第3話

 アカリと一緒にクルーザーに乗り込んだハジメは、舳先の手摺りをつかみながら目の前の海上に集中した。


 展望台から見下ろした方角を思い返せば、あのミニボートを発見したのはほぼ北東の方角だ。北東といえば――


「あの船、もしかして本土から来たのかな」


 ハジメの呟きは、クルーザーのエンジンと波飛沫の音に掻き消される。にも関わらず、アカリは彼の言葉に平然と答えてみせた。


「だとしたら無茶もいいとこだよ。このクルーザーだって往復でぎりぎりなのに。あんな小さな船じゃ、片道半分も行かない内に燃料が尽きる」

「燃料なら別に積み込んでおけば、なんとかなるのかもしれないけど」


 響き渡る轟音をものともせず、舳先に居るハジメと操縦席に腰掛けるアカリは大声を張り上げるでもなく、普段通りの声量で会話する。


 それは彼らにとって不思議でもなんでもない、ごく当たり前のやり取りであった。


「それ以前に、昨日の大時化を喰らってまだ浮いてるのが不思議なぐらいだよ」


 ハンドルを両手で構えながら、アカリの口調はいささか呆れ気味だ。頻繁にこの海を行き交ってきた彼女にしてみれば、屋根もついてないようなちっぽけなボートが外海を渡ろうとすること自体、信じがたいことなのだろう。


 だがハジメは彼女に答えるよりも先に、思わず大きな声で叫んでいた。


「いた!」


 少年の言葉に合わせるかのように、アカリが船の舵を切る。その先には確かに先ほど見かけたと覚しき、一艘の小さなボートが漂っていた。


 クルーザーは少しずつ速度を落としながら、ボートへと近づいていく。やはり開放型の、湾内で釣りでもするときに使用するような小型ボートだ。備え付けのエンジンも、当たり前だが長距離の航続を想定していないだろう。


 だがふたりが驚いたのは、ボートの粗末さばかりではなかった。


「何か、いる」


 二艘の距離が徐々に狭まっていくにつれて、ハジメの目にはボートの中の様子も明らかになってきた。


 波間にたゆたう揺り籠のようなボートの中に、何物かが横たわっている。はハジメが見守るしばらくの間も微動だにしなかったが、やがてクルーザーの接近によって生じた日陰が差し掛かったその瞬間、一瞬だがもそりと動いたように見えた。


「……ヒトだ」


 そう口にしたのはハジメではなく、いつの間にか彼の後ろに立つアカリであった。彼女はクルーザーのエンジンを止めて、船をたぐり寄せるための長い棒を手にしている。


「ヒト?」


 ハジメが彼女の言葉を繰り返したのは、問うためではなかった。ただ驚きの言葉が、口を突いて出てしまったに過ぎない。

 それはばーちゃんとアカリ以外に初めて目にする、ハジメにとって三人目のヒトであった。


 ***


 クルーザーと横着けになったボートに早速乗り込もうとしたハジメを制して、ロープを手にしながら飛び移ったのはアカリだった。着地した途端ぐらぐらと揺れるボートの中でも動じることなくバランスを取りながら、アカリは横たわる人影に視線を落とす。


 人影は大きな体を窮屈に縮まらせて、船底に張りつくように横になっている。アカリが少し腰を屈めてその横顔を覗き込めば、痩せこけた頬や顎に無精髭がまばらに生えている様が見て取れた。一見したところ、ハジメやあかりたちに比べれば一回り以上年嵩の――


「男だ」


 面を上げたアカリは、そう言って難しい表情を浮かべた。


「どうしようかねえ」

「島までボートを引っ張っていくしかないだろう。そのためのロープなんだろう?」


 右手の中にあるロープの束をハジメに指差されて、アカリは小さく肩をすくめた。


「さすがにここまで確かめておいて、見捨てるわけにはいかないか」


 それからの彼女の行動は素早かった。鮮やかな手際でボートにロープを繋ぎ止めたかと思えば、軽やかな足取りでクルーザーに舞い戻る。そしてハジメに船尾の監視を頼みながら、アカリはすぐにクルーザーのエンジンを掛け直した。


 往路とは対照的に安全重視でゆっくりと進むクルーザーが島に戻った頃には、太陽は随分と傾いて揺らめく海面にその姿を滲ませていた。


 ぐったりとしたままカートの荷台に乗せられて、高台にあるハジメたちの家に運び込まれた男の姿を見て、ばーちゃんの顔は渋かった。


 ばーちゃんはしばらく無言のまま男の顔を見下ろしていたが、やがて諦めたように息を吐き出してから、ふたりに指示を出す。


「助けちまったもんは仕方ない。とりあえず奥の客室に寝かせてやりな」


 ばーちゃんの指示に従って、ハジメとアカリが男を客室に運ぶ。男は結構な大柄で、その分体重も重い。男の両足を持つハジメと両脇を抱え上げるアカリは難儀しながら、ほとんど放り投げるようにしてベッドに横たわらせた。


 弾みで男が言葉にならない呻き声を漏らす。


 するとふたりを押し退けるように前に出たばーちゃんが、男のよれよれの上着を外して前をはだけたり、ズボンの裾を捲ったりして様子を見る。


「臨床は久しぶりだから、あんまり自信ないんだけどね」


 ばーちゃんはそんなことを呟きながら男の体を触診したり、どこから取り出したのか聴診器を当てたりする。男はひゅうひゅうという息遣いを繰り返しながら、一向に目覚める気配はない。その様子をハジメとアカリはただ黙って見守っていた。


 やがて聴診器を外したばーちゃんが顔を上げて、小さくため息を吐き出す。


「多少の火傷と脱水症状はあるみたいだけど、見た目ほどたいしたことはないよ。赤くなっているところに軟膏を塗って、後はスポーツドリンクでも飲ませてやりな。疲れているだけだから、一晩ぐっすり寝れば明日にも目を覚ますだろう」

「そいつはいいけどさ。軟膏塗るのってそれ、私たちがやるの?」

「当たり前だろう。ほかに誰がいるんだい」


 天井を仰ぐアカリは、男を助けたことを早くも後悔しているようだ。一方でハジメはばーちゃんの指示に頷くでもなく、その横顔をなおも見つめ続けている。


「ばーちゃん、それだけ?」


 少年が口にした問いに、ばーちゃんがゆっくりと振り返る。


「どういう意味だい、ハジメ」

「だってばーちゃんの顔が、なんだか深刻そうに見える」


 ハジメがそう言うと、ばーちゃんは一瞬唇の端をぴくりと動かした。


 孫の顔を見返すばーちゃんの目には、ハジメにはあまり見慣れない逡巡がうっすらと浮かんでいる。やがてばーちゃんは、今度は大きなため息を吐き出しながら肩を落とした。


「少し動揺しちゃったかね。あんたに見抜かれちまうとは」


 そう言ってばーちゃんは再び正面に顔を向ける。時折り軽く咳き込みながら、心許なげな呼吸を繰り返している男を、ばーちゃんは醒めた目つきで見下ろした。


「肺に不自然な音がある。おそらくだけど、こいつは感染症を発症している」

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