BACHの主題による幻想曲とフーガ
増田朋美
BACHの主題による幻想曲とフーガ
BACHの主題による幻想曲とフーガ
その日は、やたらと風が強い日で、必ず外へ出ると、強い風が吹く日であった。雨が降るというわけでもないのだが、風だけがやたら強くて、今年は風が吹くなあとお年寄りたちは、口をそろえていっていた。
そういうわけで、なかなか外出する人も多くないし、あまり車も走っていないという風景が見られたが、夏場になると忙しくなり、冬場になると暇になる蘭の家に、一人の女性が現れた。年は中年で、蘭と同じくらいか。若くて、心に傷をつけている人であれば、蘭に入れ墨をお願いすることは、珍しくないのだが、中年の女性というのは、珍しかった。とりあえず、蘭は、彼女を部屋の中へ招き入れて、仕事部屋に案内した。
「で、一体どうして僕のところへお願いに来たんですか。」
蘭がとりあえずお茶を出してそういうと、
「ええ、お願いなんですけど、腕にコマドリを入れてもらいたいんですよ。」
という彼女。
「そうじゃなくてですね、どうして僕のところにお願いしに来たのかを知りたいんです。」
蘭は、もう一回言った。すると、彼女は、あら、刺青師さんは、お願いした客であればだれでも構わず入れてるんじゃありませんの?という。
「つまり、いわゆるカタギというのですか、その女性はやっぱり駄目だというわけですか?」
「カタギとかそういう問題じゃありません。だってどう見ても、あなたは、その容姿と言い、どう見ても入れ墨というものには、縁のなさそうな感じの女性ですもの。それなら、わざわざその世界に入らなくてもいいのではないかと思うんですけれども。」
蘭が、改めてそういうと、
「いいえ、そんなのは当の昔の話し。学生時代までで私の時代は終わりましたわ。大学は出たけれど、それ以降、仕事につけなくて、もうさんざんですもの。だから、何か体に入れていてもおかしくないと、お思いになりません?だって、こんな年なのに、結婚もできなくて、まだ親と暮らしているんですよ。」
と、彼女は言った。
「一体、あなたは、どこの大学を出て、どういう経路でここに来たんですか?お名前は、確か、鈴川朝子さんということはうかがっていますけど。」
蘭は、改めてそう聞いてみる。
「ええ、あたしは桐朋です。ピアノではなくて、パイプオルガンを専攻していました。」
「パイプオルガン。それはまたすごいですね。じゃあ、教会とかそういうところで?」
彼女がそういうので蘭は、急いでそう答える。
「ええ、確かに、学生時代は、BACHの主題によるフーガとかやっていたんですけど、それ以降は、何もありつけそうな仕事がなくて、結局、ニートみたいな生活しているんですよ。」
「はあ、すごいですなあ。あれが弾けちゃうなんて、すごいじゃないですか。僕も、一度聞いたことがあるんだけど、僕はあんな曲とても弾けないと思いました。」
確かにあの曲は大曲だ。パイプオルガンの曲の中でも特に難しいのではないかと思われる。
「そうね。理解してくれる人はそういってくれるけれど、現実は、そうはいかないわよ。そんな曲なんて誰も知らないし、パイプオルガンをどうのなんて言ったら、何バカなことを言っているんだって怒られる一方よ。人生失敗しちゃったわ。だから、こうしてお願いにきているんじゃないの。」
そうか、そうなってしまう人も少なからずいるよなあと蘭は思った。きっと、音楽でやっていけないことを、彼女は攻め立てられて、もう居場所をなくしてしまったのだろう。それで、何か守ってくれるものが欲しくて、ここにやってきたのだ。
「お願いしてもらえないかしら?もう、定職についていないんだから、あたしはアウトローと同じだとおもってちょうだいよ。もう、そういう風に生きていくしか方法もないのよ。」
確かに、生活保護などで暮らしている人が、蘭のもとへやってくるのは確かだった。蘭は、彼女の話を聞いて、そうだなあと思える個所もいくつかあったので、
「わかりました。とりあえず、彫る場所は腕でいいんですね。」
といった。彼女、つまり鈴原朝子の顔がぱっと輝く。
「はい、よろしくお願いします。」
「わかりました。いきなり、彫ることはできません。その前に下絵を描いて、それでよいと思ったものを、彫ることにします。下絵が完成するまで、お待ちいただけますか?」
蘭がそういうと、鈴原朝子は、
「よろしくお願いします。」
と、言った。
「じゃあ、しばらくお待ちくださいね。それと、一つだけ、約束してほしいことがあるんですけど。」
蘭は、鈴原に言った。
「入れ墨というものは、彫ったら消すことはできません。だから二度と、以前の自分には戻れなくなるということです。だから、前のような、うじうじした生活はやめて、にこやかに生きていくんだということを、約束してもらえないでしょうか?」
「わかりました。確かに私も、前向きでなかったことが確かにありました。お約束します。」
と、鈴原朝子は、にこやかに笑ってそう答える。
「じゃあ、下絵が描き終わるまでちょっと待っててください。そうしてから、筋彫りします。」
蘭はそういって、とりあえず今日はここまででと言い、彼女に帰るように促した。彼女はありがとうございます、と言って、にこやかな顔をして、仕事場を出ていった。
これでやっと、私を見捨てないでいてくれる、存在ができる。コマドリを体に彫っておけば、これから先の困難にあっても、明るく生きていける、と朝子は思った。もう、朝子を守ってくれる存在などどこにもないから。父も母も年老いているし、今のままだったら私が死ぬしかないと思っていたから。よし、これからはもっと前向きになろう。と、朝子はやっと考え直すことができたのである。
駅に着いた朝子は、求人雑誌を取った。もう音楽とかそういうものは関係ないから、どこかで働きたい、そう思っていた。これ以上父や母にお世話になりっぱなしはいやだから。それに、コマドリを体に入れておけば、もう昔の自分は終わったのだと考え直すこともできるから。
電車の中で求人雑誌を開くと、なぜか、富士グランドホテルの求人があった。それも、掃除人だとか、フロントの手伝い人などの募集ではなく、併設されているチャペルの、伴奏者を募集するという記事だった。多分きっと、楽器はエレクトーンであると思われるが、朝子はそれでもよかった。よし、この求人に応募してみよう。朝子は、駅を降りると、コンビニへ行って履歴書を買った。家に帰って、必要事項を記入して、雑誌に書いたとおりに郵送した。
郵送した翌日に、彼女のもとに電話がかかってきて、いつから働けるか、という声がした。朝子がこれからすぐに行けますというと、じゃあ来てくださいということであった。よかった、これでやっと働けそうな場所が見つかった!朝子は、喜びを抑えきれないまま、富士グランドホテルまで電車に乗っていった。車の運転免許がない朝子は、電車でしか移動手段が用意されていなかった。
その日から、朝子は、チャペルの伴奏者として仕事を始めた。チャペルは、単なる結婚式場というわけではなく、キリスト教徒の礼拝所としても使われていた。小さい規模であったが、パイプオルガンというものもあったから、朝子は、非常にうれしかった。
主に、礼拝が行われるのは安息日である日曜日が多かったが、チャペルは平日でも開放されていた。誰でも、祈りに来ることは、できるようになっていたのである。もちろん、神をさほど信じていなかった朝子は、そういうものを利用することはほとんどなく、日曜日の礼拝の伴奏者としか位置付けされていなかったが、熱心な信徒であれば、毎日欠かさず礼拝にやってくるものもいるという話だった。
その日、朝子がいつも通りの礼拝の伴奏を終えて、家に帰ろうと電車に乗って、改札口を出たところのことであった。カバンの中を見ると、楽譜が一冊足りていないことに気がつく。あら、チャペルに忘れてきてしまったのかしら、と思って、朝子は、仕方なく、引き返すために切符を買いなおして、また電車に乗った。
再び富士駅に戻って、富士グランドホテルに走っていき、チャペルのドアを開けると、パイプオルガンの音が鳴っていた。何の曲だろうと思ったら、朝子が18番としている、BACHの主題による幻想曲とフーガである。でも、あたしより演奏技術は優っていない、と確信することはできた。朝子が何食わぬ顔をして、チャペルに入ると、演奏者は、驚いた顔をして、彼女のほうを見た。
「ああ、ごめんなさい。忘れ物して、取りに来たの。」
と、彼女が言うと、演奏者はすみませんと言って、椅子から降りた。演奏者は、まだ若い男性で、ちょっとなよっとした、弱弱しい感じの男性であった。確か名前を、森田友行という。
「いえ、勝手に弾いてしまって、申し訳ありません。ただ、一度でいいから弾いてみたかっただけで。」
と、彼は言った。
「でもあたしと同じ曲を弾くなんて、大した度胸ね。リストのBACHの主題による幻想曲とフーガなんて。」
と朝子が言うと、
「ああ、これですか。大した事ありません。ずっとやってみたかっただけのことで、音楽性も何もないと思いますので。」
と、彼は言った。
「そう、ならもう一度弾いてみなさいな。」
朝子がそういうと、彼はわかりましたと言って、もう一度弾き始めた。確かに、若い男性らしく、ちょっと、乱暴なところはあるのかもしれないが、音はしっかりとれているし、足鍵盤だって、しっかりついている。自分の演奏よりよほどすごいのではないか?と、朝子は思ってしまった。まあ、欠点をあげれば、音量調節のところでちょっと間違いがあったりするのかも知れないが。パイプオルガンはピアノと違って、鍵盤を押しただけで音量調節できるものではないので、鍵盤と一緒にある器具を抜き差しして、音量を調整しなければならないのだ。
彼が弾き終わると、朝子は、渋い顔であったが、それを一生懸命我慢して、ほめているような顔をした。
「そうなのね。でもよくできてるわよ。ただ、もうちょっと力を抜いてやってもいいかもね。」
という彼女は、この青年が、実は憎たらしくてしょうがないのだった。それを隠すのは、結構勇気がいる。
「今、音楽学校にでも通っているの?」
朝子が聞くと、
「音楽学校じゃありません。支援学校です。」
と彼は答えた。
「支援学校に音楽科があって、そこでパイプオルガンを専攻しています。中学の時に、学校に行けなくなったから、普通の高校に行けなかったんですけど、母が、音楽をやっている支援学校を見つけてくれて。」
「そう、じゃあ、あなたのお母さんはよほどトロイ人だったのね。あなたみたいに一度躓いている人は、どうやってお金を稼ぐかを優先的に学ぶといいわ。そういう一度落ちこぼれた人間は、二度と帰ってこられないのが今の社会なのよ。そんな、BACHのフーガなんて弾いている暇があったら、すぐに、勉強しなおして、今何をしなければならないか、考えてから弾きなさい!」
青年の顔がどうなっているかなんて、朝子は見る気もなかった。幸い彼女の楽譜は、椅子の上に置かれていた。あの青年が、おいてくれたのだろう。朝子は、彼にお礼を言うこともせず、楽譜を取って、さっさとチャペルを出て行ってしまった。青年が、どうなっているかなんて、知りもしなかった。青年が泣いている声も聞こえなかった。ただ自分は、世の中を甘く見ている人を一人退治したんだ、それだけしか考えていなかった。朝子は、それでよかった、どうせこの人は、成功なんかしないんだから、と思って、得意げになって、富士駅から電車に乗って家に帰った。
数日後、その日は、いつも通り日曜日の礼拝が行われる日で、朝子も伴奏のため、チャペルへ行くことになっていた。いつも通り電車に乗って、彼女は、富士駅に向かって、そのあと歩いてチャペルに向かった。
チャペルに入ると、なぜかパイプオルガンがなっていた。あれれ?伴奏役は私のはずなのに?と、朝子は不愉快な思いをして、中に入った。誰が弾いているのだろう?よく見てみると、弾いているのは、森田友行で、曲は、BACHの主題による幻想曲とフーガであった。しかも私よりずっとうまく、
今度は、音量調節も間違っていなかった。どういうこと?あたしが弾くべき所じゃないの?なんで?そんなにうまく弾けるようになったの?二、三日や一週間で、そんなにうまくなるような楽器でもないし曲でもないじゃないの!どういうわけなのよ!と、彼女は怒りを込めて、聴衆として、演奏を聴いている中年のおばさんに、どういうことなのか理由を聞いてみると、
「今日は長年、ここで演奏してくださった、森田友行君の演奏なのよ。」
と、それだけ答えた。
「まあ、素晴らしい音楽だから、ここで聞かせてもらったらどう?」
と、その隣に座っていた、お爺さんがそういうことを言った。あれ、いつも礼拝にきている人とメンバーが違っている。しかしその二人は、彼女もどこかで会ったような気がする人たちばかりのような、、、。
パイプオルガンは、相変わらずBACHの主題による幻想曲とフーガを奏で続けている。まるで私よりも、うまい人を待っていたかのようによくなっている。なんで私の時はあんなにいい音を出してくれないのか、怒りさえ感じてしまうようなくらい、素晴らしい音を出している。そんなにきれいな音を出してどうするの?そんなことしたって、私みたいに、実生活では役に立ちはしないのよ!それよりも、お金をどうするとか、そういうことを考えろと私は、森田君に言ったはずよ!それなのになんで私よりもあんなにうまく弾けるのよ!
やがて、曲は、それまでの短調で、気持ち悪いとさえ感じさせるフレーズから一変し、変ロ長調の誉れ高く、崇高なメロディーに移行した。ここを見せ場とする人は非常に多いのであるが、森田君がこのフレーズを弾くとすすり泣きがはじまった。どうしてそんなこと、と朝子は思ったが、この部分を聞くと、わけのわからない恐れの渦に巻き込まれ、思わず倒れそうになってしまったのである。
「おいおい君君、大丈夫かい?」
さっきのお爺さんが、朝子に声をかけた。いえ、大丈夫です、と席に座りなおした朝子は、初めて、そのお爺さんの顔をしっかり見た。
「あ!」
思わず彼女は声を立てた。
「あなたは、三年前に亡くなった、五軒家のお爺さんではありませんか!」
お爺さんは、よくわかったねという顔をした。その近くにいたおばさんも、なんだか見覚えのある顔だと思ったら、昨年亡くなった、親戚のおばさんではないか。二人の葬儀に朝子は参列したわけではないが、彼女たちの顔は、ちゃんと覚えている。でもどうして死んだはずのお爺さんや、親戚のおばさんがここにいるんだろうか。
その時、パイプオルガンは、BACHの音を、高らかにならして、曲を閉じた。周りの人たちは、一気に、ブラボーブラボーと言って、拍手をしている。演奏した森田友行が椅子から立ち上がり、にこやかに笑って、ありがとうございました、と礼をした。周りの人たちは、アンコールをせがんでいるが、朝子は、一刻も早く、ここから逃げたくなった。あのリストの恐ろし気な曲をもう一回聞かされるなんて、もう嫌だった。朝子は、椅子から立ち上がった。そして、急いでチャペルのドアに向かい、外へ出ようとした。でも、チャペルのドアは錠でもかかっているのだろうか、どうしても開かない。やがて、森田君がアンコールにこたえて、バッハのトッカータとフーガを弾き始めると、朝子は、より恐怖感が強くなり、とにかくドアを開けようとした。周りの人たちは、なんであの人、今いいところなのに、出ていこうとするのだろ、なんて言っているのが聞こえてくる。彼女は、とにかくでなければ出なければと焦ったが、ドアはどうしても開かない、、、。助けてえ!と一声叫ぶと、彼女は、今現在の場所、つまり布団の中にいた。ああ、助かったと思ったら、夢を見ていたのだった。とりあえず、夢だと思ったので、ほっとする。もう朝起きてもいい時間だった。朝子は、そろそろと起きだして、洋服を着こみ、朝ご飯を急いで食べた。カレンダーを眺めると、今日は、そういえば、礼拝の仕事があったっけなと思って、礼拝用の地味なものを着て、楽譜をかばんに入れて、靴を履き、駅へ向かった。
チャペルに行くと、何か、雰囲気が違っていた。あれ、なんだろう、いつもよりも、たくさんの人が集まっている。見た夢とよく似ているというか、みんな死んだ人間ではないけれど、悲しそうに沈んでいるのがわかった。朝子が、あの今日はどうしたんですか?と近くにいた、おじさんに聞いてみると、
「ああ、先日亡くなった、森田友行君のお弔いについてどうしようか、話し合っていたところですよ。」
と、言うのであった。森田友行が亡くなった?それはまたなぜ?と朝子が聞くと、
「ええ。私たちも詳しくは知りませんが、なんでも、自殺して亡くなってしまったとか。それではいけないと私たちはさんざん励ましてきたんですけど、やっぱり無理だったんでしょうか。あんな優しい子が、なんで早く逝ってしまったんでしょう。」
と、おじさんは答えた。それに続いて、隣のおばさんが、
「そうねえ、あたしたちも大変な時期があったから、学校に行けなくなった彼に、一緒に生きようねと言ってあげていたけれど、、、。」
と言ってすすり泣き始めた。彼らは、口々に森田友行の思い出を語る。どうやらそのために、ここに集まってきているらしい。彼は、いじめがあって学校に行けなくなってしまったようであるが、いつもここにきている人たちにとって、大事な人であったらしいのだ。というのも、日常生活で大変な目にあっている参列者たちは、皆、森田友行が、立ち直ってくれるのを、生きがいにして生きてきた人たちだったらしい。その森田友行が自殺してしまって、今、声をかける対象を失ってしまい、どうしたらいいのか途方に暮れているんだろう。
「だ、だって、彼は、碌に利益を作り出せる人間じゃなかったじゃないの。ただ、学校に行けなくなって、好きな音楽に逃げているだけの、ろくでもない男よ。」
と、朝子が言うと、先ほどのおじさんが、
「いや、俺たちが、励まし続けられるやつがいるということが大切なんだ。俺たちは、どうせ、子供にも、誰にも愛されない、ダメな奴と言われ続けるだからな。」
といった。
「愛されないって、利益を作り出せれば、そんなことはないと思いますけど、、、。」
朝子は、思わずそういうと、
「いいえ、お金を作れてもね、ただの金の製造マシーンとしか見られなくて、寂しい思いをしている人だって、たくさんいるんですよ。」
と、近くにいたおばさんがそういうことを言った。
「働けるからお金を作ることはできるけど、それ以外のことについては、みんな自分でやれる世の中だから、もう親なんて必要ないっていう家庭がいっぱいあるのよ。きっとそれで、みんな幸せだっていうんでしょうけど、あたしたちは、一体だれを愛したらいいのか。」
「そんなこと、、、。」
おばさんはそういうことを言うけど、朝子は納得できなかった。お金を作り出せないで、愛されなかった自分がここにいる。お金があるけど愛されない人達は、社会から弾き飛ばされた友行君が、また立ち直ってくれるのを生きがいにしていくのか?それは、ちょっとおかしいのではないかと思うのだが、、、。
「でも、そうするしかなかったんだろうね。友行君は。やっぱりここでいくら俺たちがいるから頑張れと言ったって、社会的には、ダメな人間で通ってしまうんだしね。」
と、近くにいた別のおじさんが言った。
「お弔いのために、彼の好きだった、リストの何とかという曲、弾いてやってもらえないでしょうか。」
また別のおばさんが、そういうことを言った。このおばさんは、確かに友行君のことを愛しているというのが、顔に出ている人だった。朝子はちょっと彼女が憎らしくなったが、
「ええ、いいわ。あたしでもあれは弾けるから。」
と、人垣を潜り抜けて、パイプオルガンの前に座った。そして静かに冒頭の足鍵盤を押す。絶対自分のほうが演奏技術はあると思ったが、指は、あの時の友行君のようには、うまく動いてくれなかった。参列していたおばさんたちは、合掌したり、祈りの姿勢をとったりしながら、みんな、あの世で彼が幸せになってくれるように、という願いの言葉を口にした。
演奏が終わると、みんな、友行君の代わりをしてくれてありがとう、とお礼を言った。きっとあの世で、彼も聞いていてくれているに違いないとか、そういう宗教的な発言をしたものも中にはいた。そういうことは一切信用しなかった朝子も、そうなのかと思いなおさざるを得なかった。
参列者たちは、一度や二度で立ち直るのは無理なようだった。これからも定期的に集まって、友行君の思い出を語り合いましょう、というまとめ役のおじさんの言葉で、礼拝はお開きになった。何も利益も生み出さない男が、そういう風に役に立つなんて、朝子はまだ、素直に、その通りに従えなかった。
その翌日、朝子のもとに、下絵が完成したと蘭から電話があった。朝子は、すぐに拝見しようと思い、蘭の家にバスで向かった。
「ああ、ようこそおいでくださいました。一応コマドリの下絵を描いてみましたが、どれを身に着けていきたいか、選んでくださると幸いです。」
と、蘭は、朝子に向けて、五枚の下絵を差し出した。どれも、しっかり描かれていて、彼女が身に着けるには、もったいないような気がした。この人も、利益を求めてやっているのだろうか?と朝子は思う。そういう雰囲気はまるで持っていないような気がするのだが、、、。
「こういうものは一生ものですからね、後悔させないように、下絵作りも、入念にやるんですよね。」
と、蘭は言った。朝子は、自分に自信がなかったから、これでいいわ、と一番小さい絵を指さした。
「それでよかったんですか。」
蘭がもう一回聞くと、
「ええ、だって私は、終わってしまった人だもの。もう、何にもなれはしないのよ。」
朝子は、人生を達観したような感じでそういうのだった。
BACHの主題による幻想曲とフーガ 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます