Touched by the hand of God
不死者の兆候があったお嬢様は、姉さんが城を出て行ってから、その痴呆的な挙動が目に見えて酷くなった。
「…フィデルタはどこへ行ったのかしら?」
何度目だろうか。お嬢様が同じことを口にするのは。
城を出て行ってからどれほどの時間が経っただろうか。常闇の時節が近付き、一日の間隔が曖昧になり、眠りと覚醒の狭間を揺蕩うような寄る方なき時間が絶え間なく流れていく。
僕は城を出て行く時に微かに笑んだ姉さんの顔を思い出していた。
僕はただ、まだ理性の残っている姉さんを少しでも永らえさせたかった。
お嬢様と絵画世界、この二つが姉さんを決して戻ることのない修羅に縛り付けた。僕は滅びゆく世界に、急速に姉さんの全てを奪いつつある世界に、少しだけ時間をねだった。
だがそれは無為だった。お嬢様の事を頼むと言い残し、人間性などとうに枯れ果てた身体に鞭打って、姉さんは再び修羅に身を投じた。
今となって姉さんは何を望んでいるのだろう。お嬢様が創造する完成しえない絵画世界だろうか?
おそらく、違うのだろう。お嬢様の願いを叶えるという。ただ、それだけの稚拙で愚かな願いしか、姉さんは持たない。
だが、その微かな願いすら堕した今、姉さんは一体限られた時間で何をしようというのだろうか?
「ねぇ、ヴィド」
「はい、お嬢様」
「…なぜフィデルタはあそこまで私にしてくれるのかしら?」
「なぜ…と…申しますと?」
お嬢様の決まった質問に答えるのに慣れた頃だった僕は返答に窮した。
「騎士が王に仕えるのは…当然の事です」
「…お父様はもういないのに?」
ハッとしてみるとお嬢様は哀しげに顔を歪ませていた。
狂ってしまったとばかり思っていた。
刻一刻と混濁していくイーチェお嬢様の瞳は、それでも必死に自我を保とうとする様に瞬きを繰り返した。
「私は…フィデルタに謝らないといけない」
「それは…何故ですか?お嬢様?」
「フィデルタを…私の絵空事に付き合わせてしまったから…」
何を言えばいいのか分からずにいるとお嬢様は絵画にそっと手を添えた。
「…この絵から聞こえる声に…耳を傾けない日はなかった。絶え間ない苦しみ、穢れ、取り返しのつかない罪への責め苦、それらの全てが…痛いって言ってる…これを作り上げるために…きっとフィデルタも沢山辛い思いをしたのね…」
「お嬢様…何を…」
僕は得体の知れない恐怖に捉われていた。
何かが破壊される。そんな予感がした。
押し着せられた無垢と無知。周到で救いようのない嘘を重ね、それを互いに信じる事で辛うじて成り立っていた秩序と均衡が。
「二人にはどれほど感謝してもしきれないわ…けれどそれももう終わり」
お嬢様の目には一筋の美しい涙が、そしてその手にはパレットナイフが握られていた。
「ヴィド…ごめんなさい…私が…最後に与えられるものは…これだけしかないの…」
僕に何ができただろうか。
為す術もなくただ叫び、眼前のお嬢様がゆっくりと倒れ臥すのを眺めることくらいしか出来はしなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます