Chap.11-2
新宿の裏道。ハンドルネーム、ニコニコマーク男の姿を見失わないようにして、ひと気のない深夜の路地裏を歩いて行った。まるで螺旋階段のようにグルグルと町の奥底に迷い込んでいるような気分だった。
頭の中のもやもやは一向に晴れる気配がなく、少し目を離すと男の姿を見失い、先ほど曲がって来たのではなかったかと思う路地からひょっこり男が現れた。そうかと思うと前を歩いていたはずの男に背後から肩を叩かれて、腕を引っ張られ、また別の路地に連れ込まれて行く。そんな風に混乱して感じるのは、きっと僕の頭がぼんやりしているせいなのだろう。
無数に立ち並ぶ電柱に貼られた看板には「この先5メートル右折」「この手前左折」「このまま直進」「ここは新宿六丁目」と、自分が今どこを歩いているのかを惑わせるものばかりだった。そのうち看板に「フリダシに戻る」と言われるのではないかと思えた。フリダシに戻された挙句、この迷い道が延々と続くのではないか。この一ヶ月、僕が迷い込んだ鉛色の迷路と同じように。
男が足を止めた。迷路の終着点、それは何の変哲もない雑居ビルだった。エレベーターも無い。コンクリート打ちっ放しの無機質で狭いビルの階段を促されるまま上って行く。切れかけた照明がチラチラと点滅して、弱った蛾が一匹ひらひらと飛んでいた。
三階の踊り場で男は立ち止まると、「ここだよ」と僕に
「ちょ、ちょっと大丈夫ですか?」
焦る声に男が振り返る。
「何が?」
「だって……ほら、『会員制、関係者以外の入店をお断りします』と書かれています。僕、会員じゃないですよ」
中に入ろうとする者を全力で拒むようなオーラを感じる。
「こういうところには『会員制』とどこにだって書いてあるのさ。それと知らずにお仲間ではない人が入ってこないようにね。そういう意味では、オレや君は既に会員だし、関係者というワケだ」
小さな鈴の音を鳴らし開いた扉の中は暗く、入ってすぐの突き当たりに受付らしきものが見えた。手元だけでやりとり出来るように、腰のやや上辺りの高さに小さな小窓が開いている。店内から、クラブミュージックのような音楽と、芳香剤と体臭が入り交じったような何とも言えない甘い匂いが漂って来た。
いつまでも棒立ちの僕の腕を男は「さあ」と強引に引っ張った。
「ここ、ペア割があってね。二人で入店すると割引になるんだ。別々に受付しちゃうと、ペア割出来なくなるから」
男の腕を、全力で振り払っていた。
店内から漂ってくる甘い臭いから逃れようと、一目散に階段を駆け下りた。頭で考えるよりも先に、身体が拒んでいた。静まり返る深夜の雑居ビルに僕の足音が響く。ビルを飛び出そうとした時、エントランスでガタイのいい男にぶつかった。短髪髭の姿で、ニコニコマーク男のように特徴が無く、その顔は出会いアプリの中で見かけるような、並んでいても見分けのつかない量産型の男だった。もしくは、僕が人の顔を判別出来なくなっているのかもしれなかった。
よろけて地面に膝をつくこちらを見下ろして、その男はチッと舌打ちをした。僕がぶつかった箇所を手の平で払い、ビルの中へと消えて行く。この男も三階のあの黒い扉を目指すのだ。
ジワジワと涙が溢れて止まらなくなった。タカさんと初めて会った雨の日、『そのままだと風邪をひいちゃうだろ?』と差し出されたタオル。東京にもこんなに気さくな人がいるのだと思った。あの時、タカさんに出会わなければ良かったのだろうか。みんなの顔が浮かんでは消えていく。ゲイデビューをしなければユウキやリリコさん、チャビとも出会わなかった。タカさんを好きにならずにも済んだ。出会いアプリで変な男にも会わずに済んだのだろう。だが、そうなっていたら僕は今でも冴えない曇空のような毎日を送っていたと思う。じわじわと首が絞まっていくような毎日だった。いったいどうすれば良かったのか、何が悪かったのだろうか。
『どんな生き方が良かったのかなんて、そんなの一生わからないさ』
いつかどこかで聞いたタカさんの言葉だった。
僕は滲む視界を手の甲でこすると、冷たい地面に手をついてゆっくりと立ち上がった。
◇
明治通りに架かる歩道橋の上で立ち止まった。濡れた頬に夜風が冷たい。深夜でも途切れること無く行き交う車のヘッドライトとビルに点々と灯った明かり。眠らない町のネオン。この通りを東新宿方向に歩いて行けば、すぐに僕らが住んでいるマンションが見えてくる。見慣れた風景のはずなのにほんの数日帰らなかっただけで、今はどこか遠い景色に思えた。引っ越してから初めて、この歩道橋の上に立ったからかもしれない。
「今頃何やってんだろう、みんな……」
家出状態の僕にチャビまで心配をしてメールをくれた。
『いっぺいくん、大丈夫? おなかすいてない?』
と、チャビらしい心配の仕方だった。出張に行っているという僕の嘘はとっくにバレているのかもしれない。みんなに心配をかけるようなことをして、いったい僕は何がしたいのだろう。
リリコさんからは一切連絡がない。普段からマメに連絡をくれるような人ではないけど。
『そのかまってちゃんオーラが鼻につくからよ』
いつかのリリコさんの言葉。ユウキと出会いアプリのプロフィールで張り合いになった時だっただろうか。苦笑いがこぼれる。
きっと、リリコさんはタカさんのことが好きなのだと思う。僕よりもずっと長い間、片思いをしているのだろう。薄々と気がついていた。恋人の死や店の火事のことを自分の責任だとして、僕らを遠ざけようとするタカさんにリリコさんは言った。
『タカがそういう言い方をする度に、あたしたちがどういう気持ちになっているか考えたことある?』
あのときのタカさんを見た真っ直ぐな目。リリコさんはこの人に恋をしているのだと悟った。リリコさんに話しかけずらくなってしまったのは、今までだって薄々と感じていたリリコさんの恋心が確信に変わったせいもあった。
リリコさんもまた僕のタカさんへの気持ちに勘づいているのだろうか。恋のライバル……なんて言うとテレビドラマのようだが、実際はリリコさんを敵に回そうなんてこれっぽっちも思わないし、そもそも僕も、おそらくリリコさんだって、タカさんに気持ちすら伝えられていない。
タカさん……。
アロハシャツの似合う肩幅のあるシルエットを思う。夏のビーチでレジャーシートを大きく広げ、眩しい太陽に手をかざしていた。タカさんの作る料理はいつだってバツグンに美味しくてみんなを笑顔にさせた。その無骨な指先、笑うと丸い眼鏡からはみ出す目尻のシワ、床に落ちた雑誌を拾い上げる丸まった背中、リビングに入って来たときに「おはよう」と言う表情……出会った日から今までの長いようで短い日々の光景で溢れかえって、どうしようもないもどかしさで胸が塞がった。
雨宿りをした日に僕の手を握ってくれた。その幻想にすがりつきそうになる。以前、僕もチャビの手を握り締めたことがある。それは友人として力になりたいという思いだった。タカさんが僕の手を握ったのだって、きっとそれと同じようなことだったのだと思う。
Chap.11-3へ続く
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