第4話
「感染者って、まだいるもんなんだな」
自室のベッドの上で、タオルケット一枚を被って横になっていたハジメは、ふとそう呟いた。
「感染者っていうか、感染症の発症者だね」
ベッドのすぐ隣りの床から、アカリの声がそう答える。客室を男に占領されて、アカリはやむなくハジメの部屋の床に布団を敷いていた。
既に夜半を過ぎているが、カーテンが閉じられていない窓越しに差し込む月明かりは思いのほか明るい。薄い枕に頭を乗せて、その上に軽く組んだ両手を置いたアカリの顔が、照明を落とした室内でもはっきりとわかる。
「感染症だか疫病だかって、もう十年以上前には落ち着いたんじゃなかったか。まだ罹っちゃうヒトもいるんだ」
「そりゃまあ、ウイルスが全滅したってわけじゃないから」
「ばーちゃんもよく言ってるもんな。特効薬のお陰でウイルスから体を守れるようにはなったけど、ウイルスそのものはまだあちこちにたくさん生き残ってるって」
「そうなんだよねえ……」
そこでアカリの言葉は中途半端に途絶えた。月明かりに照らし出された彼女の横顔をハジメがしばらく眺めている間、アカリは何やら唇を引き結んだまま小さく唸っている。
やがてアカリは顔だけをぐるりとハジメへと向けて、口を開いた。
「薬が出来てからは、ウイルスを恐れるヒトなんていないはずなんだ。だって私もあんたも、感染症なんて気にしたことないだろう?」
アカリと目と目を合わせながら、ハジメもその言葉に頷き返す。
「それか、一度罹って回復したヒトも大丈夫なんだっけ」
「その場合はさあ、後々大変なことが多いんだよ。ばーちゃんを見ればわかるけど」
ばーちゃんが車椅子生活を余儀なくされているのは、感染症の後遺症によるものだということは、ハジメも聞かされている。
「ばーちゃんが罹ったときに薬があればなあ」
少年の口から思わず漏れ出たのは、今さら言っても詮無いことであった。
「ずっと特効薬を研究していたばーちゃんが、ようやく薬が出来る目処がついたって頃に感染して、薬が完成したのは回復してからなんてさ。なんか理不尽だよな」
「そう思うのももっともだけど。それについてはこれ以上言いっこなしだよ」
そう言うとアカリは、むくりと上体を起こした。タオルケットがはだけて覗く、寝間着代わりに羽織ったTシャツは、襟元が伸びきっていささか胸元が無防備だ。
少々目の遣り場に困る――そんなハジメの思いなどお構いなしに、アカリは訝しげな口調で言った。
「あいつがなんで発症したか、わかる?」
その疑問はもっともであった。
ばーちゃんはともかくとしても、今はもう世の中に薬は十分行き渡っているはずだ。本土で再び感染者が増えているという話も聞こえてこない。
正確には薬を摂取していれば、感染することはあっても発症する者はいない。だから通常は感染してもほとんど無自覚無症状のまま、いずれ治癒してしまうはずなのだ。
アカリの問いは、ハジメの中で当然の結論を導き出す。
それはつまり、ばーちゃんが簡単な診察で感染者と判断したあの男は、薬の非摂取者であるということであった。
***
ばーちゃんの見立て通り、男は翌日の昼前には意識を取り戻した。
「助けてもらってありがとう」
ハジメから雑炊を受け取りながら、男は穏やかな笑みと共に礼を言う。だが語尾に小さな咳が被さって、最後の方は良く聞き取れなかった。
「予備の燃料も尽きて、途中からはオールで漕いできたんだけど、それも大時化に持っていかれてしまってね。もうダメだと思っていたよ」
「俺は見つけただけさ。ボートを島まで引っ張ったのはアカリだ」
ハジメに話を振られて、彼の背後で腕を組んで突っ立っていたアカリがふんと鼻息を荒くする。
「あんたが生きてるのは単なるラッキーだ。そもそもあんなボートでこの島まで海を渡ろうなんて、無茶にも程がある」
突き放したような目つきで無謀を責められて、男は申し訳なさそうに苦笑した。
「その通りだ。あんな経験、命がいくつあっても足りたもんじゃない。もう二度としないよ」
ぼさぼさの髪の下に覗く男の切れ長の目は、笑うと線に近くなる。人好きのするその笑顔を見て、アカリもそれ以上咎めるような言葉を口にしはしなかった。
代わりに告げたのは、彼の今後についてであった。
「あと二、三日も静養すれば体力も回復するだろう。それまでは面倒見てやるよ」
「助けてもらった上にそこまで世話してもらえるとは、恩に着る」
「ただしその後は、この島を出て行ってもらう」
事務的な口調でそう言い渡されて、男の口元に浮かんでいた微笑みがすっと消えた。
「この島を出ろ、か」
「あのボートで帰れとは言わないよ。本土までは私のクルーザーで送ってやる」
アカリの言葉に反論するでもなく、かといって頷くでもない。男は雑炊が盛られた椀を手にしたまま、空いた右手で乱れた髪を掻き始める。
何かを考え込むかのような面持ちの彼に向かって、ハジメが思わず言い足した。
「ばーちゃんがそう決めたんだ。ここではばーちゃんの言うことが絶対だから」
「ばーちゃん?」
ハジメが口にした言葉に、男の目がわずかに見開かれる。
「この島には、君たちふたり以外にまだヒトがいるのかい」
「ここに住んでるのは、俺とばーちゃんのふたりだよ。アカリはしょっちゅう遊びに来るだけ」
「なんだよ、仲間はずれにすることないだろう。私だってほとんどこの島の住人のつもりだってのに」
ハジメの説明に不服なアカリが、片肘で少年の後ろ頭を小突く。彼女のちょっかいをハジメが煩げに払い除ける。
だがベッドの上の男はふたりのじゃれ合いが目に入らないようだった。
男は細い目を精一杯に開き、心持ち身を乗り出しながら、これまでにない真剣な口調で尋ねた。
「もしかしてばーちゃんとは、ナガスエ博士のことじゃないか?」
男の質問を耳にして、ハジメとアカリはお互いに顔を見合わせる。一瞬の沈黙の後、口を開いたのはハジメであった。
「ばーちゃんのこと知ってるの?」
そう尋ね返すハジメに答えようとした男の喉から、再び咳が込み上げる。今度は先ほどよりもやや激しい。徐々に体を折り曲げながら、長々と続く咳に苦しげに顔を歪ませて、男はしばらく口がきけなかった。
男が手にした椀の中身が零れそうに思えて、ハジメが彼の手から取り上げる。代わりに前に出たアカリが男の背中をさする。咳き込み続ける男の様子を見守り続けながら、ハジメはどんな顔をしていいのかわからなかった。
「……そうか、良かった。無茶した甲斐があった」
ようやく咳が治まった男のこめかみには脂汗が浮かび、明らかに顔色も青ざめていたが、口調には苦しみよりも興奮が勝っていた。その様子を訝しげに眺めるふたりに向かって、男は喉から絞り出すような声で告げた。
「僕は、博士に会うためにやって来たんだ。博士に伝えてくれないか。昔、あなたの下で働いていたオサナイです、と」
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