第10話 切立花の採取

 切立花きりたちばなの採取において、沙羅さらは何も初めから竜帝に頼っていたわけではない。まだ一介の専属薬師だった頃は、先代に連れられて自分の足で採っていた。


 竜帝に連れて行ってもらうようになったのは、筆頭専属薬師になってから。地方の視察に同行し、先に飛んで帰ると言った竜帝に乗せてもらった時、ついでにと頼んだのがきっかけだった。


 翼のないただの人間が命綱一本で崖を登り降りする危険性を知った竜帝は、それ以来沙羅につきあってくれるようになったのだ。


 最近はずっと竜帝に甘えていたが、それなりに危険な所に材料を採りに行くことは他にもあり、沙羅の体がなまっているようなことはなかった。


 だから沙羅は、すぐに採取して帰れるだろうと楽観視していた。





 崖の上まで馬でたどり着いた沙羅たちは、ロープの一端を手頃な木の幹に、もう一端を自分の体に縛り付け、それぞれゆっくりと崖を降りていった。


 足で崖を蹴りながら、分厚い革の手袋をつけた手で縄を少しずつ繰り出して行くのである。あまり一気に降りるとスピードがつきすぎて危険だし、慎重になりすぎると時間がかかる。


 しかしそこは慣れている専属薬師たち。みなリズム良く降りていた。沙羅も同様だ。


 初めて来た弟の呂宇ろうだけは、両の手足を使って恐る恐る降りていた。万が一滑って落ちたときの事を考え、ロープは短めにしてある。


 その様子を見て、懐かしいな、と沙羅は微笑んだ。かつては沙羅もあんな風にしておっかなびっくり降りていたのだ。


 今日は沙羅の代わりに留守番をさせていたが、今度は鳴伊めいも連れて来ようと思った。そのうち目利きも教えなくてはならない。


 切立花がえているあたりまで降りると、沙羅は崖に手足で取り付き、横移動しながら、他の専属薬師が見つけた花を確認していく。


「これはどうだ?」

「んー、ちょっと遅いと思う。花が開きすぎ。もう少し閉じてるのを探して」

「おーい、こっちはどうだ?」

「ああ、これいい。持って帰ろう」

「よしっ」


 誰がいい花を見つけるか、という競争が自然と始まる。年季の入った薬師の方が見る目があるが、若者は探すスピードが速い。沙羅は高度を下げながら呼ばれるままに動いた。


 笑いながら、しかし慎重に、沙羅たちは切立花を採っていった。


「これくらいあれば十分。もう上がろう。暗くなっちゃうし」


 日は傾いたばかりだったが、崖は降りるよりも登る方が遙かに大変だ。急がないと夕餉ゆうげの薬が間に合わなくなる。沙羅の帰りが遅くなったところで鳴伊が代わりに調合つくるだけなのだが、竜帝に会える時間を何度も逃したくはなかった。


「姉ちゃん、まだあるぞ」

「ばーか、たくさん採っても質が下がるだけなんだよ。教えただろ。何のために沙羅が来てると思ってんだ」

「うるっさいなあ、わかってるよ」


 短いロープを目一杯伸ばした呂宇が、上の方で従兄いとこに笑われていた。


香瀬かせにい、あんまり呂宇をいじめないで。初めて来たんだから」

「姉ちゃん、そこかばわれると逆に格好悪いんだけど……」

「え、そうなの?」


 わかってないなぁ、と今度は沙羅がみんなに笑われた。


 両手両足で崖に取り付きながら、沙羅たちはえっちらおっちらと崖の上へと登っていった。


「ほら呂宇、もう少しだよ、頑張れ」

「これきっつ。姉ちゃんなんでそんなに速く動けるんだよ。ヤモリみてぇ」

「ひどっ。花の乙女を捕まえてヤモリとは何よ、ヤモリとは!」


 四苦八苦している呂宇の背中を叩いた沙羅は、およそ二十一の女性には似つかわしくない生き物に例えられ、口をとがらせた。


「花の乙女! それ自分で言――わっ」


 沙羅の反論を馬鹿にしかけた呂宇は、足を滑らせてずるっと落ちた。なんとか岩にしがみつき、落下をまぬがれる。


「ちょっと大丈夫?」

「っぶねぇ。びびったあ」

「無駄口叩いてるからだよ。気をつけて」


 沙羅のみならず、その場にいた薬師全員が胸をなでおろした。命綱があるとはいえ、落ちたときに崖に頭でもぶつけたら大変なことになる。


「ほらそこつかんで。そっちの手はここ」


 斜め下に下がった沙羅が、丁寧に手足をかける場所を教えてやる。


「あっダメそこ足かけちゃ――」

「え?」


 沙羅の制止の声は間に合わず、呂宇はにぐっと体重をかけていた。


 途端。


「うわぁっ」


 踏んづけたこけが岩肌からはがれ、呂宇が再びずるりと滑った。今度は手まで離れてしまう。


 しかし、沙羅同様に呂宇を心配してそばに来ていた香瀬が、とっさに呂宇の服をつかんで支え、なんとか呂宇の落下は避けられた。


「セーフ」


 だが――


「ぃたっ!」


 バランスを崩した呂宇が手足をばたつかせた結果、その足が沙羅の顔にヒットしていた。ゴッと嫌な音がした。


 視界の中で火花が散る。その衝撃で沙羅が手を離すことはなかったが、痛みで動けなくなった。


「ご、ごめん、姉ちゃん! ごめん、大丈夫っ!?」

「いや、大丈夫じゃない。痛い」


 落ち着きを取り戻した呂宇は崖に取り付き直し、沙羅に謝罪した。沙羅は淡々と返答をしたものの、痛くて痛くてたまらない。


「おい、大丈夫か!? 目は?」


 香瀬がするすると降りてきて沙羅の顔をのぞき込んだ。


「目は無事。とにかく痛い」


 呂宇の爪先が当たったのは左ほほだった。目だったら失明待ったなしの蹴りだった。


「よかった。ああ、これはれるな。冷やした方がいい。上がれるか?」

「無理。しがみついてるので精一杯」

「よし、負ぶってやる」


 香瀬は崖にぺたりと体を寄せた。


「俺の背中にしがみつけ」

「ええ!? 無理だよそんな。二人分の体重じゃさすがに香瀬でも登れないよ」

「ばーか。俺だけの力で登るわけないだろ。上からも引っ張ってもらうから」

「な、なるほど」

「おーい、大丈夫かぁ?」


 動かない三人を心配して、上から声が降ってきた。


「なんとか無事! 沙羅が動けないから俺が背負う! 二人分のロープ引っ張ってくれ!」

「わかった!」


 ぴんっ、とロープが張り、足にかかる体重が減る。


 沙羅はゆっくりと横移動を始めた。動くたびに蹴られたところに痛みが走る。顔をしかめると余計に痛いので、努めて無表情を作った。


 やっとの思いで香瀬の背中に回った。いきなりしがみつくと危ないので、手足はまだ崖につけたままで、香瀬を挟んで壁に取り付いている体勢になった。香瀬の背中の温かさが服を通してお腹に伝わってきた。


「呂宇はしばらく待ってろ」

「うん。姉ちゃん、ほんとごめん」

「いいから。それよりここで泣いたら危ないから我慢しなさい。今度は落ちないでよ」

「うん……」


 泣きそうな顔になっていた呂宇に言って、沙羅はそろそろと香瀬の首に腕を回した。首を絞めないように気をつける。


「平気?」

「平気平気。――上がるぞー!」

「おーし、来い!」


 ロープがじりじりと引かれるのに合わせて、香瀬が崖を登って行く。


 揺れるたびに頬が痛んだが、こればかりはどうしようもない。沙羅は必死で香瀬にしがみついた。




 崖の上に到着したときには、沙羅の顔の左側はぱんぱんに腫れていた。下まぶたが押し上げられ、半分しか目が開けられない。


 沙羅は地に寝かされた。


「こりゃひどいな」


 香瀬かせが顔をしかめた。周りの薬師たちも痛そうな顔をしている。


んなに?」


 顔の皮膚が引っ張られていて、うまく話せない。そして痛い。


「沙羅、我慢しろよ」


 香瀬が深刻な顔でそう言ったかと思うと、突然沙羅に馬乗りになった。沙羅の手足を男たちが押さえつける。口に布がかまされた。


 驚いて悲鳴を上げそうになった沙羅だったが、次の瞬間に襲ってきた激痛によって声にならない叫び声を上げた。


「――――!!」


 香瀬が沙羅の腫れている頬に触れたのである。それどころか、ぐいぐいと親指で強く押してくる。沙羅の体が跳ねるが、複数人にがっちりと押さえつけられていて動かない。


 ようやく香瀬が手を離した時には、沙羅の目からとめどなく涙がこぼれていた。


「折れてはなさそうだな」


 香瀬は沙羅の上から降りた。


 ひどい、と沙羅が涙をこぼしながら香瀬をにらんだ。触診するなら前もって言って欲しかった。


「びっくりして最初の一瞬は痛くなかっただろ」


 しれっと香瀬が言う。沙羅は文句を言いたかったが、口を動かすと痛いので不本意ながらも何も言えなかった。うなり声だけが口から出た。


 香瀬は塗り薬を塗った布を沙羅の傷の上に貼った。白家が調合つくった薬である。効果はお墨付きだ。


「姉ちゃん!」


 そこへ沙羅たちと同じように引っ張り上げられた呂宇が駆けてきた。沙羅の顔を見てわなわなと口を震わせる。


「骨は折れてない。まだまだ腫れるだろうが、何日かたてば治る。よかったな、姉ちゃんの顔に傷残すことにならなくて」


 香瀬が呂宇の頭に手を乗せると、呂宇はわっと泣いて沙羅のお腹にすがりついた。沙羅はその頭をでてやった。




 結局、沙羅はその日のうちに帰ることはできなかった。痛み止めも飲んだが、それでも揺れる馬の上には乗ることができなかったのだ。


 薬師の大半は王都に帰還し、香瀬ら数人が沙羅のために残り、その場で野宿をすることになった。呂宇は残りたがったが、残ったところで役に立つことはない。沙羅に心配ないから帰れと言われ、泣きながら帰って行った。


 野宿といっても、日帰りの予定だったため装備は何もない。それを取りに行く面々も帰還組と一緒に帝都へ向かった。


わたひためひゃめに、ごめんひょめん

「何言ってんだ。気にすんな」


 沙羅に対しては勿論もちろんのこと、蹴った呂宇に対しても、誰も責めるようなことは言わなかった。あれは事故だ。誰が起こしてもおかしくなかった。




 日が落ち、帰還組はそろそろ帝都についただろうか、という頃になって、き火でだんをとっていた沙羅たちは、ばさりという羽音を聞いた。


 まさかと思って振り仰げば、上空に鱗を炎にきらめかせる黒竜がいた。


 黒竜はふわりと風もなく降り立つと、指に引っかけていた荷物をとさりとその場に置き、人型をとった。


 それを見ていたのは沙羅だけだ。他の薬師たちは黒竜を見た瞬間に平伏していた。


「沙羅っ!」


 竜帝が寝かされたままの沙羅に走り寄った。


「怪我をしたと聞いた。大丈夫なのか?」

はいあい


 沙羅は短い返事をした。痛みに眉が寄る。竜帝も同じ様に痛そうな顔をしていた。


「ああ、話さなくていい。誰か沙羅の容態の説明を」

「俺が」


 顔を上げたのは香瀬だ。


「目は無事ですし、骨も折れておりません。頭も大丈夫でしょう。頬が腫れているだけでございます。痛みで馬に乗れないため、今日はこのままここで寝かせておきます」

「そうか。必要な物を持ってきた。痛み止めも入っているはずだ。飲ませてやってくれ」

おん自ら、恐れ入ります」


 香瀬が叩頭こうとうした。


「いい。筆頭薬師がいないとわたしも困るからな」


 その言葉に、沙羅の胸がずきりと痛んだ。


 竜帝がわざわざ来てくれたことに感激していたのに、それは「沙羅」のためではなく、「筆頭専属薬師」のためだったのだ。


「わたしは戻る。みな、沙羅を頼んだぞ」


 言うが早いか、竜帝は黒竜に転じ、帝都の方へと飛び去っていった。


 あっという間の出来事だった。


 夜に発する竜気に男たちがあてられないよう気を使ったのもあるだろうが、延珠えんじゅの所に今すぐにでも戻りたいという気持ちもあったのだろう、と沙羅は思った。


 平伏していた男たちは黒竜の翼の音が聞こえなくなると頭を上げ、黒竜が運んできた荷物を開いた。


 人ひとりではとても持てそうにないその大きな包みには、野宿に必要な物が一揃ひとそろいと、沙羅に必要な薬がいくつか入っていた。帝都に戻った連中が包んだのだろう。


 まさか黒竜が来るとは思っていなかった彼らだったが、好意はありがたく頂くことにした。


 沙羅にはさっそく鎮痛剤が与えられた。それでも痛みは抑えきれず、眠れぬ夜を過ごすのだった。

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