第9話 花嫁の我儘

 花嫁を迎えてもうすぐ一年という頃、二人はまだ子を成すことができていなかった。


 すると、花嫁選定の儀を開くべきではないか、という話が持ち上がった。


 すでに花嫁はいるのだから、本来ならやる必要はない。花嫁選定の儀は竜帝の魂の片割れを探すためのもよおしなのだ。


 だが、竜帝があれだけ足繁あししげく花嫁の元に通い、一年もつのに子ができないのはどういうことか、という声が、宮廷内で大きくなっていた。その筆頭が白家だったのもあり、今年も花嫁選定の儀をすべきなのではないか、という意見が強かった。


 当然竜帝は一蹴した。


 魂の片割れは見つかったのだ。これ以上何を探すというのか。これは片割れに対する侮辱だ。


 そう、激怒した。


 しかし白家も引き下がらなかった。花嫁を見つけることが白家の悲願。今までも竜帝が間違えることも考えて後宮を整え、子ができるようにと薬を作ってきたのだ。


 白家は「後宮を維持するため」という大義名分を掲げた。妊娠中は花嫁の所に通うわけにはいかない。生まれたあとも毎晩通うわけにはいかないだろう。ならば後宮は必要だ、という理屈である。


 後宮の女官や衛兵の登用にしたって、集めた十六歳の女性の中から希望する者をつのる。妃嬪ひひんと同様に、年をとっては後宮にいられないのだから。


 世継ぎを設けるのが後宮の一番の役割だが、皇帝を慰め、世話をするのもまたその役割だった。


 竜帝よりもさらに延珠えんじゅが難色を示したが、白家の長老たちに命をして直訴じきそされ、竜帝は折れた。二百年もの間、竜帝の為だけに仕えてきた白家の頼みを断ることはできなかったのだ。


 そして、例年よりも遅れて開かれた花嫁選定の儀において、竜帝が別の花嫁を見つけることはなかった。


 沙羅さらは二十一になっていた。





「竜帝さま」


 ある日の朝、後宮の私室で花嫁と朝餉あさげをとった竜帝に薬を渡しながら、沙羅がおずおずと申し出た。


「あの、切立花きりたちばなを取りに行きたいのですが」


 竜帝はぐっと茶碗をあおった。


「わかった。朝議の前に済ませてしまおう」


 ちらりと延珠を見たあとに、椀を返しながら竜帝が首肯しゅこうする。


「竜帝様」


 立ち上がろうとする竜帝を、延珠がそでをつかんで止めた。


「どうした?」

「沙羅をお背中にお乗せになるのですか」

「そうだ」

「やめて下さいませ」

「なぜだ」


 延珠は目を潤ませた。


「わたくし以外の女性ひとが竜帝様に触れるのが嫌なのです」

「だが、わたしが行かねば花を採ることができない。わたしの薬に必要なのだ」


 竜帝が延珠を抱き寄せて黒髪を優しく撫でる。


 沙羅は、とうとう来たか、と思った。


 延珠が沙羅を良く思っていないのは明らかだった。


 果氷かひょう国の侵攻で傷ついた竜帝にしがみつく延珠を、治療が優先だ、と何度も引きはがした。その度ににらみつけられていた沙羅だったが、最近は薬を献上しに行くたびに嫌な顔をされる。


 これで子ができていればまた違ったのかもしれないが、一向に授からないことに、延珠はイラついているようだった。


 なぜ身の回りの世話をする女官たちではなく、沙羅に嫉妬が向けられるのかはわからない。


 恐らく、通常後宮にいられる期間を過ぎても残っていることが不満なのだろう。二十を数えることが滅多にない後宮で、沙羅は余計に一年も多く過ごしているのだ。そしてまだ数年はいる予定だ。


 だから沙羅はこれまで以上に気を使っていた。


 とはいえ、延珠が来てからというもの、傷の手当てをした時のことを除けば、竜帝とは薬を持って行くくらいの接点しかない。沙羅はいつも女官と同じくらい丁寧に接していた。これ以上態度を改めようがなく、気持ちの上での気遣いにしかならなかった。


 ただ一つだけ、竜帝と沙羅が長く二人きりになる時があった。切立花の採取だ。


 果氷国からの攻撃がなくとも、定期的に採りにいかなくてはならない。乾燥させて長持ちするようにはしているが、それでも限界がある。その時ばかりは、以前と同じように気安く接していた。


 黒竜の上での二人の様子を延珠が知るすべはない。それでも感じる物はあるのだろう。それはきっと女の勘というやつだけではない。魂の片割れだからこそわかることもきっとあるのだ。


 それを察していた沙羅は、切立花を採りに行きたいと言い出すのも、ずっと機をうかがっていた。延珠のいない隙を狙っていたのだ。だが、都合のいいタイミングが見つからないまま、とうとう期限が来てしまった。今日採りにいかなければ、万が一の時に薬効の落ちた薬を使うことになる。


「存じております。ですが、竜帝様がお乗せになるのはその娘だけとのこと。それまでは薬師が足で採りに行っていたと聞きました。では、竜帝様が行かれなくてもよろしいではありませんか」

「わたしが飛んだ方が早い」


 竜帝は困った顔で延珠と沙羅を見た。


「これはわたくしの我儘わがままでございます。ですが、どうかお聞き届け下さらないでしょうか」


 ついに延珠ははらはらと涙をこぼし始めた。


 他の女性に触れて欲しくないという気持ちはわかる。沙羅だってずっと延珠に嫉妬しているのだから。


 しかしここは後宮だ。子作り中の今でこそ竜帝は延珠にべったりだが、子が出来れば他の妃嬪ひひんの元にも通うようになる。ならば、沙羅が黒竜の背に乗せてもらう程度のことをどうこう言っても仕方がない。


 ただ――黒竜に乗ることを許されているのは沙羅だけだ。それも気に入らないのだろう。言えば他の者でも乗せてもらえると思うのだが、おそれ多くて誰も言い出せない。


 もちろん竜帝は延珠も背に乗せたことがある。しかし延珠はよほど上空が怖かったらしく、ひどくおびえてしまい、それ以来、二度と竜帝の誘いに乗ることはなかった。


 そもそも延珠は黒竜の姿からして苦手なようだった。黒竜が傷を負っていたときも、延珠の取り乱しようからすれば真っ先に中庭に駆け下りてきてもおかしくなかったのだが、人型になるまでは近づけないといった様子だった。


 それでも背に乗った所まではまだよかったのだが、黒竜がふわりと宙に浮かんだ途端に悲鳴を上げ、少し高度を上げただけで降ろしてくれと泣き叫んだのだ。


 絶対に落ちたりしないのに、と沙羅は思う。


 ふわりと抱きしめられているようなあの感覚。竜帝は沙羅を乗せるときに毎回必ず、落ちるなよ、と言うが、たとえ黒竜が宙返りをしたとしても、絶対に落とされることはないのだと沙羅は確信していた。怯える必要など全くない。


 硬く冷たいはずなのになぜか温かく感じる鱗。羽ばたくたびにばさりと音のする翼。下から振動を伴って聞こえてくる普段よりもぐっと低い声。


 その全てからあんなにも優しさを感じるのに、何が怖いと言うのか。


 沙羅はもしもの時のためにその場に待機していたのだが、二度と乗らないと宣言された竜帝は少し寂しそうだった。


 延珠はそれからますます竜の姿が苦手になったようで、沙羅が乗せてもらう時も見送りにすら来なくなった。


 本来の姿である黒竜が苦手だなんて魂の片割れとしてどうなのだ、と思わなくはないが、無理なものは無理なのだろう。沙羅なら竜帝がずっと黒竜でいたとしても構わないのに。


「片割れがそこまで言うのなら」


 竜帝は延珠の髪を手櫛てぐしいた。沙羅の所にまで延珠の甘い香りがただよって来た。


「沙羅、悪いがわたしは行けない」

「わかりました」


 眉を下げて申し訳なさそうに言った竜帝に、沙羅は淡々と返した。竜帝は延珠に――特にその涙に弱いのだ。延珠が言い出した時点で結果は決まっていた。


 沙羅は立礼をして静かに退出した。


 からの椀の載ったお盆を持って薬室に向かいながら、これまで黒竜の上で話してきたことを思い出す。


 最近あった嬉しかったこと、新しく見つけた物、できるようになったこと。たわいのない話で笑い、花などどれでもいいと文句を言う黒竜に、役に立ったでしょうと言い返し、また笑う。


 そんな時間さえも、沙羅には許されなくなってしまった。


 だが、落ち込んでいる場合ではない。竜帝が連れて行ってくれないのであれば、自分で採りにいくしかないのだ。急いで出発しなければならない。


 切立花が咲いている崖はそれほど遠くない。馬で駆ければ往復に半日もかからない。時間がかかるのは、体をロープ一本で支えて崖を降り、花を摘んでからまた登らなければならないところだ。


 沙羅は盆を薬室に置くと鳴伊に崖行きを告げた。昼餉ひるげ夕餉ゆうげの薬の調合を代わりにするように言う。夕餉には間に合うだろうが、念のためだ。


 沙羅でなくても花は摘んで来られる。しかし沙羅には常に最高の薬を常備しておく責務がある。それが筆頭専属薬師というものだ。ならば目利めききができる沙羅が採りに行くのが一番だった。


 沙羅は四六時中後宮に詰めているわけではなく、時折こうして薬草を採りに宮廷を出ることがあった。この前の花嫁選定の儀のようなことがあれば、不測の事態に備えて側に控えはするが、そのようなイベントが毎日あるわけでもない。


 他にやるべきことの指示も終えると、沙羅はすぐに後宮を出て専属薬師が詰めている部屋へと行き、崖行きの有志をつのった。

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