壱之肆 神秘

「全員あれから離れろ!」


 誰かが張り裂けんばかりにそう叫んだ。しかしすぐに行動にうつせたものはひとりとしていなかった。壱帯は戦々恐々としており、足は皆ことごとく凍りついていたのだ。


「うわああっ!で、でかいぞ!」


「ありゃ生きてんのかっ!?なんだよ、ありゃいったい何なんだ!」


「ど、どこにあんなのが潜んでやがったんだ!」


 頭ではわかっていても体が言うことを聞いていないみたいだ。騒ぎ立てる間にもがりがりと大地を削る音と振動が、死への秒読みの如く背筋を登る。

 そんな中、条治が絶望に染まり切った表情でぼそりと呟くのが辛うじて届いた。


神秘しんぴ……!まさか、そんな……!」


 神秘。たしかにそう聞こえた。


 あれを知ってるの?という問いを掛ける暇はなかった。人群の先頭に立つ者を真っ先に狙ったか、条治が『神秘』と呼んだものは狐霊を正面に捉えて更に加速した。


「おおう、こっち来た超こっち来た!」


「狐霊!」「みよ!」条治と外張は戦慄する。


 狐霊は向かってくるのとは垂直方向に頭から飛び込み、寸前で回避した。後方の男たちもそれを見てようやく蜘蛛の子を散らすように、水に足を取られながらもわらわらとその場から距離を取る。


「げほっ……ちょっと水飲んじゃった……にしてもなるほど、層構造になってるんだ、回転刃あれ


 びたびたと水を滴らせながらのそりと起き上がり、顔を拭って視界を取り戻す。


 ゔぃおおおおお…… きゅいいいいっ きりきり きりきり


 奇怪な鳴き声を発し進み続け、大きく弧を描いて旋回した。そして再び狐霊を正面に捉えると、今度はまるで間合いを測るようにじりじりと前後を繰り返している。深闇を呈する中央の口腔はまるで獲物をねめつける獣の目をしているようでもある。

 それにしても咄嗟のこととはいえ判断を誤った。服はすっかり水に濡れそぼって重みを増し、先ほどと同じ避け方はおろか走ることもままならない。風がとても冷たく感じる。特に体温の低下は致命的だったかも知れない。


「てか、なんで僕なんぐぉっ!?」


 そう思った瞬間、なにかの衝撃を胸部に受けて足はその場を離れて浮き上がり、視界はがくんと揺れ動いた。何事かと思うと、どうやら突風のように飛んできた外張によって攫われたようだった。肩に担がれると脇目もふらず大丹波の方角へと疾走する。火事場の勢いか人並みならぬ、瞬く間の早業に狐霊も理解が遅れた。


「逃げるぞみよ!」


「!? だ、めっ、そっちいっちゃだめっ!下ろして!」


「下りてどうする!死ぬまで戯れるってのか!?隠れる場所があるだけましだ!巡査も居る!」


「だからって街は、人は!」


 外張は声を荒げて聞かなかった。あれにもしも動物の習性というのが備わっていて、この襲撃が縄張り行動に基づくものであれば逃げるのも一つの手だが、限りなく生き物の動きに近かれど、いかんせんあれを生物だと断定するにはいささか無機的すぎる。すなわち悪手だ。

 案の定、神秘は狐霊を追いかけてきた。外張の走る速度はかなりのもので、神秘と十分拮抗している。あちらは大地を削りながら前進する分、外張のほうが僅かに早いか。可能性はあるがあいにく人間の体力は有限だ。いずれにせよ街に到達する前に体力が尽きるのは目に見えている。


「くそったれ!くそったれえ!てめえ狐霊に何しやがるーーーー!」


 条治が注意を引こうと石を投げる。それは鋼の胴体に弾かれ、かんと乾いた音を鳴らした。虚しくも神秘の眼中に条治の姿が収まることはなかった。それでもがむしゃらに石は投げ続けられた。ぽちゃん、ぽちゃん、と湿った音だけが返るのみになろうとも。



 ◇


 ____一方その頃。

 発掘場に残っているうちのひとりはかの金属塊らの陰に蹲り、頭を抱えて気を違えたようにぼそぼそと独り言を垂れ流していた。


「あああ、あんなのありかよ。俺は見てねえ、聞いてねえ、夢だ、そう夢に決まってる!だってあんなものがこの世にあっていいはずねえじゃねえか!……ああっ!なら、まさかあれが、そうだってのか……?誰か教えてくれ……俺を、たすけてくれ……!」


 彼は最後に遺物の特徴の記録を行なっていた男だった。体が細く、運動音痴も相まって力仕事に向かない彼は発掘屋の中でも特に事務仕事を任され気味であったが、その運動音痴が祟ってか足を蹴つまずき、完全に逃げ遅れるのみならず足を挫いて半ば狂乱状態に陥っていた。


「はっ!ない、俺の台帳がない!あ、あれを失くしたらここもお払い箱になっちまう!」


 男は首だけをひょっこりと伸ばして、目を細めて周囲を注意深く探す。やや離れたところであの銀髪の子供が鋼の物体の注意を引いているのが目にうつり、少しだけ気が落ち着いた。その隙きに近場に沈んでいる可能性を考えて視線を落とすと、ふとまたあるものに目が留まった。

 ひとつだけ妙に重かったあの金属塊だ。これらは見た目には全て同じ特徴を備えていたが、これだけは視覚的にも明確に差異があるものだった。これらは胴体の赤道地点から少し上のあたりに赤と緑の『ぽっち』がついているのだが、このひとつだけが緑の部分がまるで蛍のように、定間隔で明滅を繰り返しているのだ。


 よもやこれも鋼の物体と同類ではあるまいな、という予感が頭をよぎり、挫いた足で金属塊の横腹を突いた時だった。何かを『かちり』と押し込んだような小気味良い感触とともに緑の明かりが消え、赤の光が点灯した。それと同時に金属塊は耳をつんざく音量で、本能的に人間の焦燥を煽るような不快な音を発し、


『警告・警告・当該人工冬眠装置は稼働限界に到達しました。収容対象の生体維持のため予定を変更し冬眠を中断します。安全のため収容対象へ速やかな医術的措置を推奨します。又は至急当機の保全管理を行ってください』


「ぎゃああっ!?」


 男は仰天し腰を抜かした。無様に尻餅をついて、もはや身動きは取れなくなった。痛みの出どころすらもわからなくなり、ひゅうひゅうとか細い呼気が気道を行き来する。男はこの先起こることを、見守り祈った。恐怖に喘ぐ声をよそに、金属塊は淡々と述べた。


『相互接続公開通信網に接触できません。状況確認中。確認できませんでした。非常規定に基づき処理を実行します。……逐次的処理全行程完了。冬眠状態解除完了。最終確認完了。生体に異常はありません。……おはようございます。只今の時刻は、三九二八年二月二十日一四時三二分です。良い一生を』


 それ以降は触れてもいないのに、金属塊は不可思議な挙動をした。天板から数寸の高さに、なかったはずの切れ込みが全辺に入り、上部分が滑るようにしてするりと横に落ちたのだ。


 かしゅん しゅううう


 隙間から空気が抜けるような、かすれた音。それと同時に中からは白く冷気が溢れ出る。内部はほとんど空洞で、金属塊は箱であったのだと言うことが伺える。

 男は恐る恐るその中に目を凝らす。


「う、うそ……だろ……」


 男は思わず悲嘆した。太古の靄の先には穏やかな眠りに目を閉じた、ひとりの人間が収まっていたのだから。



 ◇


 街までまだ距離があるが外張の体は早々に限界に到達した。

 人間が真に全力で走れる距離はおよそ四町がせいぜいだ。ましてや水溜りの上を、人を抱えて走ろうものなら壱町だって肺が破れてしまう。だと言うのに、胃の中身をすべてぶち撒けてしまいそうなひどい顔をしながらも参町を走った。


「もういいよ!追いつかれる前に外張が潰れちゃう」


 手を振りほどこうにも、外張は息も絶え絶えその覚悟に折れなかった。


「はぁっ、はぁっ、離す、もんか。みんなあの日、誓っ、んだ、何、犠牲、しても、お前、まもる、て」


 そんなことを言われてもこれっぽっちも嬉しくなかった。外張も街の皆も例外なく大切な友達だ。犠牲なんかではない。だから外張にそんな選択をして欲しくないし、そうさせている自分にも不甲斐なさに嫌気がさし、胸中に深く針が刺さったような痛みを覚える。

 狐霊は厳しい目で背後に迫る神秘を睨みつけ、歯を食いしばった。たとえ時間稼ぎにしかならないとしても、あれはここで食い止めなくてはならない。

 少しでも打倒の可能性を模索すべく、狐霊は観察する。類似の生物、生態、行動原理、移動速度、馬力や弱点。こちらの常識が通用する前提あってだが、持ちうる知識を最大限振り絞る。


「……それにしても、かっこい……じゃない、どうやって前を見てるんだろ」


 一見して、あれには目に相当するものが見受けられない。となると、音や匂いによる感知か、あるいは蛇の舌のような感覚器に頼って判別している可能性が高いと考えられる。

 しかし、ならばどうして狐霊のみを敵対判別しているのだろうか?神秘の目的は?狐霊とそれ以外の明確な相違点と言えば……


「もしかしてあいつ、僕じゃなくて、この首輪を追ってる……?」


 もしもそうであれば、いよいよ首輪の正体という謎に拍車がかかるものの、これさえ捨ててしまえばすべて解決するだろう。しかし生憎これがいかなる手段を用いても外れないことは実証済みだ。策としての実現性は難儀を示す。

 いくら頭をひねろうと、妙なる手立ては何ひとつ思い浮かばない。このまま外張の言う通り、街で迎撃するしかないのだろうか。わずかに諦念が脳裏をちらついたときだった。


『……あー!もー!見ちゃいられない!おい、おいらを呼べ!契約履行してやる!』


 不意に、どこかから声が聞こえた。いや、聞こえたと言うよりは、声に包まれたと言うべきだろうか。どこからともなく発せられたそれは、あるいは水平、垂直、ありとあらゆる全方向から同時に聞こえてくるような、ともかく不思議な体験だった。反響するような声は続けて言った。


『いや。てゆーか。まぁね?流石においらにも良心の呵責ってもんがあって雀の涙くらいには責任なんか感じちゃったりなんてことも別に一切ないんだけどね。君らがひいこら走ってる姿があんまりにも哀れだったもんだから仕方なぁーく力を貸してやるって言ってんだよ素直に喜べばーか!』


 何やら言ってることが支離滅裂で要領を得ない。反射的に口が動いた。


「ええ、誰?何の話?」


『君はとっくに知ってるはずだよ。ひっっっじょーーーに不本意だけど契約は既に成ってるからね!あとは君の魂しだいさ!』


 声の主の言うことははっきり言ってめちゃくちゃだった。突然力を貸すと言い出したかと思えば、具体的なことは何ひとつ明らかにされない。会った覚えもなければ声の聞き覚えすらないのに、そのうえ契約済みだとか、下手なぺてん師だってもっとましな口を用意している。


 これまでのやり取りに外張は一切無反応だった。疑問を挟む余裕がないのか、あまりの疲労に耳鳴りで聞こえなくなっているのかは本人のみぞ知るところだ。果たして声の主が信頼に足るものか、判断は狐霊自身に委ねられる。


 街まであと少しというところで、ついに外張に異変が起きた。急激に走る速度が落ち、がくがくと左右に揺れ体勢が不安定になる。そして水底の隆起に足を取られて前のめりに倒れ伏した。


「うわぁっ!」


 その過程で狐霊の体も空中へ投げ出されてしまった。ぐわんと視界が回り、胴体から入水する。


「痛って……外張……!」


 狐霊は即座に身を起こし、水溜りに頭から突っ伏す外張の上半身を抱き起こした。倒れたときに外張の声が一切聞こえなかった。鳥肌が、急いで顔を覗き込む。意識はあるが、かなり朦朧としているようだ。呼吸が浅すぎる。姿勢を保つ余力すらなく狐霊が支えなければ溺れてしまうだろう。こちらの呼びかけにも応じない。もはや金縛りも同然だった。


『おい珍多羅してたら死ぬぞ!?』


 軽々しかった声の語気が荒くなる。

 狐霊は外張を庇うように強く抱いた。友達を死なせるのだけは死んでもごめんだ。たとえこれが神の声だったとしても構わない。縋るしかないなら、そうするまでだと思った。


 悩んでいる時間はない。万物粉砕の鋼刃は風圧を伴って目と鼻の先に到達していた。生死を賭けた覚悟の決断をするときだ。固く目を瞑り、すべての命運を任せた渾身の力で吠えた。


「あーもーなんでもいいから手を貸して!『アミダアバルナ』!!」


 咄嗟、というよりは無意識の行動だった。狐霊の口は勝手に識らない言葉を唱えていた。



____どこかで鐘の音が、いくつも鳴った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る