7(終)
気がつくと、わたしは一階にいた。あの広い空間で、一人、清潔に、裸で立っていた。焼け焦げてはいない。小さな女は、わたしの前に立つ老人にわたしのことを説明していた。
われらがぬしはこのむすめをたべぬという。なんじら、たべよ。
老人は手をこすり合わせ、ありがたい、と言った。そしてわたしをうまいものを見る目で見た。わたしはぞっとした。そっと、歩き出す。女が言う。とらえよ。
わたしは老人に捕まった。そして建物の外に連れ出された。外には大勢の人がいて、祭りの話をしていた。彼らは一斉に振り向いた。
老人は説明した。ショウゴが隠しとったこのいけにえ、始祖は食べんてぞ。だけん、おれたちが食べてよからしか。
周りの大人たちの目が爛々となった。わたしは恐ろしくなった。先程は幸せに感じた食べられる予感が、彼らの前に立つと恐怖そのものになっていた。
そうか! 食べるとか。どがんして食べる? おれたちは焼け焦げた子供しか食べたことのなか。
煮物、刺身、切り裂いてから焼肉にする――。様々に話し合ったあと、満場一致で彼らはわたしを丸焼きにすることにした。それならばいつも食べる状態と同じだから、皆戸惑わず、分配も滞りなく済む。
わたしはわけがわからず、狂うほどの恐怖に襲われていた。大人たちはわたしを取り囲み、逃げることは決してできない。
串刺しにして焼くとがよかろうの。
大きな男が使い古したロープを持ってきた。暴れる暇もなく、わたしは大人たちに体を押さえつけられ、手足を縛られ、わたしの世界のものとは比べものにならないくらい大きな公民館に連れて行かれた。
*
あれから一時間が経っていた。わたしはぐったりと公民館の調理場に転がっていた。もう、わたしに希望はなかった。外ではわたしを焼くための火が焚かれている様子だった。
おい、生きとるか。
声がして、驚く。ショウゴだった。彼は裸のわたしを見るなり目を逸らし、逃ぐっぞ、とだけつぶやいた。
もういい、わたしここで死ぬ。
わたしが泣くと、ショウゴは馬鹿言うな、とわたしを叱った。
生き延びて、祭りの会場に戻るとぞ。
ショウゴはわたしの手足の拘束を外すと、わたしに祭りの衣装を渡した。
これ着ろ。お前のやろ。
わたしは寒さで鳥肌の立った体に祭りの着物をまとった。ごわごわして、臭い。それでも着るものがあるということはとてもありがたかった。わたしは泣いた。それをショウゴはとがめ、それどころじゃなかろ、と言った。わたしたちはそっと公民館から出た。幸いにも裏手は山で、こっそりとそこから去ることができた。
祭りは人々を山に集めているようだった。山頂に続く長い階段に、行列ができている。ショウゴによると、わたしたちの世界の人間が山頂で踊る間、こちらの世界の人間は同じ場所でいけにえを見定める作業をするのだそうだ。音を立てず、見つからないように道を進み、わたしとショウゴは藪の中から山頂の様子を見た。
大勢の人々がよだれを垂らしそうに見る中、焚き火があった。その火の中で、子供たちが踊っていた。おそらく今夜の祭り担当の子供たちだ。八人ほどで、何だかいつもより少ないな、と思った。
ショウゴが小声で言った。
あの中に紛れ込むのが一番の方法やな。火の中に飛び込むとや。
え、火の中に?
そうや。そうでなきゃ戻れん。
そう……。
まあ、それはいいんやけどな。
ショウゴはわたしの手を引き、人の群から離れながら言った。わたしは素直について行く。確かに今は好機ではない。広場には人が大勢いて、飛び込んでもすぐに捕まってしまうだろう。わたしはショウゴの言葉に疑念を抱いて、質問した。かなり草の茂った場所に、わたしたちは立っていた。
何がよかと? わたし、火の中に飛び込まんと……。
お前はな、セツ。
ショウゴはわたしの顔を見つめ、にっこり笑った。
おれが食べるために捕まえたとや。
え?
おれはいつもいけにえの端っこしか食べられんやった。いけにえはうまかとけ。だけん、丸ごと食べたくて、今夜、食べるために世話してやったとや。先月、いけにえは取らん予定やった。でも、おれは盗んだ。皆が夢中になって町長の話を聞いてるときにな。いけにえを取る、今月の祭りが狙い目やった。いけにえが二つになったら、皆の目が逸れるもんな。
わたしは信じられない気持ちで彼を見た。細い目をますます細くして、嬉しそうに笑っている。後ずさると、彼は同じだけこちらに迫ってくる。
お前はさぞかしうまかとやろうなあ。
嘘やろ。
ほんとやぞ。だって、ほら。
ショウゴの口は横に裂け、尖った無数の歯が剥き出しになった。よだれがぽたり、ぽたりと落ちる。
お前を食べたくて仕方なか。
ひいっ、と叫び、わたしは走り出した。ショウゴは追いかけてくる。ざざざざ、ざざざざ、と草が鳴る。
どうせ戻れん。とっとと食われろ!
いや、いや。
わけのわからない言葉が漏れる。何かに祈っている。でも、どんな神に願えばいいのかわからない。この世界の神は、わたしを食べる存在だ。もう死ぬしかないのだろうか。草が手足を切る。暑いのか寒いのかもわからない。何も感じない。何も、確かなものがない。
わたしは山頂の広場に飛び込んだ。一斉に、人々がこちらを見た。
祭りのいけにえを見定めていたからだろう。全員の口が裂け、よだれが垂れていた。一人が笑い、おお、おったぞ、と言った。わたしは叫んだ。
がむしゃらに走った。走って、何か熱いものに飛び込んだ。ぎゃっと声が出たが、手ごたえがあったのでそこにあった何か柔らかいものを掴んだ。それにしがみついてぐるりと回転した気がした。空間が歪んだような、奇妙な体の感覚を覚えた。それから、猛烈な熱さを感じた。
気づいたときには、わたしは焚火の真ん中にいた。周囲に子供たちが唖然とした顔で立っていた。わたしは、大慌てで焚火から出て、焦げそうになった着物をばたばたと叩いた。
よく見れば、そこは祭りの夜の山頂の広場だった。いつもの、わたしの。
セツ? と誰かが取り乱した声で言った。母だった。セツ? 母は繰り返しわたしを呼んだ。
わたしは母に抱きついた。そして、泣き崩れた。父がいた。わたしを見て、青ざめた顔をしていた。笛をやめていて、子供たちは不思議そうに父を見ている。大人たちは、わかっている顔と、わかっていない顔と、半々だ。
ふと、今月は次の数え年九歳の年だと気づいた。わたしはもう数え年では十歳だった。見渡しても、そこには目当ての子供はいない。
ちいちゃんは? わたしは妹の名前を言った。父がますます青ざめた。母は不思議そうな顔をする。
ちいちゃんって?
わたしは驚いた。
わたしの妹のちいちゃん! お母さんの二番目の子供!
母は首を傾げ、少しだけ気味悪そうに、そんな子はおらん、と言った。あんただけよ、わたしの子は。
わたしは気づいた。わたしが火の中で捕まえ、ぐるっと世界を交換した、あの体は。
父が激しく泣き出した。祭りの場は、混乱したまま終わった。
*
わたしの家は確かに裕福になった。土地をテーマパークの業者に売ったのだ。家はお城のようになり、フランスの高級車がしばらく家にあった。父の愛車だった。しばらく狂ったように、父は贅沢をした。それでも財産はなくならなかった。いや、正確には――。
わたしが十五歳の時に父が自殺したため、財産は減らずに済んだのだった。罪の意識に駆られたらしい。わたしは何も思わなかった。父に対する愛着は、かけらほども残っていなかった。祖母はわたしが十二歳のときにがんで亡くなった。おそらく祖母だけはわたしを守ろうとしていた。父がわたしをいけにえに捧げようとしたとき、祖母はわたしだけでも救おうとしていたのだ。妹ではなく。そのことに、ぞっとする。
わたしは今、東京で母と二人暮らしをしている。あの場所は呪われていると母が言ったからだ。
わたしは時々、あのときのことを幻だと思う。だから、確かめるように、母に訊くのだ。
わたしの妹のちいちゃんのこと、本当に覚えてない?
母は気味悪そうに答える。
しつこかねえ。そんな子はおらん。
《了》
いけにえ 酒田青 @camel826
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