32.

 僕は日記に書かれた言葉のとおり、月曜日の放課後に美術室へ向かった。授業には一切出席しなかったので、誰の目にも触れないように人通りの少ない廊下を辿ってきた。月曜日は部の活動日ではないため、部室にはもちろん誰もいなかった。西日が差しており、いつもより暑く感じた。


「なんであんな絵を描いたんだろう、僕は。」

窓際から学校帰りの生徒を眺めながら、独り言を吐いた。


 すると、急に手首を引かれた。びっくりして引かれたほうを見ると果たして加藤さんがいた。


「お、お久しぶりです。」僕はぎこちなく挨拶した。


彼女は同じように会釈した。


「どうしたの?こんな時間に呼び出してさ。」

てっきり罵られるか、聞きたくもない激励でも言われるのではないかと思っていた。


”その絵の続きを描きませんか?”と書かれた紙が彼女から渡された。


「今更?なんで描かなきゃなんないんだよ。もう描けないんだよ。日記をちゃんと読んだのか?」

想定外の文言に僕は声を荒げてしまった。


彼女はまっすぐ僕の目を見つめていた。何も言わなかった。何も言わず手を引き、画 材道具の置いてある机まで僕を誘導し、椅子に座らせた。

目の前には文化祭の時に描いた絵と同じ大きさのカンヴァスがある。その奥に彼女は花を持って座った。

これを描けというのだろう、きっと。


 仕方がないので僕は深呼吸して描く作業を始めた。まず6Bの鉛筆で下絵を作っていく。誰もいない美術室に線を引く音だけが響いている。描いていくうちに、また同じ結果になったらどうしようかと段々不安になってくる。顔を描こうとした途端、強い動悸が起き、鉛筆を落としてしまった。やはり僕に才能なんてなかったのだ。僕はそのまま鉛筆を拾わず、動悸が落ち着くまで待った。彼女のことなど気にも留めず、窓の外のグラウンドを眺めた。野球部が練習をしているのが見えた。部に入りたてと思われる一年生がエラーし、皆に責められていた。

 気がつくと彼女は僕の目の前にいた。徐々に僕の近くに少しずつ寄ってくる。手を伸ばし僕のちょうど心臓がある位置に触れてきた。彼女の体が目と鼻の先にあり、セーターの繊維の編み込みさえ視認できる距離にいる。そのまま顔を近づけ、今度は耳を押し当て、初産を控えた妊婦の子どもの音を聞くように、そっと僕の心臓の鼓動を聴いた。まるで診察されているようだった。ひとしきり音を聴くと顔を上げ、僕を見つめた。何かの儀式のように感じられ、ただその様子を眺めた。すると髪同士が触れる距離まで顔を近づけ、じっとしたままの僕にキスをした。ほんの数秒であったが、時が止まったかと思うのと同時に、いつまでこうされるのかと不安も生じた。唇を離し、僕の手に鉛筆を握らせた。彼女はまた席に戻って座った。一連の行動の意図について今はわからなかったが、僕はまた描き始めた。














  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Pictura philia 加賀美 龍彦 @Taka6322

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ