰ってきた。
「すみません。遅くなりました。ちょっと手間取ってしまって」
「いや、大丈夫。わざわざすまない。お腹が空いたから、そろそろ食べたいんだけどいいかな?」
「あ、はい!これ美味しいんで、いっぱい食べてください!ここの調理場のおばちゃんたち、料理が上手いんですよ」
「おんな、の人が、いるのか!?」
「え?ああ、でも調理場からこっちには、来れないんですけどね。外から雇ってるらしいです。僕はまだ新米なので、見たことはありませんし。料理を取りに行くのはジルさんみたいな、歴の長い方たちがやる仕事なので」
スプーンと料理が盛られた器を持ち、ヨークは明るくそう語った。この子はどうして、ここでこんなに明るく話せるのかと、外で暮らせばこの倍は明るくて、陽気な少年なのだろうなと思った。手が使えないので、口に食事を運んでもらいながら、ヤタは冷えきった、けれど暖かみが感じられる食事を味わった。
ヤタが食べ終わると、食器を片付けにヨークは一度部屋を出た。手ぶらで戻ってくると、持ってきた毛布の一方をヤタに入念に巻き付けた。夜までこの状態とはさすがハーバートである。
「すみません。寝づらいと思いますが、どうか今日はこのままで。明日は…許しが出たら鎖を下ろすことも出来るんですが…ごめんなさい」
「ヨークが気にすることはない。けど、そのもう一つの毛布は?」
「これは僕のです。初日は側にいるように、いつも言われてるんです。だから、気にしないで眠ってください」
「変わった風習になったんだな。前は放置されまくりだったのに」
「暴れて、体を傷つけさせてはいけないと、その見張りです。前は…前はどんな感じだったんですか?」
「どうだったかな。あまり覚えてないな。一人だけ…今のヨークみたいに、気にかけてくれる境遇の人がいた気がするけど、顔も思い出せない。薄情な者だな」
「そんなことはありません。小さかったなら尚更です。思い出したくないこともあるでしょうし」
「それもそうだな。さ、もう寝よう」
ヨークが壁に掛かったランプを消すと、室内は真っ暗になった。月明かりも届かないこの部屋には、何も見えない暗闇と、静寂だけが響いた。鎖に繋がれたままのヤタは眠りが浅く、腕も痛み、なかなか寝付けなかった。少しして、足元に温かいぬくもりを感じた。暗がりでよく見えないが、ヨークがヤタの片足に、手首を巻きつかせるように絡み付いてきたようだった。寝ぼけているのか、としばらく放っておいたが、冷たい床に現れた、小さくも、あたたかな温もりを感じながら、少しずつ意識が遠退くのを感じ、ヤタもそのまま眠りについた。
次の日目覚めるとそこにヨークはいなかった。ただ脱け殻の毛布がそこに転がっていた。
「あ、起きました?朝ごはん取ってきたんで食べましょう」
ヨークは取ってきた二人分の朝食をそこに置き、まずはヤタにそれを食べさせ、食べ終わると自分の食事をはじめた。ヨークの食事が終わると体に巻き付いてた毛布を取り払われ、肌寒さが体をなぞった。
「まだ少し寒いですが、すみません。今日は…」
「おはよう。タージ」
ニヤッとした、あのイラつくサメのような男が現れた。ハーバートだ。
「ハーバート様。今食事が終わりました」
「ヨーク、ご苦労。もう戻ってよいぞ。今からこいつには仕事があるからな」
「は、はい。失礼します」
ヨークの肩をぽんっと叩き、彼を下がらせた。今日はあのジルというやつも、誰も横にいなかった。ハーバートはヤタの元へ近寄ると顎を掴み、自分の方へ視線を合わせ、
「お前は一度逃げた。だから再教育をする。必要がないかも知れないが、ここの鎖骨の印も新しくするからな。今度は薄れないようにしっかりとな」
「や…やだ…あれは…いやだ…」
「大丈夫だ。焼き印ではない。今度は彫り混むんだ、消えることのない印を」
「ハーバート様。彫り師の方が来られました」
「通せ」
ヤタは恐ろしくて、恐怖で声も出なかった。捕まれた顎を離され、自由になっても、上を向くという簡単な行為が出来なかった。幼い頃に刻まれた記憶が、感覚が、逆らってはいけないと、何もするなと言っていた。ヤタは絶望に打ちひしがれながら、刻々と近付いてくるその時を、黙って怯えながら待つしかなかった。
それからすぐに中年の彫師が姿を現した。
「ミブイ、いつもすまんな新しいおもちゃへの印を頼んだ。場所は…」
ハーバートは気持ちの悪い手つきでおへそから指を這わせていき、みぞおちの部分でピタっとその動きを止め『ここにしよう』と気色の悪い声音で告げた。
ミブイと呼ばれた中年の男は、持っていた道具をヤタの傍へ置くと、『ここ』と言われた場所へ指を這わせた。
「ここですか?旦那様、ここは結構な痛みが走りますが、本当によろしいんです?」
「よい。十センチ程の大きさのやつをいれてやってくれ」
「ほう?今回はまあずいぶんと大きめですな。わかりました。準備をしますので明かりをもう二つ程お願いしてもよろしいですかな」
ミブイは明かりが来る前に、道具を床に広げた布の上に綺麗に並べ、ヤタのみぞおちの様子を暗がりの中指で確認し始めた。
「ふむ。大きな傷跡はないようだな。肉が少ないのが難点だが、仕方ないな」
みぞおちの状態を確認し、全身で恐怖に打ち震え、一向に顔を上げないヤタの様子に「この少年大丈夫ですか?」と傍に立っていたハーバートに聞き「問題ない」と返答を受けた。ミブイはヤタの顔を覗き込み「いつ来ても、ここの子は傷だらけだな」と小声でぼやいた。震えたまま口を開きかけたのヤタを静止し「だいぶ痛いが、ガマンしてくれよ」とその場を一歩動いた。明かりが来たのだ。
「貴様ら遅いぞ。何をしていた!イスはここへ置け。置いたらさっさと定位置について照らせ!」
ハーバートは明かりを持ってきた二人を怒鳴り散らし、そのうちの一人が抱えてたイスを入口より中に置き腰を下ろすと、ドカっと大きな音をたてて座った。
近づいてくる明かりと、明るく照らし出された室内に浮かび上がる五つの影、一つは鎖に繋がれ、もう一つはその前でモゾモゾと動いている。残り二つの影はその二つを囲うように動かず、少し離れた位置にずんぐりとした影がニヤニヤと揺らめいていた。
「先に布を噛ませてくれ」ミブイの言葉に、左側にいた長身の男が動いた。そこではじめて顔を上げたヤタは、その男がジルで、右側でランプを照らしているのが、ヨークだと気づいた。なんとなく、二人にだけは、この姿を見られたくなかったなと思った。
ジルはランプを床に置き、持っていた厚めの布でヤタに猿ぐつわをした。
「では始める。ランプを少し下に下げてもう少しこっちに寄ってくれ」
ミブイはまず下書きを引き、微調整をすると、座っていたハーバートに位置の確認をし、承諾を得、ペンから針に持ち替えると、作業に取り掛かった。
そこからは拷問のような時間が続いた。悲鳴にならない悲鳴が部屋を突き抜け、二階の奴隷たちの部屋まで響いた。そんな、声にならない悲鳴と、荒い呼吸をもろに浴びる部屋の中では、ミブイが黙々と彫り進めていた。ヤタが痛みに苦しみ、逃れようともがく度に横の二人がそれを抑え込んだ。ジルは長い前髪で表情が隠れていて見えなかったが、その手はひんやりと冷たかった。ヨークは長い長髪越しに、ハーバートからの死角になっている口元を血が出るほど引き結んでいた。その二人を背に、イスに座って不敵な笑みをたたえたハーバートが、小さな笑いを漏らしながら、苦痛に歪み、握りしめた拳から血を流し、痛みに涙を流し叫び続けているヤタを、獲物を狙い定めた鷹のごとく、じっとりと見つめていた。
ようやく作業が終わる頃には、ヤタの涙も声も嗄れ、猿ぐつわ越しに漏れる、荒い呼吸のみになっていた。叫ぶことをやめたヤタに飽きたのか、暑苦しい空間に耐えられなくなったのか、気づけばハーバートの姿はここになかった。何時間経ったのか、朦朧とした意識の中にいたヤタには分からなかった。抵抗する力も気力もとっくに限界を超え、彫り師の「終わったよ、よく頑張ったね」の声に安堵し、枯れたと思っていた涙と共に気を失った。気を失ったヤタを気遣うように、ハーバートがいないのを確かめたミブイは、
「無理やり入れれば痛みは倍増する。君たちも痛かったろう。すまないね」
ヤタの涙とよだれでぐちゃぐちゃになった顔を、持っていた手拭いで綺麗に拭ってやると、猿ぐつわの布を解き、横でじっと立っている二人に向けて言葉を放った。ジルの左腕と、ヨークのランプを持っている右手の甲、にその印はあった。二つともヤタのよりやや小ぶりなサイズをしているが、痛みは対して変わらないはずだ。
「君たちのも相当な痛みを伴うが、彼ほどではないだろう。ここは人体で、最も痛みを伴う場所の一つだ。そこに入れるとは、ハーバートも粋なことをする…。少年が目覚める前に新しい布を噛ませてやってくれ、しばらくは痛みと高熱にうなされるだろうから、頼んだよ」
何も言葉を発しない二人に見守られ、ミブイは道具を片付けると、置いてあった水を飲み干し、長時間作業をしていて、固まった体をほぐす様に肩を回した。
「おー。終わったか。」
「旦那様、滞りなく終わりました。ですが、しばらくは痛みが続きますので、出来れば横にならせてやってください」
ミブイの言葉を聞いているのかいないのか、横をすり抜け「まずは出来を確かめてからだ」とヤタの髪を引っ張り顔を持ち上げ、気を失っているのを確認すると『チッ』と舌打ちをし、近くにあったジルのランプをひったくると、彫り終わったばかりの胸元へ近づけた。
「おお!いい大きさだな。鎖骨の焼き印が小さく見える!素晴らしい!」
歓喜に声を上げるハーバートをミブイは冷ややかな目で見つめた。心では「下衆め」と思いながら、口が裂けても言えない言葉を飲み砕いた。「ありがとうございます」と道具を脇に抱え、上機嫌なハーバートと共に部屋を出て行った。残されたジルとヨークは、水に濡らした布でヤタの汗だくの体を丁寧に拭くと、赤く腫れあがった彫りあとと、痛みで傷ついた手首から上を布で冷やした。
夢の中で、ヤタは赤く燃える炎の中にいた。熱くて、呼吸も苦しく、もともとハッキリしていなかった意識が更に遠退くのを感じた。朦朧とする意識の中で、誰かが叫ぶ声を聞いた。声は少しずつ近づいてきて、繋がれたままの首のロープを切ると、ヤタを抱えあげ、炎の方へまた引き返した。熱かった気がしたけど、よく分からない。抱えられたままのヤタは地上に運ばれ、どこかにフッと下ろされた。男は何か声をかけて、そのまま去っていった。
そこでヤタは目を覚ました。上に繋がれた状態ではなく、手を後ろに縛られ地べたに寝かせられていた。足枷はそのままのようだった。そして、針で何度も突き刺され、火で炙られているような激痛が、みぞおちの辺りを走った。目で確認すると、また気を失ってしまいそうなので、直視しないように心掛け、咥えられた猿ぐつわを噛み締めた。昨日渇れるまで流したはずの涙が頬をつたい、冷たい床に滴を落とした。身悶え、足枷をジャラジャラと響かせ、唸り声を発しながらひたすら耐えるしかなかった。しばらくしてやってきたヨークに水をもらい、食欲がないと食事を断り、身体中に響く熱を、なんとか逃がそうと冷たい床を転げ回った。
混濁した意識の中、しばらくするとジルがやって来て、ヤタを起こし、壁にすがらせ傷の状態を確認した。
「このまま熱が引けば大丈夫そうだ。水、いるか?」
ヤタは、かろうじて判別できる聞こえてきた言葉に、コクンと頷いた。ジルはヤタの猿ぐつわを少しずらして、持っていた水筒を、乾ききってひび割れてしまいそうな唇へ、流し込みゴクゴクと飲ませた。
「刺青の痛みは、峠を越えれば薄くなる。今はそれまでの辛抱だ。辛いだろうが耐えろ」
懐かしくて、あったかい声色だなとヤタは思った。そして再び眠るように気を失った。
次に目が覚めた時の視界は、前と同じ床上からの眺めだった。まだ傷はひどく痛み、ジクジクと突き刺すような痛みが続いている。まだフワフワと定まらない思考の中、部屋の入口の向こうに見える光は明るく、眩しく光る太陽の恵みが降り注いでいるようだった。ここに連れ去られてからおそらく三日目。廊下を歩いてくる、太く黒い固そうなひも状の物を持った、あのサメのような笑みの人影を視界で捉え、始まる。と確信した。徐々に近付くその笑みと靴音。それが大きくなる度に、ヤタの目から光が、心が失われていった。
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