青い春の夏

奥田手前

青い春の夏

 楓太は公園を走っていた。人が一人もいないのは今も以前も変わらない。イヤホンは汗にさらされ続けたせいか、右側が聞こえなくなっていた。

 太陽と、太陽に焦されたアスファルトの間に逃げ場はない。

 容赦無い日射しに文句を言うつもりはなかった。陽が落ちるのと楓太が落ちるのと、どっちが早いかの真剣勝負だ。

『なんで走るんだ』また、龍二の声がする。

「知らないよ...」あれから何回も考えた。でもわからないんだ。

『俺たちは引退した。もう総体は無いんだ。練習したって、無いモンは無いんだ』わかってるよ、龍二は正しい。でも、だからって俺も間違ってるとはかぎらないだろ。

『自主練してるお前を見てると、受験に向かって勉強してるのを責められてる気がしてくるよ。才能あるやつはいいよな。走りたいだけ走って、陸上の推薦もらって、その脚で大学行くんだから鈍っちゃダメだってまた走って』そんなつもりはなかった。でも、本気で睨んでる龍二がその苛立ちを勉強にぶつけるんなら、そういうことにしてもいいと思った。友情か偽善かなんて、自分でジャッジすることじゃない。

 右耳にだけ、六時を知らせる哀愁漂うメロディーが響いてきた。この町出身のシンガーソングライターが、この町をモチーフにした歌だ。

 日の入りまで、あと一時間くらいか。夏の夜は長いから、その分長く練習できる。日が沈むまでに帰ってこいなんて、随分アバウトな親だけれど。

「ん?」公園の入り口に、誰かがいた気がした。

 目が合ったりして気まずくなるのが嫌で、振り向くのはやめた。だけど見間違いじゃないなら、その人は楓太がこの公園で会う、初めての人だった。

 少しドキドキしながら小さな公園を一周する。ずっと保ち続けてきたペースは一気に崩壊してしまった。

 やっぱり人がいた。横目に見ただけでわかったのは、運動をできる格好をしていることくらい。

 もう一周して、次は性別を確認しよう。その次はおおよその年齢。

 そう考えて、さらにペースを上げた。だけど、もう彼、もしくは彼女はそこにいなかった。

 ショックだったがオート機能搭載の脚は止まらない。名残惜しく、楓太は後ろを振り返った。

 すぐそこに、必死の形相で迫ってくる誰かがいた。落ち込んでいた心は一気に恐怖に染まり、もはや目が合ってどうのこうのなど問題ではない。

 視力がそれほど良くない楓太は、目を極限まで細め凝視してようやく、謎の人物の正体に気付いた。

「なんだ鳥屋か」

 そこにいたのは、陸上部のマネージャーだった鳥屋だった。恐怖で一瞬マックスまで上がったスピードを落とし始めた楓太に、なんとか追いついてくる。

「何してんの」

「ちょっと話そうと思って...追いつこうとしたんだけど無理で...名前呼べないくらい息切れしちゃって...イヤホンしてるから全然気づかないし...」途切れ途切れに話す鳥屋は、それでも足を止めない。

 練習中に話しかけるときは、並走するのがなんとなくルールだった。練習ならそんなに長い会話はないが、マネージャーがずっとついてこれるほど遅いペースではない。楓太はジョグくらいにスピードを落として、鳥屋の息が整うのを待った。

「なんでここ知ってんの?」

「いつも走ってるじゃん。みんな知ってるよ」

「みんなって、陸上部みんなってこと?」

「いや、町中みんな」なんだかわからないが、とてつもなく恥ずかしくなってきた。町中みんなというのが誇張でもなんでもなくおそらく事実であろうことが、田舎の恐ろしさを雄弁に物語っている。

「つーか一緒に走ってていいのかな」もう部活禁止令は解除されたけど、まだナーバスな人は多い。

「密室でもないし、マスクしてるし、学校よりは安全じゃん。いいんじゃない」

「このマスク、練習用なんだけど」酸素を制限するために、普段からつけているだけだ。

「なんで走ってるの」鳥屋はなんでもないように聞いた。

 大学に入った後がどうとか、そういう話じゃないのはわかった。

「わからない。教室で俺と龍二が言い合ってるの見たよな。あれからずっと考えてて、それでも答えが見つからないんだ。逆にさ」

「逆に?」

「逆に、なんで俺が走ってんのかわかる?」

 鳥屋は黙り込んでしまった。自分の悩みに、他人に簡単に答えを出されてもそれはそれで困るけど。 

 公園をゆっくり三周くらい走って、ようやく鳥屋は口を開いた。

「ウチさ、外国の本の翻訳したいんだ」鳥屋は、遠回しに話をする癖がある。

「知ってるよ」

「話したよね。でさ、英語の勉強するためにそこそこデキる大学選んだし、龍二みたいに一応家で勉強してなきゃいけないわけですよ、本当は。でも、今ここで楓太と走ってるのは別に逃避とかじゃなくて、ここで楓太の話聞いといたら、それがいつか役に立つって、なんでかわかんないけど確信したからなんだよね」

 鳥屋は、楓太が話を飲み込むのをゆっくり待っていた。

「うん」しっかり理解してから返事をした楓太を見て、鳥屋は続ける。

「ウチには明確な目標があって、心の底からそうなりたいと思ってるつもり。でも、将来やりたいこととかが実は決まってない人って、ウチらの歳なら普通だと思うんだ。なんとなく言ってるだけとか。今は一つの未来しか見えてなくても、そのうち変わるかもしれないし。それは、ウチもそう」

「うん、そうだね」

「でも、楓太はそうじゃない」言い切った鳥屋は、前を向いたままだった。

「そうかな」

「そうなんだよ」

「将来の進路とか、白紙で出してるけど」

「それでもね、そうなんだよ。楓太は多分、いつまでも走り続けるんだよ。今は陸上で大学にいくけど、どっかの会社の駅伝部に入るかもしれないけど、永遠に選手でいられるわけじゃない。でも、いつか必要とされないランナーになっても、走るのはやめないんだと思うんだよね。それは、楓太が走る人だから。ロダンの考える人的な、走る人!」鳥屋の口調はくだけている。でも、

「多分、マジメに言ってんだよなあ...」

「何?聞こえない」

 聞かせるつもりはなかったからさ、と楓太は今度は聞こえるように呟く。

「走る人って職業でも肩書きでもないし、他の人から見たら凄くあやふやで不安定なんだと思う。だから、龍二みたいにちゃんと未来のことを考えなきゃって思ってる人ほど、楓太に腹が立っちゃうんだよ」

「そう、だな...」なんとなく、そういうことだとわかっていた。だけどこうしてハッキリ突きつけられると、やはり痛い。

「でもね、そんなの知ったことじゃないでしょ? 別に楓太は将来のことを考えてないんじゃなくて、走るってことを決めてるのに、他人がそれは進路じゃないって口出ししてるだけなんだから。それを真に受けて楓太は悩んでるけど、本当はどうでもいいことなんだよ」

「そうなのかな」正直、鳥屋の言うことが全部理解できたわけじゃなかった。

「鳥屋の言ったこと、ゆっくり自分で考えてみるよ。もう日が暮れるし、ランニングで帰りながら」

「出たよ、謎の門限システム。走ってるときが一番考えごとが捗るんだもんね」鳥屋が愉快そうに笑う。

「いつか、龍二とも仲直りしてね!」背を向けた楓太に、鳥屋が叫ぶ。

「あいつの受験が終わったらな。こうやって鳥屋と一緒に話してるの見たら、余計に関係悪化するだろうな」

「どうかな」

「龍二は鳥屋と同じ大学に行こうと必死になってんだから、そりゃあ怒るだろうよ」

「ウチは龍二に合わせたおかげで余裕があるんだけどね。て言うか、楓太って全然勉強してないくせに龍二よりできるよね。なのに簡単なとこに推薦決めちゃって。だから龍二がイライラするんだ」鳥屋はイタズラをしかける子どもみたいな顔をしている。答えに困る質問をして楽しむあたり、実に性格が悪い。そして龍二は趣味が悪い。

「知ったことじゃねえよ」そういうことなんだろ。

 鳥屋が満足そうに頷いた。

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青い春の夏 奥田手前 @akashikato

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