Chap.11-3
少し先の信号が赤に変わり、前の車に続く品川ナンバーのタクシーが歩道橋の真下に停車する。大学時代を過ごした町を思った。あの頃も大学への行きすがら、毎日のように歩道橋を使っていたっけ。周囲に主要な県道が少なく、大学の正門前だというのに十トントラックが狭い車道をびゅんびゅん行き交っていて、見かねた大学が学生のために私財を投入して設置した歩道橋だった。
はじめて男が好きだと気がついたのは大学一年の夏。相手はアパートのお隣さんで、学部は違ったけれど同じ大学に通う同級生だった。慣れない一人暮らしの寂しさから、よく互いの部屋を行き来していたのだが、ある時、缶ビールを片手にトランクス一丁で片膝を立てて笑う彼の姿に、ああ僕は男が好きで、こいつのことがたまらなく愛おしいのだと気がついた。
東京に出て来てから、僕は意識的に歩道橋を使うことを避けていた。大学時代の思い出とセットで、初恋の親友を思い出してしまうからだ。親友と呼べる間柄になるまでは良かった。地味な大学生活は淡い恋心によって彩られて、男が好きだという僕の人生上の重要課題は棚に上げられたまま、毎日が夏のビーチのように輝いてた。
『あ~わたしの恋は、南の風に乗って走るワー』と古いアイドルの懐メロを全身全霊で体現していた。恋を成就させようなんて大それた気持ちもなく、ただ奴の一番の親友として側に居られればそれで満足だった。
だが、それまで恋もしたことのなかった不器用な僕は、自分の気持ちを密やかに隠し通すことが出来ていなかったようで、ある時、四六時中一緒に居ようとする僕に「オレたちの関係てちょっと変だよな?」と真顔で言われた。
「そ、そうかな? みんなこんなもんじゃない?」と引きつった顔で言う僕は、忘れたふりをしていた夏休みの宿題を突きつけられた気分だった。
アパートの隣同士というのもいけなかったのだろう。奴が今、何をしているのかが常に気になって、部屋の明かりが灯れば帰って来たのだと安心し、帰りが遅いと不安になって壁の向こうに気配がするまで寝付けなかった。一歩間違えればストーカー同然だったと思う。
自分から遠ざけたのだった。このままではいけないと思い、一切の関係を遮断した。毎日顔を会わせる相手を諦めるには、そうするしかなかった。結果、奴を酷く傷つけたと思う。女々しい僕はすぐに後悔をして長い謝罪のメールを送ったが、そのメールが既読になることはなかった。ときどきアパートの薄い壁の向こうから、奴が付き合いだした女の子の声が聞こえて、耳を両手で塞いだ。
町に雪がしんしんと降り積もるように、街角や交差点には思い出が降り積もっていく。一緒に歩いた道のり、手を振り合った交差点。歩道橋に立って似た景色を見ると、大学時代の親友のことを思い出す。後悔と
あの時ああしていれば、こうしていれば……。そんなことばかり考えている僕は、いつまで経ってもちっとも成長していない。親友を好きにならず、胸を張って思いを伝えることのできる相手なら、どんなに楽だろうと思っていた。結局、ゲイデビューをした今でも同じ事を繰り返している。タカさんとのことも、思い出としてこの町に降り積もっていくのだろうか。そうだとしたら、僕は新宿の街ですら二度と見たくはないと思うだろう。胸に溜まっていた深い息が白く風に流されていった。
ポンと肩をたたかれ、自然と振り向いていた。タカさんの幻影を見る。霧が晴れるように幻が消え去ると、そこに立っていたのは僕をハッテン場に誘ったニコニコマークの男だった。獣のような眼光はなりを潜め、妙にさっぱりとした顔つきで、肩をすくめるような仕草をした。
「こんなとこいたのか、だいぶ探したよ」
と当たり前のように僕の横に並んだ。
今更何だというのか。警戒心がわき上がった。
「今晩は全くツイてない。ヤル気まんまんだったのに、君にはフラれてしまうし。ハッテン場にもロクな奴がいなくてさー、すぐ出て来た」
悪びれもなくそんなことを言う。
「申し訳ないですけど、僕もう、そういう気分じゃないので」
「いい、いい。オレもたまには夜の町でも眺めようかと思っただけ。隣で見ててもいいだろ?」
真意がつかめなくて、僕は黙ったままでいた。
男は良いとも悪いとも言わない僕と微妙な距離を保ちながら、本当にただ行き交う車の流れをしばらく眺めていた。
「君の話を聞いてたら昔のことを思い出しちゃったよ。それがガキみたいな青臭い思い出ばっかでさ、やんなっちゃったんだ」
ふいに男が口を開いた。自然とその横顔に目が向く。
「オレがデビューをしたのは十七のときだったなあ。その頃はアプリのような便利なものもなかったから。おそるおそる書き込んだ出会い系掲示板で知り合ったずいぶん年上の男だったよ。オレもまだ若くて、やりたいと恋愛感情の違いもよくわからないまま、その男の事が好きだと思い込んでいたね。今考えるとただ遊ばれていたのだろう。仕事が忙しいのを理由に月一回くらい食事をしてホテルでセックスをして、その日のうちにいそいそと男は帰って行く。付き合うってこんなもんなのかなあと思っていた」
「ずいぶん、酷い人ですね」
思わず口にしてしまう。
「はは、どうだろうな。後で自分も他の人に同じようなことをしたことがあったし、その頃はこっちだってその男の身体が目当てだったのだからお互い様だろうね。初めてちゃんと付き合ったのは二十四のときだった。三年続いたんだ。最後の方はほぼ会っていなかったから執行猶予のようなもんだったけどね。まあ、好きだったよ。そいつのことは」
男は肩を落とすようにして、欄干に乗せた自分の手の甲に顎を寄せた。
「いくら好きでも離れようとする相手の気持ちは変えられなかった。もしくは、離れようと相手に思わせてしまった時点でこちらに非があるのかね。考えても答えは見つからなかったよ……まあ、そんなワケだからさっきはゴメン」
「え?」
「ファミレスでさ。わざと君を困らせるようなことを言ってみたくなったんだ」
「それ、ド
「うーん、責めるのも責められるのもオレは好きだよ?」
とその男は笑った。
深夜の国道を行き交う車のヘッドライト。どこかで救急車のサイレンが鳴り響いていた。この町に居て、パトカーや救急車のサイレンを聞かない日はないのではないだろうか。タカさんの店が火事になったときの消防車のサイレンを思うと心がざわついた。
「このすぐそばなんです。ルームシェアしてるマンション」
「帰ればいいじゃないか。すぐそこなら」
「それが出来たらこんなところに突っ立ってないですよ」
「確かに」
「また意地悪言いましたね」
「バレたか」
男はおどけた表情をした。
「まあ帰りたくなったら帰ればいいさ。無理をしてもしょうがない。人ってさ、ある程度生きてると自分のことなのに自分ではどうにもコントロールできないことが起きるものさ」
「それは心の病気ということですか?」
「どうだろうね。病気の人ももちろん、好きって感情もそうだろう? 恋の病いとはよく言ったもんだけど、自分の衝動や信じて来たものをそうは簡単になかったことにはできない」
「なんとなくわかります」
「諦めなさいとか、それはよした方がいいと人に言われたって、変えることはできないんだ。折り合いをつけて暮らしていくしかない。そもそもオレらが男を好きになってしまうのも自分で決めたことではないしな。君が好きな人だって同じように苦しんでいるんだ。でも、それが生きるってことだとオレは思うね」
相変わらず煙に巻かれるようなことを言われたが、不思議と肩の力が抜けていた。
迫るトラックのライトに男は目を細めた。
「じゃ、オレ、そろそろ行くわ。あまりくよくよ考えてもなるようにしかならない。案外、そんなもんだよ。君は壊れてしまったものは戻せないのかと聞いたけれど、そもそも君が大切にしたいものは本当に壊れてしまっているかい?」
男はそう言いながら、後ろ手を上げて歩道橋を反対側へ歩いて行った。初めてだったのだと気がついた。ユウキとの出会いアプリ事件を別にすれば、リアルをした初めての人だった。彼には彼の生きて来た道があって、普通なら出会わないタイプの人で。もしかしたら……源一郎さんの言っていた一期一会とは、今夜のようなことを言うのかもしれない。
足元にハンカチが落ちていた。男がファミレスで使っていたものだ。今ならまだその背を呼び止めることが出来た。
ズボンのポケットの振動に、ハンカチを拾い上げようとした手が止まる。マナーモードにしていたスマホ。メールかと思ったらいつまでも鳴り止まない。着信だ。こんな時間に誰だろうと、ポケットから取り出した。画面に表示された名前は、リリコさんだった。予想しない名前に面食らう。僕が家出をしたって、心配して連絡をよこす人でもないのに。気を取られているうちに、男の姿は歩道橋の上から消えていた。
「もしもし……」
バツの悪さで蚊の鳴くような声になってしまった。
リリコさんの声が耳元に響く。その声は取り乱していた。気まずさも何もなかった。歩道橋の下を通過していく大型トラックの振動と騒音でリリコさんの声が聞きづらい。
「え? 落ち着いてください。どうしたんですか、リリコさん?」
受話器の向こう。リリコさんの困惑した声。
何を言っているのかようやく理解したとき、キーンと高い音の耳鳴りがした。心臓がばくばくと鼓動を早める。明治通りを徒党を組むように何台も通り過ぎて行くトラックの立てる振動に身体が揺らぐ。
不意に吹きつけた突風が、見知らぬ男の白いハンカチを歩道橋の上空に舞い上げていた。
第11話 完
第12話「不協和音」に続く
虹を見にいこう 第11話「見知らぬ男」 なか @nakaba995
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