第5話

 その日の午後、ハジメとアカリのふたりは破損した太陽光発電パネルの交換に取りかかっていた。


 山肌一面に敷き詰められたパネルの交換作業は、なかなか骨が折れる作業だ。近場までは電動カートでまとめて運ぶにしても、そこから先は人力で一枚ずつ持っていくしかない。パネル一枚はひとりでも持てないことはないのだが、勾配がある上に足場も悪い斜面なので、通常はふたりで一枚の前後を抱えながら運ぶ。


 その上に夏期に差し掛かった太陽からは、点在する雲などお構いなしといった容赦ない日差しが降り注ぐ。


 結局正午から夕刻まで時間を掛けても、パネルの破損箇所を全て交換し終えることは出来なかった。


「ああ、もういいや。残りは明日にしよう!」


 斜面を覆い尽くすパネルの合間をくぐり抜けて、舗装路の行き止まりに停車されたカートの側までたどり着くと、アカリはアスファルトの上に腰を下ろしてしまった。その横を通り過ぎたハジメは、カートの運転席から保冷の効いたステンレス水筒を取り出した。少年の肩には同型の水筒が紐で引っ掛けられているが、こちらの中身はとっくに空だ。


 蓋を押し開けるのももどかしく、飲み口に口をつける。まだ十分に冷え切った、ばーちゃん特性のさんぴん茶が喉に注ぎ込まれると、喉がごくりごくりと大きな音を立てるのが彼の耳にも良く聞こえた。


「ひとりでずるいぞ、ハジメ。私にもちょうだいよ」


 そう言いながらも立ち上がろうとしないアカリに、ハジメは仕方なしといった素振りで水筒を手渡した。


 アカリは受け取るや否や、早速水筒を呷る。


 夕暮れ近い茜色の空を背景に、目をつむって喉を鳴らすアカリの顎先から、汗がぽたりと滴って落ちる。路上に作られた小さな染みは、あっという間に蒸発して跡形もない。


「サンキュ、ごちそうさま」


 口の周りを拭いながら、アカリが水筒を返して寄越す。その中身は半分以上が飲み干されていた。


「飲み過ぎだよ」

「仕方ないだろう。体がこう、水分を欲しているんだって」


 もっともらしいアカリの言い訳を、ハジメは適当に聞き流す。水筒をカートの運転席に戻しながら、彼が口にしたのはもっと異なる感想であった。


「薬がなかった頃って、こういう風に回し飲みとか出来なかったんだよな」

「ああ」


 アカリはハジメの顔を見上げて、当然といった面持ちで答えた。


「当時は一緒にご飯を食べるのはもちろん、向かい合って喋るのも危ないって言われてたっていうね。昔を知っている大人なんかは、感染症が流行る前と後じゃ世界が百八十度ひっくり返ったって、よく言うよ」

「それも薬が出来るまでのことだろう」

「うん」

「アカリは、まだ薬がなかった頃のこと憶えてる?」


 ばーちゃんたちの研究チームが特効薬を開発したのは、ハジメが生まれるほんの少し前のことだという。だから彼は、感染症が世界中で猛威を奮った時代を、直に体験していない。


「私だってあんたとそんなに歳が離れてるわけじゃないんだよ」


 そう言いながらもアカリは前髪を両手で掻き上げつつ、眉根を寄せて小さく唸る。なんとか幼少の頃の記憶を思い返そうとしているらしい。


「……ちっちゃい頃で一番憶えているのは、注射が怖くて大泣きしたことだね。今から思い返せば、もしかしたらあれが特効薬だったのかもしれないけど」

「注射かあ」

「そうだよ、ヘンテコな形の針でさ。ほら、今でも跡がある」


 アカリは剥き出しの左肩を、右手の人差し指で示した。そこにはうっすらとしたいくつかの赤い点が、彼女の瑞々しい肌に二重丸のような痕跡を残している。


「この跡、なかなか消えないんだよなあ。これでも随分ましになったんだよ」

「それ、何度見てもボタンみたいで、思わず突きたくなる」


 ハジメが注射跡の中心に伸ばそうとした指先を、アカリは軽くはたき落とした。


「さあ、そろそろ帰るよ。いい加減に冷房で涼みたい」


 そう言って立ち上がったアカリは、早々にカートの運転席に潜り込む。慌てて助手席に乗り込んだハジメがドアを閉めると同時に、モーター音が静かに唸り始める。荷台を引いたままのカートは、来た道を戻ろうと狭い路地を器用にUターンしてみせる。


 やがてふたりが乗るカートは、真っ赤な夕陽が沈みゆく海原に向かうかのように、ゆっくりと走り出した。窓を全開にした助手席側のドアの縁には、ハジメの左腕が乗せられている。


 風に煽られてひらめくTシャツの裾から時折り覗くのは、注射跡どころか少しの傷跡も見当たらない、小麦色に日焼けした左肩であった。


 ***


 夕食を食べ終えたハジメは、さんぴん茶を啜りながらばーちゃんに尋ねた。


「ばーちゃん、オサナイとは会わないの」


 ばーちゃんのかつての部下だという、オサナイと名乗った男は、今またベッドで寝入っている。それは無謀な渡航がもたらした疲労のせいというよりも、おそらくは彼の体を蝕む感染症によるものであった。


「私はもう、とっくに引退した身だ。あいつとは何も話すことはないよ」


 車椅子の肘掛けからアームを引き出して、ホログラム・スクリーンを開きながらキーボードを叩くばーちゃんは、顔も上げずにそう答えた。にべもない回答はハジメにも予想の内ではあったが、そこまで頑なな理由まではわからない。


 窓を開け放ち、縁側に腰掛けて夜風に当たっていたアカリが、肩越しに振り返りながら少年の内心を代弁する。


「いくらなんでも冷たいんじゃないの。だってあいつ、ばーちゃんに会うために海を越えてきたって言ってたよ」

「それはあいつの都合だよ。私が付き合ってやる義理はない」

「そりゃまあ、そうなんだけどさあ」


 アカリだってオサナイの肩を持つわけではない。むしろさっさと島を出て行って欲しいと思っているはずだ。


 だがそんな彼女にも、ばーちゃんの言い草はいかにも突き放して聞こえたのだろう。アカリは少しばかり食い下がってみせた。


「元はばーちゃんの部下だったっていうじゃん。それが、病に冒された身を押してわざわざ会いに来たんだから、少しは情に絆されたりとか、ない?」

「ないね」


 ばっさりと言い切ってから、ばーちゃんはようやく面を上げた。


「そもそもあいつこそ、今さら私と話すようなことはないはずさ。なんたって最終的に薬を完成させて世に広めたのは、あいつなんだから」

「えっ、そうなんだ?」


 アカリが驚いた声を上げる。ハジメも目を丸くしてばーちゃんの顔を見返した。ふたりともその話は初耳であった。


 さんぴん茶を飲み干したグラスをダイニングテーブルの上に置いて、ハジメは当然の疑問を口にした。


「でも世間で薬の開発者っていったら、ばーちゃんのことだよね」

「感染症が蔓延する世の中でもネットワークは生きてたから、世界中からデータを取り寄せることは出来た。そういったたくさんの症例を医療AIで解析して、今ある薬の原型を考案したのは確かに私だよ。でもその後、私が感染症に罹ったってことは言っただろう。私がぶっ倒れている間に実際に薬を作り出したのが、オサナイだ」

「ってことはオサナイは発案者のばーちゃんに遠慮して、ばーちゃんの名前で薬を発表したってこと?」

「遠慮?」


 ハジメの言葉を繰り返し口にしたばーちゃんは、唇の端がやや引き攣れているように見えた。


「遠慮ねえ。それもあったかもしれないけど、本当のところはそんな謙虚な理由じゃないと思うよ」


 そう言ってばーちゃんは、アカリが座る縁側の向こうに顔を向けた。


 ハジメもアカリもつられて、星の瞬きに充ち満ちた夜空を目に入れる。だがふたりとも、ばーちゃんがどこを見つめているのかはわからなかった。


 ばーちゃんの目は視線の先にある満天の星空を通り越して、さらに遠くを見つめている――少なくともハジメの目にはそう映る。


 だが次にばーちゃんが口にしたのは、そんな表情にはおよそそぐわない、まるで吐き捨てるかのような言葉であった。


「あいつは薬がもたらす結果について、責任を負いきれなかった。その重圧から逃げ出すために、私の名前を使ったのさ」

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