第9話 エピローグ
第九章
病衣を着たさくらが、カラカラと点滴台を引きながら、病棟の廊下を歩く。ナースステーションの周りを、ぐるりと回るのだ。もうかれこれ七周目である。俺とノラもさくらと一緒に歩いていたのだが、徐々に引き離されていまやさくらの背を追っている。
「おい、さくら。お前ペース早すぎなんじゃねえのか?」
「兄ちゃんたちがとろすぎんのよ。術後二週間の患者より遅いってどんだけ」
「無理すっとあとが続かねえぞ」
「無理なんてしてないわよ。屁でもないわよ、こんなの。ガンガンリハビリして、一か月以内に絶対復学してやるもんね。兄ちゃんみたいなグズが、テレビ放送されちゃうんだもの。あれ見たら、この世に不可能なことなんてないんじゃないかって思えて、頑張らざるを得ないわよ」
そしてさくらはその小さい足をさっさか前後して、歩き続けるのだ。その背中には、しっかりとした活力が感じられた。
「やれやれだな。しおらしかったのは術前までだ。あの頃がもはや懐かしい」
「でも、お元気になられましたね」
「いささかなり過ぎだよ」
ナースステーションの前にさしかかると、看護師さんがにこやかにさくらに手を振る。さくらはそれをつんと無視をして通り過ぎる。続いて俺が、あ、どうもとフォローの作り笑いを浮かべながらへこへこ頭を下げ、通り過ぎる。
「あの時のことを、覚えていらっしゃいますか?」
「あの時?」
「本番中に、わたくしが我を忘れて、関西弁で大声で怒鳴ってしまった時のことです」
本番の時の記憶がざっと頭の中に流れる。
「ああ、あれか。うん、まあ」
「あの時、とっさの機転で、わたくしを助けてくださいました」
「べつに、助けたなんて大げさなこっちゃないだろ。フォローになってたかも微妙だし。それに、ノラからの借りは、あんなんじゃ百分の一も返せてないや」
「完済される日が来るのを、気長にお待ちしております」
「いつになるかな。一生涯かかっちまうかもよ」
長すぎや、のツッコミが来るのかと思いきや、ノラはふっと笑って、その顔を俺に近づけた。慌てて身をのけ逸らしそうになったその時、ノラの唇が俺の頬に触れた。突然のことに、俺は心臓が上下逆さになったがごとく動転した。
「な、なんか今……」
照れ隠しの言葉が三百通りくらい頭に浮かぶ。
「俺の頬に、グミ押し付けた?」
「グミちゃうわ。唇や」
ノラが自分の唇を指差す。
「俺の頬から、蜜でも出てた?」
「カブトムシちゃうわ。口づけや」
「ちょっと二人とも、なに止まってんのよ。ちゃっちゃと歩きなさいよ」
さくらがこちらを振り向いて、声を上げていた。
「はいはい。すぐに追いつきますとも」
そう言ってノラは、何事もなかったかのようにスタスタ歩いていった。
俺はと言えば、しばらく硬直して、その場に立ちすくんでしまった。発作の時とは違うトクトクとした心地よい動悸が、いつまでも続くのであった。
*
舞台袖に、ガヤガヤとせわしなく人が出入りする。失礼します、と言いながら、一人二人とスタッフが俺の脇を通り過ぎていく。今日は地方で野外のライブだ。会場の広場にはだいたい二百人から三百人くらいの人が集まっている。時刻は午後五時を過ぎて、夕闇がひっそりと空を染めつつある。
「寒いですね」
「こんな季節に野外ライブなんて無茶苦茶だ。俺はこれ着て出なきゃいけないし」
俺はガチガチと歯を鳴らしながら言う。
俺はあの日以来、舞台に立つときは団長のお下がりのちっこいミニチュアスーツを着ていた。袖も丈も短いので、とにかく寒さが染みる。だれに強制されたわけでもないのだが、なぜか着なきゃいけないのではという縛りを感じていた。
「その恰好、様になってきたようで。案外気に入っていらっしゃるのでしょうか」
「やめてくれよ。売れて、ちゃんとしたスーツ買うまでの繋ぎだよ、繋ぎ」
「本番一分前でーす」
スタッフの声が響く。トップバッターは俺たちだ。俺は目をつむって、ゆっくりと深呼吸をする。ドクドクとした拍動を感ずる。今、自分の中に血が巡っているんだなと思う。血が巡って、生きて、舞台の上に立てるのだ。それもノラと一緒に。
すごく、幸せなことだと思う。
「明治様」
俺ははっとして目を開く。
「まだ、人の顔が目に浮かぶのでしょうか?」
ノラが心配げに俺の顔を覗き込む。
「んー、浮かぶっちゃ浮かぶ。でもノラとか、さくらとか、団長とか、そういう人たちの顔だな。特にノラは、俺が噛んだ時の、あの怖い顔してんだ。緊張なんか引っ込んじまう」
「左様ですか。実際に噛んだ場合、その顔に角が生えますので、ご了承ください」
そして俺たちは顔を見合わせて、少し笑う。
「それではお呼びしましょう。変幻自在のダブルボケ!お笑い戦国時代の切り込み隊長、明治の乱の入場です!」
また妙な二つ名を付けやがって。出る前からハードルが上がりまくってるじゃないか。
「んじゃ、いくぜ、ノラ」
「ええ」
「明治の乱、いざ……」
「「出陣!」」
そして出囃子とともに俺たちは舞台へと歩み出る。白々したスポットライトが、俺たちを包み込む。客席からの視線を浴びる。俺はその右手に拳をつくって振り上げ、あらん限りの声で叫ぶ。
「はいどうもー!」
今日もどこかの誰かに、笑ってほしいとつとに思う。
冴えない感じのどこかの誰か、自分を無価値と思っている誰か、自分が無価値だと周囲から思われていると思っている誰か。
でもって、もし笑わせたのが俺なんだったら、そりゃ言うことなしに最高だ。
明治の乱 完
明治の乱 @ryumei
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