壱之伍 くらげの骨

 壮絶な削剥音に、一瞬なれど極楽の幻を見た。しかし神秘の突進は狐霊には届いていない。死んでもいなければ、痛みのひとつもない。ただ延々と寸前で神秘の唸る声がするだけで、まるで時が止まったように気配はそこで静止している。

 不思議に思った狐霊はゆっくりとまぶたを開き、背後を確認した。

 そこには壁があった。冷たく透明で不均一な。地面から突き出る巨大な氷柱群に、神秘は直前で阻まれていた。


 神秘の回転刃もまとめて凍りついており、動かそうにも空回りしているみたいな気の抜けた音を発している。

 呆然とその光景に目を奪われていると先程から聞こえていた声が、今度ははっきりと空気を伝って耳に届いた。


「あーあ、やっちゃった……」


 狐霊は声のした足元を見た。どこから現れたか、声の主はこれまた実在を疑うなにかであった。猫ほどの大きさの四足のそれは、体は白銀の毛に覆われており、所々が翡翠色の炎に燃えていて、しかも水の上に立っている。なぜか人語を解するそれには、顔がなかった。輪郭はきつねっぽいが目も鼻も口もない。頭に該当する部分はくらげにそっくりで、花びらのような模様が付いている。そういう笠をかぶっているかのようで、ありていに言ってたいへんきもい外見をしていた。


「……えぇ~、どなた……?」


 狐霊は外張を幽玄生物から遠ざけるように抱え直して問いかける。


「は?おいおい、呼んどいてそりゃないぜ」


 口もないのにどうやって喋ってるのだろう。いや、それも気になるけど、今はこの氷の壁だ。


「これ、何が起きたの?」


 きつねはぶっきらぼうに答えた。ぶっきらぼうのっぺらぼうだ。


「なにって、君がやったことじゃないか。体中を膨大な霊力が駆け巡ってんの、わかるだろ?」


「僕が?」


 言われてみれば体の中に不思議な力が満ちているのを感じる。のみならず、湧き水のようなそれはなおこんこんと、自分の体から溢れ出しまっているかと思うほどだ。


「それが契約の力さ。水母くらげの骨を手にした君に貸し与えられた、霊の力。わかるだろ、君がいかなる存在に昇華したのか。……ま、ほんとはこんなつもりじゃなかったんだけど……」


 最後の方はぼそぼそ声だったが、不思議とはっきり聞こえた。

 狐霊が水溜りに手をつくと、指先から徐々に水の固化が広がっていく。ことこの体は寓話書誌の中の出来事のように、念じただけで水を凍らせてしまう力を持ってしまったらしい。明らかに人の所業を越えたことを為した自分の濡れた手を、最初からこんな形だったかを疑うような目でまじまじと見つめた。するときつねは誇らしげにふんぞり返った。


「どうだ、すごいだろ」


「う、うん。もしかして、この力があれば……」


 確かな感触に拳を握り、氷の中でのたうちまわる神秘へ戦意を燃やす。

 程なく腕の中の外張が苦しそうに狐霊の胸を押し返したのを感じて、狐霊の意識はすぐそちらへ向いた。


「げほっ、がほっ!……う、うう、きもちわり……」


「あっ、と、外張!大丈夫?」


 狐霊は外張を落ち着かせようと背中を擦った。霞んでいた外張の目に光が戻るのを見て、狐霊はふうと息を吐く。


「いったい、なにが……み、みよ?お前、その格好は?」


「へ?」


 外張の意識が戻ったことに安堵するのもつかの間、目があった瞬間の驚きの表情に戸惑う。自分の顔になにかついてるのかと思い、ぺたぺたと触ってみると、頭頂に手を伸ばしたときになにか違和感を感じた。

 そこに、突起物のようなものがふたつくっついている。そこそこ大きくてとても柔らかく、細い毛に覆われていてぴくぴくと微かに動くそれは紛れもなく動物の耳だった。まさかと思い腰のあたりに視線を落とせば、案の定ご丁寧にも髪と同じ色の大きな尻尾まで抱き合わせ贈与されている。全体的にきつねっぽい要素が強いが、加えて尻尾の周りからはややぬめりのある細長い触手もいくらか生えていた。


「うわきも」


 これも霊とやらの力の一端のあらわれだろうか、どうやら人の姿をも逸脱してしまったらしい。驚く反面、道理で体幹がなんとなく違う気がしたわけだと合点がいった。


「きもいとはなんだ!だが往生際がいいのだけは評価しよう」


「てめえ、みよに何しやがった、妖怪やろう!」


 外張は枯れた声を張り、きつねをひっ捕まえようとして手を振り回す。ひらりと躱され手は空を切る。


「見りゃわかるだろ、文字通り『力を貸した』のさ。戦う気なんだろう?あれと」


「戦う、だぁ?無茶言うな!」


「おいらだって心底そう思うよ。無茶だってさ。だがね、もたもたしてる余裕はないよ」


 きつねが言うやいなや、神秘が唸った。尾を大きく左右に振って氷を振り払おうとしている。あくまで一時的に足止めをしているに過ぎないようだ。直後氷に亀裂が入る。

 狐霊は外張に肩を貸して立ち上がり、何故かきつねは当然のように服の中に潜り込んできた。


「うにょあ!?あの、ちょっと?……ま、まあいいや。外張、立てる?」


 外張はなんとか立ち上がれるが、膝が笑ってまともに力が入っていない。怒涛の展開の変化に心の許容量も差し迫るところらしく、癇癪を起こす一歩手前のように見える。


「糞がっ!もう、何がなんだか!」


「ほんと、次から次へとわかんないことばっかり。世はおしなべて奇天烈だねえ。にひひひ、にひ」


 この修羅場で、それでも狐霊の口調は穏やかなものだった。

 自信のない微笑。根拠のない威勢。しかしこの期に及んでも泰然自若。理解の範疇を逸脱した狐霊の言動に、外張は逆に青ざめた。


「なんで、そんなに」


 狐霊はそれを聞かれて、ほんの少しだけ思考を挟むと強がるようにはにかんだ。


「案外ひとでなしなのかも」


 案の定、外張はがんじがらめになった釣り糸を解く時のような顔をした。


 とうとう神秘は氷の封を力付くで凌駕した。氷片を撒き散らしながらそのまま、重厚的な胴体を叩きつけようとしている。だがいかに恐るべき馬力を持とうとも、やけくそな直線的挙動ならばどうということはない。

 着物の衿からひょっこりと頭だけ出したきつねは鼓舞するように声高に叫んだ。


「さあ跳べ!おいらの契約者サンカーラ!」


 ずどん、と大地が揺れる。水柱が高く伸び上がり、水の粒がきらきらと弾ける。その上空を狐霊は、外張を担いだまま神秘を。屋根ひとつ軽々飛び越えられそうな人間離れした跳躍と独特の浮遊感に外張は嫌でも絶叫した。狐霊自身も向上した身体能力を把握しきれていなかったので、想定以上に飛び上がってしまったことに慌てた。


「うおおおっ!?」


「うわ、こんなに飛べるの!?ごめん、舌噛まないでね?」


 神秘の叩きつけとは比べるべくもないが、狐霊の着水時にも水柱が立ち上る。ぱらぱらと後を追うように、重力に引かれた水粒が頬を濡らし、水面にいくつもの波紋を作る。

 神秘から距離をとった狐霊はいったん外張をその場に下ろした。被害が他へ及ばないよう場所を変えようとしたとき、外張に手首を掴まれた。


「戦うのか、本気で?」


 親友の表情はいたく不安げだった。外張はたくましく成長していたが、このような表情だけはあの頃とちっとも変わらないのだな、と狐霊は思った。

 狐霊は何も言わず、外張を抱きしめる。すると外張の手は力を失いするりと解けた。きっとわかってくれたのだろう。だから狐霊は駆け出した。


「昔からなにも……できないな……俺。……くそっ」


 その背中を見送った外張は座り込んだまま拳を固く握りしめた。込められた力は行き場を迷いすぐにその真下へ自由落下した。

 しかし、その代わりに。


「ちっっくしょおお、みよーーー!負けんなああああっ!!」


 外張は顔だけは下げまいと固く誓った。その背中を決して見失わないように。

 掠れて殆ど言葉にならなくとも、きっと声援が背中を押すように願って、叫ぶ。


「うおーーーっ!」


 狐霊は雄叫びを上げた。高ぶる気持ちを踵に乗せて脱兎のごとく水面を駆ける。正面に立ち塞がる巨大な壁を、この手で超えてみせようと手をのばす。

 先の我武者羅を可能な限り理屈に書き直し、思い描くのは先程の巨大な氷の槍。守るために使ったあの力を、今度は攻撃のために行使しようと、正面にかざした手のひらに力を込めた。


「こ・お・れーっ!」


 叫ぶと同時に水の柱が神秘に向けて吹き上がる。直後ぱきん、という小さな音を種に狐霊の正面から、晴天に向けて小指のような氷柱がつんと生えた。


 そう、氷柱が生えた。それだけだった。


「………………………………あれっ?」


 何度やっても水柱こそ吹き上がるもののおよそ攻撃とさえ呼べない、曲芸もどきの情けない氷筍が周囲に形成されるばかりだ。これでは結果的に神秘の体を大量の水で洗い流してやってるだけにすぎない。


「あれっ?あれぇっ?ふぬぬぬぬぬぬっ!」


 そのあまりに陳腐な霊術に、拍子抜けしたきつねは悪態をついてきた。


「ずこーっ!へたくそ!あほくさ!やめたら?この契約ぅー!」


「だめだこりゃ!にひひひっ」


 問答無用で突撃してくる神秘に対して、狐霊は背中を向けて走り出す。その様は傍から見ればまるで飼い犬と子供の追いかけっこだ。


「……なにやってんだあいつ」


 外張は水の冷たさも忘れて、脱力のあまりべた座りした。これでも命が掛かっていることに変わりはない。変わりはないのだが、なんだか急に馬鹿らしくなって張り詰めていたはずの空気が急激に緩むのを感じ、外張はこみ上げていた吐き気も一気に引っ込んでしまっていた。


「仕方ない、術が駄目なら打撃だ!」


 狐霊は急激に方向転換し、がら空きの神秘の側面をめがけて地を蹴った。扇状に飛沫が上がり、狐霊の体は宙を水平に滑る。そして狙い通りの位置を取るとありったけの力を込めて蹴りを叩き込んだ。

 ごおん、という鐘を突いたような音が鳴り響き、大の男が百人集っても引きずれるかわからない神秘の巨体が一瞬浮き上がった。その光景を目撃した外張たちは衝撃を受けた。


「嘘だろ、まるで大砲だ!」


「だ、だがちっとばかし凹んだだけじゃねえか!効いてるようには見えねえぞ」


 一矢報いたように思われたのも束の間、彼らの表情は再び暗雲に包まれる。蹴りつけた当の狐霊も似たような思いだった。


「硬っっったぁ!」


 狐霊は反動を利用して空中でくるりと回転し、両手両足で着地する。じんじんと染み渡る足の痛みを堪え、その後も二撃、三撃とめげずに攻撃を加えるが、神秘は減速する気配すら見せない。狐霊の心の内を反映してか頭の上の狐耳が根本からぺたんと折れた。


「あーあー、いたそー」


「他人事だと思って」


 きつねは見ているだけで直接手を貸してくれそうにない。


「はは、そりゃそうさ。あんなんまともに相手にしてられっかばーか!!」


「身も蓋もない!」


 せっかく得た力すらも焼け石に水で結局状況は膠着状態だ。術が頼りにならない以上、効果が薄くとも打撃に頼らざるを得ない。後手に回るよりましだと考えた狐霊は追撃を是として接近しようとする。

 しかし、神秘は離れた位置で。これまでにない挙動に狐霊は一瞬訝しむと、がしゃんと音を立てて神秘の鱗状の外皮が甲虫の外羽のように一斉に開いた。唸り声はこれまでと同じものではなく、はじめは低く緩やかに、徐々に音調が高まってゆく。


 …………ぅぅぅぅぃぃぃぃぃぃぃぃぃぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおんん


「っ!?」


 直感的に狐霊は神秘の直線上から身体を逸らす。するとその直後に狐霊の背後でどかっと重々しい衝撃音がした。振り向くとそこには土塊が着撃していた。何が起こったのか、神秘を注視すると中央の口腔の奥で泥が煉られているのがうっすらと見て取れる。神秘の体を大気がすり抜けてゆく。唸り声と思っていたものは、空気が狭い道を通り抜けるときに発生する風切り音だ。


「あいつ、風で泥だんごを射出したの!?」


「なんでちょっと目ぇ輝かしてんだよ!あばばばば当たる当たる!」


 その後も次々と弾丸が射出される。放物線を描く投擲ではなく、鳥が飛ぶような水平射撃。射程はわからないがそれなりに遠くまで届くようだ。一撃一撃が落石のような威力を持っているうえに間隔は短く、狙いは正確だ。畳み掛けるような攻撃ではないにしろ接近を拒絶された狐霊は回避に徹せざるを得なくなり、そのうち街を背にするような形に追い込まれた。近づき過ぎても離れすぎても不都合だ。


「あんにゃろ、こんな技芸をなんで今まで使ってこなかったんだ!」


 きつねが着物の中で尻込みしながら言う。


「蹴られて怒っちゃったのかも」


「なんて短気な奴だ!おい、あいつのこと口から糞野郎って呼んでやろうぜ!」


 きつねはぷんすかと腹を立てた。口の悪さは一級で親近感すら湧いてきた。

 本当に蹴られて怒ったかは定かでないが、おそらく今までは体内に弾丸の材料が少なかったのだろう。突進攻撃と思っていたのは、実際にはあくまで土の補充でしかなかったのだ。材料の確保が済んだ今、突進の必要はなくなった。しかし神秘の攻撃はあくまで直線的だ。それが変わらない限り、今の狐霊に直撃することはない。


「いや、だが好機か?契約者、ちょっと耳貸せ」


 なのにこのきつねは、どうしてそれを察してくれないのか。


「なに!わりと必死なんだけど!」


「避けてるだけだろ!」


「これでも集中して……うわっ」


 豪速の土塊が回避を見越してくるようになってきた。まるで先読みされているようだ。とんでもない学習能力の高さに冷や汗をかく。


「いいか、今のうちに霊術の勘所を教えてやる!よく聞けよ」


「えっ今!?」


 仕方なく狐耳を傾けるときつねは言った。


「お腹をぎゅーってしてからどばーって出す感じだ!」


「なにそれうんちかよ」


 極めて抽象的な擬音語の応酬についぞんざいな口をついた。


「ちっっっげーーーよ霊術をなんだと思ってんだ!!」


「だったらもうちょっと具体的に教えて欲しいなあ」


「ちゃんと話すと長くなる!つーかできると思ったらできるのが霊術なんだ。もとより本質が抽象的なんだよ。願えば臨める白昼夢みたいなもんさ」


 それはもはや勘所云々の話ではない気がする。悲しいことだが一切役に立っていない。それどころか集中力を削いでくるあたりこっちが敵か。


「願えば臨める白昼夢・・・・?」


 せめて足がかりだけでも得られないかとその言葉の意味を頭の中で反芻する。要するに、幻影みたいなものだろうか?おばけがいると思えば、すすきの穂が揺れるのすら冥土の手招きに見えるあれ的な。

 いやに怪談じみた話になってきたと感じて、思わず狐霊は足がすくんだ。


「あっ、しまっ……!」


 神秘の口腔には、すでに次の土弾が装填されている。足の踏ん張りが効かず、回避が間に合わない。余計なことを考えるんじゃなかったと後悔しても後の祭りだった。土弾は着実に狐霊を捉えた軌道を辿った。


 着弾の瞬間、狐霊の霊術が発動した。無意識のことだったが、防御程度には機能する氷壁が狐霊の正面に広がる。ただし制御ができているわけではないので、うまくいったとは言い難かった。形成された氷壁は畳のように薄くて脆く、土弾の勢いを殺すまではできても、貫通され直撃を免れなかった。

 砕け散った氷とともに狐霊の体が後ろへ吹き飛ぶ。外張と、ここまで追いついた条治の悲鳴がやけにゆっくりと耳に届いた気がした。

 気力を総動員してなんとか気絶は免れたが、体の感覚が鈍い。


「この馬鹿!油断しやがって!」


 きつねはてしてしと肉球で頭を叩く。この追い打ち、やはり敵か。


「だい、じょうぶ。生きてる」


「大丈夫じゃねーよ!早く起きるんだよ!」


 すぐにでも体勢を立て直したいところだが機敏な動作には痛みを伴った。せめて霊術を試みようとするが、やはりうまく行かない。窮地の時は形になるのに、不如意がなんとももどかしい。

 格好の的。すなわち絶体絶命。きつねが破れかぶれに怒号を吐いた、その時だった。


「伏せてて!」


 また、聞き慣れない声がした。

 まるで老人のような嗄れ声だ。しかし、少年のような溌剌とした輪郭があった。それは、神秘を挟んで向かい側から聞こえた。

 その直後、ばん!と神秘の周囲を閃光が包みこみ、神秘は苦しみ藻掻くような唸り声を上げた。その間にも連続して群発落雷のように何度も閃き、ちかちかと網膜を嬲る。

 何が起こっているのかさっぱりわからないが確認することもできない。ばちん、ばちばち、と弾ける音が鳴る間、狐霊は目を庇い狐耳をぺたんと折り畳む。音が鳴り止むまで狐霊はじっとしていることしかできなかった。


 ゔうううううぅぅぅぅぅぅん…………


 音が鳴り止むのと閃光が止まるのは同時だった。様子が落ち着いたのを察して目を開けると、そこにはぐったりとした神秘の姿があった。あの錆びた金属をこすり合わせたような鳴き声も、回転刃も、血流のように体表を流れていた赤い光も、全てが止まっている。神秘はまるで死んだように、ぴくりともしなくなっていた。


「……ほぁ」


「なっ、なんだなんだ、何が起こったってんだ」きつねは水上でひっくり返っている。


 あの閃光が何だったのかとか、どうして神秘が止まったのかとか、疑問は山ほどある。しかしそんなことがどうでも良くなるほど狐霊の視線はある一点に釘付けになっていた。息を引き取った神秘へでなければ、きらびやかに散光する彩雲へでもない。その中間、ちょうど神秘の上にそれは立って居た。


「……護身用の携行電磁波動銃も、最大出力で打てば5発でお釈迦か。『繝ゥ繧、繝悶Λ繝ェ1』を止められただけでも上出来だったけど」


 なにやら独り言を言っている。耳馴染みのない言葉の羅列は聞き取れるけれど意味は読み取れない。

 その人物は手に持っていた何かを放り捨て、それからぐるりとあたりを見回して、眉間に皺寄せうんざりしたような口調で呟いた。


「はぁ、まぶし」


 狐霊は一部始終を見逃さなかった。徹頭徹尾を網膜に焼き付けんと見つめていた。

 世界観の違う外見をしたその人物は、全体的に短くも鬢だけ長い黒髪に、褐色肌。だぼだぼの黒い服に襟締をして、その上からどんな華族も喉から手が出るような純白の羽衣を羽織っていた。加えて頭には包帯を巻いており、そこに残った赤黒い滲みから、何やら穏やかではない経緯を辿っていそうだと思った。

 唇が震える。こんな人、大丹波の人なわけが無い。

 狐霊の熱視線に気づいたらしい白衣の君は一瞬興味深そうな、それでいて鋭い視線を向けて言った。


「やあ、危機一髪だったね」


 が、すぐに気怠そうな様子に戻り、ふらつきながら神秘の上から飛び降りた。目でそれを追いかけると、背後から人だかりがやってきていることに気がついた。かなり街の近くまで接近してしまっていたので、かなり目立ったことだろう。それはもうちょっとした騒ぎとなっていた。

 神秘が沈黙したと見るやいなや、外張と条治が大慌てで近寄ってきた。


「狐霊!無事か!?怪我は!?」


「みよ!心臓が止まったぞ」


 自身を心配する声をかけられるも、狐霊の耳には入らなかった。

 立ち上がった狐霊は打ち身の鈍痛すらも忘れて、縋り付こうとするように前のめりになりながら白衣のもとへ駆け寄った。


「あっ……まっ、待って!」


 どう声をかけようか、緊張のせいで乞食みたいに挙動が怪しくなる。そばに立って気づいたが身長差は頭一つ分はあり、白衣の君と視線が交差するだけで二の句が継げない。中性的な顔立ちのその人物はきりりとした朱い眼、すっと切れ味のある眉をしていて、且つこの世の全てに物憂気な倦怠にも似た無表情。どこか影を落とした冷たい雰囲気を醸し出しているのが狐霊の琴線を刺激してやまない。

 狐霊は顔から湯気が立ち上った。どんな浪漫に出会った時とも違う、こんな感情は初めてだった。ようやく発することのできた声は裏返っていた。狐耳がぴんと立ち、尻尾は激しく左右を往復した。


「助けてくれてありがとう!」


「……どう……いたしまして……」


 白衣の君は顎を引いて狐霊の全体像を眺める。狐霊はそれには構わず、やや食ってかかるような勢いで問いかけた。


「えと、その、あなたは誰?どこから来たの?さっきの光は?もしかして、この鉄の動物のことなにか知ってる?」


「……」


「……あ、ごめんなさい!」


 矢継ぎ早に問いすぎたか、険しい顔をされて狐霊はしゅんとなる。背後でぼそっと「あいつおいらの時と態度違くねー?」と不服満載の声がするが聞こえなかったことにする。

 白衣の君はびっくりしたように後ずさった。


「違う。勘違いさせて、ごめんね。その……、ちょっと、気分が……悪くて……」


「大変!ここじゃ冷えるし。ええと、休めそうなとこなら汁粉屋にでも行く?ちょっと目立っちゃうかもだけど」


 白衣の君は少し考えて言った。


「……じゃあ、医療区画へ案内してもらえる?」


「いりょう?ああ、病院のこと?それなら少し歩くけど大丈夫?」


「うん」


 こうしてこの日から、丘陵都大丹波ではあるおとぎ話が語られるようになる。


 後に世に泰平をもたらすべく、滄溟より奇妙奇天烈な一行が遣わされた、と。

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滄溟を仰ぐもの 水屋七宝 @mizumari

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