Blessed

 「絵の具…なくなっちゃった…ヴィド」


 栗色の髪がかかる色素の薄いうなじを捻らせて、イーチェお嬢様はそう仰った。物憂げで悲しい声色で。


 姉さんが傍らにいないイーチェお嬢様は情緒が安定しない。僕はお嬢様の両肩を宥めるように撫でた。


 「…姉さんもそろそろ戻る頃合いです…きっと沢山の顔料を持って参りますよ」


 「…本当?」


 如何にも頼りなさげな微笑を浮かべるイーチェお嬢様は、この地上に残された最後の生者であり神の血を引く王族だ。


 お嬢様の父上であられる王の失政により国は荒れた。


 かの王は余りにも誇り高く、潔癖であった。それ自体は美徳であるには違いなく、だがその誇り高さは諸刃の剣であった。王は臣と民の堕落に失望した故に数多くの死罪を強いる悪法を作り、それ故に怨恨と憎悪による穢れが国に吹き荒れた。


 政の混乱故に奴隷にすら騎士という称号をなおざりに与えられ、戦場という戦場へ駆り出された。奴隷は過酷な境遇ゆえに不死者が多く、僕も姉さんも幾度いくたびも修羅を渡り歩く羽目になった。


 いつからだろうか、来し方の、そして行く末の死を数えるのを辞めたのは。


 その様な緩慢な諦観とは裏腹に、失政に次ぐ失政から国は急速に破滅の道を辿り、終局王と王女は私刑に処された。


 本来はその娘であるお嬢様にもその臣下である僕たちにも手が及ぶところだったが、それ以上に早く国は瓦解した。王に失道の責を迫った反逆者達は神たる王に手をかけたことで急速に穢れ、狂い、同士討ちを始めた。それからの話を僕はよく覚えていない。覚えておくべき価値もないということだけはよく覚えている。


 そして、王と王女の処刑により精神に異常を来したお嬢様はいつからか自らの世界に閉じ篭るようになり、いつしか禁忌に手を出し始めた。


 それは忌まわしくも新しい世界、絵画世界の創造だった。特殊な顔料によって描かれたそれは閉ざされた精神世界を具現させる。


 お嬢様は優しげな笑みを浮かべ眼前にある巨大で赤黒い蛇のように見える”度し難い何か”が描かれたカンバスを撫でた。


「誰も泣かないでいい…誰も悲しまないでいい…世界から疎まれたものの優しい揺り籠…」


 お嬢様は夢を語るように歌うように話す。誰も知らない御伽噺を、誰にも見えはしない夢物語を。


 僕にはその様は幻にすがる哀れな少女のように見える。だが、自ら信じようとする者の目には、それが崇高に映ることもあるのだろうか。


 背中の方で岩を擦り合わせるような重い音が響いた。


「フィデルタ!!」


 姉さんは、巨大な鋼鉄の甲冑を纏った身体を引きずるようにしてお嬢様のアトリエに入ってきた。青銅の羽兜も血で朱に染まっている。体から発される濃密で不穏な血の香りに僕ですら後ずさるほどであった。


「…戻りました、お嬢様」


 その眼に微かに逢魔の太陽が如き赤みが走っている様を僕は虚ろな想いで眺めていた。日増しに赤みが濃くなっていくそのことに、哀しみという感情を抱くということ自体、この世界では得難いことなのだろう。姉さんはもうすぐそれすら出来なくなる。


 姉さんは懐から香油入れと思しき小さな壺を取り出すとそれをお嬢様に差し出した。蓋を開けると、そこには昏く赤黒い色の顔料が詰まっている。


「ありがとう!フィデルタ」


 不死者から少量採れる”人間性”から出来た悍ましき顔料。


 人の持つ限りある人間性。死ぬ都度に減じていくそれを、不死で飽和したこの世界でこれだけの量を掻き集めるためには、どれほどの不死者を屠らねばならなかったのだろうか。いとけなく喜ぶお嬢様を見つめる姉さんの横顔を見て、背筋に怖気が走った。


「フィデルタ、今度は何日お城にいられるの?」


「いえ、お嬢様。一晩休んだらすぐにまた行ってまいります。常闇の時節になると何もかも闇に飲まれてしまいますからね。その前にまとまった量を採っておかなければ…」


「そんな…また、行ってしまうの?フィデルタのいない城内はとても寂しいわ」


「お嬢様…またすぐに戻ってまいります。どうかそのような侘しい顔をなさらないでください」


「フィデルタ…」


 お嬢様は悲しそうな顔で姉さんから受け取った顔料の壺を撫でた。


 お嬢様はその顔料が何で出来ているか、知らない。


 周到に無知を与えることによって僕たちはお嬢様の何を守ろうとしているだろうか。正気?本来清浄であるべき何か、だろうか?


 王も潰え、国としての形も失せ、それでも守られるべきものがあると信じているのだろうか。


「…見てフィデルタ…私の…私たちの世界……そこではお父様もお母様も…フィデルタもヴィドも…誰もが幸せに暮らせるのよ」


「はい…心得ております」


 ぽつり、ぽつりとか細い声で語るお嬢様に姉さんは哀しそうで、それでもどこか幸福そうな顔をしていた。

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