反世界 4 デレク・レイ・メイ
「デレク」
自分の不幸を知らなければ、人はどんなに幸福だろう。
自分が本当に欲しがっているものなんか、幾つになっても分かりゃしない。
信じる者は救われるって…?
「デレク?」三日くらい不眠不休で働いてる奴みたいに、か細く、生気の抜けた声でマナが俺を呼んでいる。実際は真逆で、さっきまでベッドで死んだように眠っていただけ。スリフトで買ってきたような、安っぽい、股上の浅い奇妙な柄のショーツだけ穿いたまま、俺が掛けてやったタオルケットから這い出てきた。小さな欠伸をして頭をガシガシと掻いている。元々の
「ねえ」彼女をモデルにこの構図で描いてみるとどうだろうか、と思ったが、その構想は一瞬で立ち消えた。またこっそり撮影してるんじゃないか、と言いたげに怪訝な目で彼女が俺を一瞥したからだ。「聞いてるの?返事してよ」
このところ原因不明の不眠症に悩まされている。そろそろ薬でも処方してもらおうかを思っている俺は昨晩もよく眠れなくて、深夜遅くに酔っ払って帰宅した彼女が勢いよくソファに倒れ込む様子を寝床から眺めて、50キロのダンベルより優に重く感じる身体を抱きかかえてベッドに移した。小さく寝息をたてる彼女にベッドを譲り、ああ…また寝ながら服を脱いでいるなと思いながら、深夜から今朝までずっとソファに座って落ち着かなかった。日頃の疲れと連日の寝不足のせいで憔悴しきっている、そんな俺をよそに彼女はそのままストレッチ素材の黒いTシャツを窮屈そうに着た。丈の短い化学繊維の布はホクロの多い白い肌にぴったりと密着して、臍に通したピアスがキラリと光る。下着一枚の姿よりそこにトップスを着た方がセクシーに見えるのは何故だろう?
「ああ」と俺は返事をして、omni-skinを操作してスケジュールを確認する。手の甲の真ん中を軽く二秒くらい長押しするとタッチパネルスクリーンが開き、MI=DASにログインして右手の人差し指でクリックしていく。eye-linkを起動させてミラーリングし、画面を拡大する。左目の視界いっぱいにHOME画面が開き、タイミングを合わせて瞬きをして適度なサイズに縮小する。
「またあの連中のところに?」と言いながら彼女はバスルームに入って行った。歯を磨くのだろう。彼女は一日に何度も歯を磨く。磨いている間は何度も嘔吐いている。ここ数年、常に口の中が気持ち悪いらしいんだ。いつも歯茎から血が出るほど、親の仇のように磨いている。ただの潔癖性なんかじゃない。だって、それ以外はどっちかというと不潔だからな。平気で鼻の穴を指でほじったりしてるし…それはまたちょっと違うか…。
「そんなふうに言うなよ」俺は彼女の方を見もせずにボソリと答える。「別に悪い奴らじゃないんだから」きっと聞こえてもいないだろう。トイレの水が流れる音がした。俺は服を着替えて出かける支度をする。
「今日は何をするの?」歯を磨きながら彼女がドアから半分ほど顔を出した。前日は当然ながら化粧を落とさずに寝ていたわけで、マスカラが溶けて目の周りがゾンビのようになっていた。ゾンビという形容は少しおかしいかもしれないが、去年のハロウィーンでゾンビとかドラキュラの格好をしてた奴らが同じようなメイクをしていた。何故かその、死者を連想させるような造形が色っぽく見えるので、俺はそうなっているときの彼女が結構好きだが、それを言うと何故か怒る。ヘンタイじゃないの?とまで言われたこともあった。せめてもと思い、アイメイクを濃くするように遠回しに頼んでみたが、彼女はゴシックファッションを毛嫌いするので要求は即却下だ。
「さあね。とりあえずは『
「駅地下、ね」そう言ってまた中へ引っ込んだ。「時間と労力の無駄よ」
「行ってくる」俺はそれ以上もう何も言わずに汚れたブーツを履き、部屋を後にした。ドアを閉める前に一度振り返ったが、彼女は視界に居なかった。
今やってるのはプリセットされてるやつだけど、街路樹を全部たてがみが燃えている
駅の向かいには旗が何本か立っていて、石造りで豪奢な『支部』の建物がある。そしてもともと何だったのか、何のために使われていたのかいつも不思議に思う大きな
そしてその近くにあるミーティングルームに俺は入っていき、準備中の数人と目を合わせて席に着く。全員がeye-linkでブラウザを開き、同じサイトにログインする。そして目を閉じて
俺の後にも何人かやってきて、総勢で十五名ほどになると、
「それでは
ジェームスは確か二十五歳。親父さんは教団の幹部だ。今の代表は三代目だと沿革にはある。創設者の息子が二代目の時のナンバー2がケネスの祖父、筋金入りの血統書付きだ。
「ニュースならびに周知メールで見ただろうが、またデモが起きている。塔の建設反対を訴える連中だが…これらを
『塔』が建設されているのは赤道上にある人工島。俺たち信者は持ち回りでこの工事現場に駆り出される。といっても労働力を求められての事ではない。学生や幹部候補生のための教育実習というか、社会見学みたいなものだ。半分は修学旅行気分のレクリエーションに近い。交流会も兼ねているんだろうな。
それから議題はいくつか変わり、それぞれが報告され、解決され、先延ばしにされていく。俺はほとんど発言せず、じっとeye-linkの画面を見ている。目を閉じていても映る仮想現実の世界と、目の前の現実世界がダブって何とも奇妙だ。少しの特異点があるだけで違いが微妙だから余計に。変な夢を見ているみたいでいつまでたっても慣れない。だから俺はいつも俯いて別のことを考える。だがオンラインにしている限り無線で飛ばされて数々のデータがひっきりなしにアップデートされ、通知の数字が俺の集中力を奪う。眠っている間もデバイスの電源をONにしている人間のほとんどは睡眠障害を抱えているというのも社会問題だと言われている。
プライベート専用のメッセージアプリのウィンドウが開き、一行のテキストが目に入った。
「まだマナと付き合ってんのか?」斜向いに座っているサイモンだ。俺は奴の方を見たが、奴はこちらを見ずに右手の人差し指で左手の甲をなぞるように触ってタイピングしているようだ。「忠告しておいてやる」
「俺に?何を?」
「あの女には関わるな」
「お前の言いたい事はわからないでもない」と俺は打ち込み、「でも別に害はない」と続けて送信したが、そこは撤回すべきかなと思った。しかし、サイモンは確か彼女に言い寄って振られたんだっけか?一応、俺とマナは
「まぁ、同志として助言しておくが、最近のお前はおかしいぜ」ジェームスとフィリップが俺の方を見て何か話をしているが、気づかないフリをして返事を打った。
「何が言いたいんだ」
「あんな女と付き合ってるようじゃ、お前自身が問われるってことさ、いろんな事に関してな。付き合ってる人間を見れば、その人間の程度も知れる」
確かに彼女は裏切り者なんだろうが、まぁ色々あるんだろ。俺がそこまで踏み込む権利はない。でも彼女は俺の心に踏み込んでくる。泥のついたスパイクシューズで。今日もこんな所に来ている俺をバカだと言うだろう。私もバカだったけど今は違うと、そう言うのが聞こえてきそうだ。
サイモンからまたメッセージだ。
「心ここに非ずだな。何をしに来てるんだよ?」不機嫌な様子が文面から窺える。俺はそれを読んで溜め息をつく。分かってるよ。疎外感くらい感じるさ。そこまで鈍感じゃないよ。でも俺もよく分からなくなってきてるんだ。どうしたらいいのか。そもそもこの組織にいるのだって、もともと親の影響だ。でも小さい頃から俺はいずれは『Gee Ess』の幹部になるべく育てられてきてたんだ。今更どうしろっていうんだよ?家も、学校も、仕事も、結婚相手だって決められた中からの選択になるんだ。その他の道なんて無いし、知りもしない。
そして幹部といっても結局、彼の身の回りの世話をする役割ということだ。新興宗教なのに代表者の卓越したカリスマ性だけで急激に巨大化したようなこの組織は彼の独裁状態であり、派閥などは存在しない。彼と彼以外では権力、影響力に天と地の開きがある。力は分散させないことに強みがあるという。彼が本当は何者であるかは信者ですら及び知ることはできないが、これだけの組織をまとめている人間は本当に大した人物だ。間違いなく尊敬に値する。そんな御方に近づけるだなんて、最上の誉れと思うべきなんだろう。なのに素直にそれを喜べないのは、マナのせいだ。彼女が言うには、とても危険であるということ。教祖が生ける『神』なのだから。
誰が神に逆らえるだろう。誰が神を疑うだろう。それは許されない事だ。みんなまともじゃない。教育され、洗脳されている。神の為なら何だってする。『戦争』の教訓が全く活かされてないと、『歴史』から何も学んでいないと、彼女は口酸っぱく言う。彼女は俺を目覚めさせたいと言い、来る日も来る日も俺を否定してきた。結果として彼女の目論みが叶ったかどうかはよく分からない。俺はとにかく混乱してきている。思考は巡り巡り、結局は何も考えられなくなってる。それが良い事なのか悪い事なのかもわからないまま…。
女か信仰か、いや、それとも…。
だいたい、『
「最後に一つ大事なニュースを」
俺は何が欲しいんだ…?
「これは極秘事項につき、箝口令を敷く。決して他言は無用だ」
簡単に、人が変われるものか…。
「人権保護の観点から、クローン開発ならびに脳のメモリー拡張技術研究、AIとヒューマンインターフェイスの融合手術を行っているという、チバの闇メディカル・スクエアに対しての弾圧を…」
くそ。祈れ。
World End Girlfriend 乃木ヨシロー @nogi4460
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