虹を見にいこう 第11話「見知らぬ男」
なか
Chap.11-1
「僕、好きな人がいます」
その告白に、目の前の眼鏡をかけた白い服の男は、ただ
「でも、その人の目に映っているのは、僕ではなくて……亡くなってしまった昔の恋人でした。現実を見ることを止めてしまっているんです。何を言っても僕の言葉は届かないだろうし、どうしたらいいのかわかりませんでした」
そこで言いよどんでいると、男はペンを傾けて、先を続けるように無言で促してきた。少し息をつく。
「一緒に暮らしているルームメイト達にその事を告げました。隠しているからいけないんだと思ったんです。いっそバレてしまえば他愛のないことだったと片付いてくれるかもしれない。秘密が秘密でなくなれば、みんなが知ってしまえば、その人の悪い夢も覚めてくれるんじゃないかと思いました」
男がカリカリと手帳にペンを立てる音がする。
ルームシェアをする僕らのボス、タカさん。五人が共同生活をするあの部屋で、タカさんと同棲をしていた昔の恋人が亡くなっていた。そのことを隠して僕らとルームシェアをしていたのだ。事故物件と知られると、一緒に住んでくれる人が見つからないというのが建前だった。
『あいつがまだこの部屋に住んでいるような気がするんだ』
タカさんはそう言った。死んでしまった恋人、マサヤさんの影をいつまでも探して……いや、むしろそこにいるように思いたくて、タカさんは霊現象を自作自演していた。タカさんの望みは、みんなが不気味に感じて出て行ってしまわない程度のウワサ、何かがいるかも知れないちょっとした気配。僕はそのよじれてしまった複雑な事情をみんなに知らせた。
「放っておいたら、もっと悪い方向に向かうと思いました。取り返しがつかなくなるんじゃないかと。でも、取り返しがつかないことをしてしまったのは、僕の方かもしれません。その人は余計に自分の殻に閉じこもってしまったし、僕は関係のない他のみんなの生活も壊してしまった。前にね……こんな話を聞いたことがあります。秘密を打ち明ける人は、言ってしまって清々するかもしれないけど、自分の意思とは関係なく秘密を打ち明けられた側は、いい迷惑だって。知らないでいたいことも現実にはたくさんあるのに。強引に告げられた結果、日常を見る目が変わってしまう。今までと同じようには生きられなくなってしまう」
あれから僕らの生活はすっかり変わってしまった。どこかよそよそしい空気が常に漂うようになり、みんなが夕飯の時間に家に寄りつかなくなった。
僕自身、最初のうちこそ『今日の晩ご飯はいりません』とタカさんにメッセージを送っていたのに、そのうち断りもなく外食で済ますことが当たり前になった。紺色のエプロンを片手に
皆が自然と集まっていたリビングはいつもがらんとするようになって、用がなければ自分の部屋で過ごすか外出をすることが多くなった。静かなリビングでは壁掛け時計の秒針の音がよく耳につくようになった。
「ぼくね……引っ越そうと思うんだ」
そうユウキに告げられた時には、それでも何とかぎりぎり持ちこたえていた僕らの共同生活が、音を立てて崩れていくように感じた。新しい部屋を探し始めたユウキ。
せっかく仕事や生活習慣に変化が現れ始めていたチャビも、またひとりでゲームに没頭することが多くなった。人の顔色を無意識にうかがってしまうチャビのことだから、今の息苦しさを人一倍感じているのだろう。
リリコさんだけが、今まで通り変わらないように思えた。少なくとも外見上は。むしろ変わらずにいるリリコさんに近寄ると、何かこちらが問い詰められるような気がして、話しかけづらかった。本当はリリコさんにこそ、タカさんの古い友人として聞きたいことが山ほどあるのに。
そうこうしながら一ヶ月。どうしたらいいのか益々わからなくなった僕は、入り組んだ迷路のどん詰まりで、目の前を塞ぐ鉛色の壁をただ見つめているような毎日を送っていた。
僕はこの数日、マンションの部屋に帰っていない。心配したタカさんやユウキから連絡があったが「ごめんなさい、ちょっと急な出張で」と誤魔化した。会社の同僚の家や、カプセルホテルを転々とする毎日。夜はカプセルホテルの薄暗く狭い壁に囲まれながら、たいして興味も無くなった出会いアプリを淡々といじりながら、画面の青白い光に照らされていた。無課金のために表示されるアプリ広告には『心の風邪は誰でもひきます』『診療内科』『カウンセリング』といった言葉が並んでいた。
全てを話し終えた僕は、全身の空気が抜けるような息をついた。頭が少しぼんやりとしている。
目の前の男は足を組み替えると、ニッコリと笑った。ボールペンを手帳の間にパタンと挟み、胸元のポケットにしまう。
「話はそれで全部?」
「ええ、だいたい。話せたと思います」
ウン、ウン、と男は二度肯いた。
「じゃあ、どうする?」
テーブルの上で肘をついたまま両手を合わせると、指先を自分の鼻の前辺りに止めて、僕の顔を見た。答えは僕の中にあると言わんばかりに。
「自分ではどうしたらいいのか、もうわからないんです。壊れてしまったものは、もう元には戻せないのでしょうか?」
男はかぶりを振った。
「そうじゃない、そうじゃない」
「え?」
「君の話は聞いてあげたんだ。だから、この後どうすると聞いているんだよ」
男の目に獣が見せるような鋭い光が宿っていた。
「オレとやる? やらないの?」
店内に食器の割れる音が響いた。
「失礼しました」と慌てた店員の声が上がった。
深夜のファミリーレストラン。厨房へ食器を片付けようとしたウェイトレスが手を滑らせたのだった。ミートソースで汚れた白い皿の破片が床に散乱する。急に現実に引き戻されたような気がして客の喧噪が耳に
割れる食器の音に気を取られていた目の前の男が、僕の方へ向き直った。特徴の無い男だった。きっと一ヶ月もすれば僕はこの人の顔を思い出すことができないだろう。なぜ僕は見知らぬ男を相手に、こんな愚にもつかない話をしているのかと不思議な気持ちになった。男の方も僕の話を聞き流し、持ち帰った仕事の続きか、手帳を相手に何かを書きながら、僕のつまらない話が終わるのを待っていた。
出会いアプリで見かけた見ず知らずの男だった。ハンドルネームも無く、顔文字のニコちゃんマークがその男の名前だった。話を聞いてもらえるなら誰でもよかったのかもしれない。ユウキやリリコさん、チャビとはこれ以上話をするのが怖かったし、タカさんの店で知り合った人達に相談するわけにもいかなかった。彼らだってタカさんの秘密を知らずに済むのなら、その方がいいに決まっている。むしろ相談をするなら、見ず知らずの僕らの生活とは無縁の人の方が都合が良かった。
カプセルホテルの低い天井に押しつぶされそうになりながら、話を聞いてくれる相手として、例えば広告に表示されていたカウンセリングでも、ヤリ目の男でも変わりはなかった。手っ取り早いのはどちらなのか。ただそれだけの理由で、僕は出会いアプリを通して週末の夜に『いますぐ会いたい』とアピールしていた男にメッセージを送っていた。新宿はそんな出会いに事欠かない町だった。
「もっとさ、考え方、カジュアルでいいんじゃない?」
その男は言った。
「他人の気持ちはどうにもならないんだ。悩んでもしょうがないことだよ。好きな人がこちらを振り向いてくれないのも、友達が部屋を離れていくのも、全部、君のせいではない」
「そうでしょうか」
「そうさ。君は何を期待しているんだ。こちらが期待したことを相手がしてくれないからと、その人を責めるのかい? 思い通りにならないことを恨む?」
僕は無言だった。
「だから、オレは君とセックスが出来なくてもしょうがないと思っている。君にその気があるのならやればいいし、そうでないのなら縁がなかったと諦めるだけさ。人と人の出会いなんてそんなもんだよ。一期一会て言葉があるだろう? アレってそういう意味じゃないかな」
煙に巻かれたような気持ちになる。戦場カメラマンの源一郎さんも一期一会という言葉を僕に話してくれたが、そんなニュアンスではなかったように思う。この数日考えることを放棄して、霞がかかったようにはっきりとしない頭では、この男が何を言っているのか理解することができなかった。
「で、どうする? ヤルの、ヤラないの?」
僕は重力に任せて頭を縦に振っていた。話を聞いてくれた人に求められるのなら、それはそれでもいいような気がした。そこに僕の意思はない。
「場所ある? ああ、ルームシェアしてんだっけか。そもそも家出中だしな……じゃあ、どっかハッテン場でいいか」
男はズボンのポケットからハンカチを取り出すと、口元を拭ってから席を立った。ドリンクバー二人分の伝票を持ってすたすたと歩き出す。ハッテン場という言葉が耳に入ったのか、隣のテーブルのお仲間だと思われる若者にジロジロと見られた。新宿二丁目から通り一本超えただけのこのファミレスは、場所柄ゲイが多いようだった。この時間帯なら二丁目の酔い冷ましに来ている者も多いのだろう。
レジに向かう男に追いつき声をかけた。
「あの……ハッテン場ですか?」
「そう」
なんか問題ある? という顔をされる。ハッテン場とは行きずりの男同士が肌を重ねるための場所だ。話に聞いたことはあったが、今まで縁がなかった。
「どんなところなんですか?」
「あ、行ったことないの? 便利だよ。シャワーもあるし、ゴムやローションも使い放題だしさ。やり足りなかったら、別のヤツも見繕えるし。なんか今日は二、三発出さないと満足出来ない気分なんだよね」
頭の中の靄が深くなる。相変わらず男の言っていることが少しも現実だと思えない。それが良いことなのか悪いことなのか、僕が望んでいることなのかも分からない。
Chap.11-2へ続く
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