そのころ(上巻外伝)

 二人の弟子は先ほど見た悪魔の所業について、休まず話しながら、彼等の仲間と師の元へ帰った。

「お帰り、お疲れ様。」

「ただいま戻りました、先生。」

「先生、凄いモノを私達は戒めて来ました。褒めてください。」

「ほうほう、何だね、私に教えてくれ。」

「お待ちください、先生。その前に駄賃を返してもらうのが先です。彼等が最後に戻って来たから、漸く帳簿が付けられます。…ん? やけにこの財布、軽いじゃないですか。何に使ったんです。」

「うるさい、魔術師が邪魔してきたから、民衆を黙らせるのに使ったんだ。」

「そういうお前はどんな権能をお借りして、どんな御業をやってみせたんだよ、会計士。」

「先生、これは一大事です。私は今夜、多分誰よりも長く起きているので、気にせずお休みください。灯火の光が明るくないようにしますから。」

「何だと成金野郎! おれたちが数が数えられないからって…。」

「ああもう、わかったわかった、わかったから! 落ち着いて、順番に話しなさい。」

 どうどう、と、彼等の師が手で場を沈めると、漸くむくつけき男達は顔を見合わせ、深呼吸をした。

「サマリアの、サリム村の辺りを歩いていた時の事です。一人のローマ人が、自分の息子が頭がおかしくて困っていると言っていました。そこで私達は、先日の先生の真似をしようと思って、彼の信仰によって息子が治る、と、言いました。」

「ところが、奇跡は起こらず、私達は悪魔に負けてしまったのです。」

「それで私達は、息子の世話をするのに使うようにと、会計士から貰った金を少し施しました。」

「やっぱり先生は偉大な御方なんだと、そんな御方に師事出来ていることについて話しながら、此方の方へ向かっておりますと、汚らしい旅人達の所に、先程のローマ人が跪いていました。」

「その旅人のうちの一人は、めくらでした。道端で座り込んで乞食をしているような、そんなめくらです。」

めくらは、先生のあの奇跡を知っていたらしく、先生の真似をして、こう言いました。『その信仰が、貴方を救う。』と。」

「すると幻が見えました。」

「上等な寝床の上で、白目をむいて泡を吹いていた子供が、ぱっと目を黒くして、起き上がったのです。そして追い詰められた、自分の看病をしてくれていた祖母に、食事をねだりました。すぐに私達は、これが現実にローマの家で起こった事だと分かりました。」

「幻が消えて我に返ると、あの畏れ多い事を言ってのけためくらが泣き崩れていて、仲間の一人の胸に縋って泣いていました。」

「きっと先生に権能を授かった私たちの仲間でもないのに、先生の権能を盗んで行ったことが恐ろしくなったのです。」

「それで、どうして私達で出来なかったことが出来たのか、いつ先生に師事したのかと聞きました。」

めくらを抱いていた男はこう言いました。ナザレのインマヌエルは、今自分の胸で泣いている男だ、と。」

「つまり、先生の偽物です。」

「偽物! ほうほうほう! ついに私も、偽者が出るに至ったか。それは嬉しい。」

「先生、喜ぶことではありません。先生だけが、このイスラエルを救う指導者なのです。王は一人で良いのですから、この偽者は、次に会った時には即刻殺すべきです。」

 彼らは何故、彼らの師が自らを騙った不届き者を怒らないのか、不思議でならなかった。しかし師は、出されたパンをぼろぼろと食べながら、特に何も考えていなさそうな顔で、報告の続きを待つ。

「とにかく、私達は偽物に、行いを改めるように言ったのです。」

「そうしたら、小さな少年が私達を侮辱して、噛み付こうとしてきたのです。」

「でも何とかその少年を仲間達が抑えました。三人がかりで押さえつけて、漸く私達を噛み付こうとする牙を避けることが出来たのです。」

「とても恐ろしい子供でした。あれこそ悪魔に魅入られた馬鹿力ですよ。」

「先生、悪魔が先生の名前を使って悪さをしているのです。懲らしめるべきです。」

「そうです、そうです。何だったら巌夫いわおを連れて行きましょう、腕っ節だけは強い。」

「え、なんでそこで私!?」

 まったりと酸い葡萄ぶどう酒を口に含んで遊んでいた弟子―――巌夫いわおは、ぷっと吹き出した。彼の弟が苛々と、掃除をする為に奴隷を呼びつけに行く。師はパンを詰まらせながら、葡萄ぶどう酒で呑み込んだ。

「別に良いんじゃない? 悪魔だって、神様の存在を否定しないし、悪魔の力で持て余すようなら、神様の権能を使うさ。彼らが私と違うのは、私は父から全ての権能を与えられたのに対して、彼らは父に乞って、漸く少しの権能が、一時的に使えるようになるだけだ。寧ろそのような邪悪ですら神の力を理解しているというのに、剰え彼らよりも優れていると言う者達の方が、よっぽど神について理解していないことを恥じるべきだと思うけどね。」

 師はそう言って、やんわりと窘めたが、二人の弟子はそれに気付かず、益々興奮して言った。

「悪魔が神の力を行使していると分かるのであれば、それこそ神への冒涜です。即刻止めるべきです。」

「先生、奴らこそ天の火で焼き尽くすべきです。ベトサイダやコラジンの人々よりも悪質です。明らかに悪魔なのに、先生は何故彼らを今すぐに伐ちに行かないのですか。」

「え、行かなくて良いよ。別に悪い事してる訳じゃなし。神様を賛美しなければ起こせない奇跡を起こしておきながら、その舌の根も乾かずに神様を罵倒する事は出来ないでしょ。人間はしちゃうけどね。そういう心根の人に、神様は権能をお与えにはならないから、大丈夫大丈夫。彼らは私達の敵では無いよ。だから懲らしめる必要はない。」

「しかし先生、先生を妬んでいるパリサイ人やサドカイ人が、彼らの悪事や所業を見て、先生に益々突っかかるかもしれないのですよ。」

「あの人達は、私がご飯を食べたら『大飯喰らいの悪霊憑き』って言うし、私が食欲を無くたら『食欲を悪霊に売った』って言うじゃない。私は単純に疲れて食べる気力も無くなってただけなのに。」

「先生の偽物が、そのような言いがかりの種を作っているのです。」

「毒麦は、すぐに抜き取るべきです。」

「えー、いいよ別に、今じゃなくても。毒麦なんて普通の麦とそんなに変わらないから、間違えて抜いちゃうよ。それに、人間だったら、毒麦と思って抜いて焼くときに良い麦になるかも知れない。毒麦かどうかなんて、人には判断できないから、ほっとこうよ。そんなことより、お使いに出す前に私が話したこと、覚えているだろうね?」

 すると、二人の弟子は言葉に詰まり、顔を見合わせ、しょんぼりと項垂れた。あはは、と、師は愛おしそうに笑ったが、運悪くそこへ、会計士が戻ってきてしまった。まるで自身が光りそうなほどに目を怒らせ、ずいずいと詰め寄る。

「おいお前達! 無駄遣いも良いところだ! こんな端金じゃ、宮殿の納入金だって賄えないぞ!」

「まあまあ、また明日には誰かがお弁当を分けてくれるだろうから、安心しなよ。自分が将来使う分だけ、あればいいから。ね、会計士。」

「先生の御言葉には、確かに保身的な人々を献身的な隣人愛に溢れた人へ変える力があります。が、毎日あの山の上での、あの少年のような弁当持ちがいるわけではありません。…いや、そうではなくて、取税の話なのです、先生。これからもローマが作った道を歩くのですから、ローマに納める税を貨幣として持っていなければなりません。先生をお慕いする弟子は日毎増えていきます。今計算しましたら、今いる人数から、一人欠けた分の通行料しかありませんでした。だから―――。」

 その時黙っていた一人が、急に顔つきを変え、会計士の前髪を掴み、右の拳で顔面を強打し始めた。

「うっせーんだよ!! 俺達が私欲で使う訳ねえだろ! 台帳ごまかせるような学なんざねえんだから! それを何だよお前は、もっともらしい記号書いてもっともらしいコト言って、お前が俺達が出した金を横取りしてないってショーコがあんのかよ、あァンッ!?」

「こらこらこら! 暴力は止めなさい!」

「―――人が下手に出てりゃ、いい気になりやがって! 何だよお前達なんか、漁師だって魚を数えられるのに、釘一本禄に数えられりゃしないくせに、人への妬みは一丁前に百まで数えられると来た! お前達が貧乏だろうと何だろうと、数が数えられないのはお前達に向学心が無いからだ! この無能の文盲あきめくらが!」

「会計士、止めなさい!」

「難しい言葉使うな! 嫌味野郎! 男のくせに腕っ節も無いくせに! この男女おとこんな!」

「おやめったら!」

 騒ぎを聞きつけて、他の弟子達も起きてきた。止めるきっかけも参加するきっかけも失った、彼の相棒が途方に暮れているのを見て、彼らは事情をすぐに理解し、何とか会計士と弟子を引きはがす。それでも弟子の興奮は収まらず、ぎゃあぎゃあと罵声を次から次へと投げるので、起きてきた弟子の一人が、大きな掌で鼻ごと覆うと、漸く大人しくなった。会計士は、殴られた所が切れて涙目になりながらも、言ってやりたい決定的な一言を呑み込んでいるようだった。師はそれを見て、会計士の頬に口付け、顔の傷を吸い取ると、溜息をついて言った。

「良いだろう。全員起きてしまったことだし、忘れているようだから、もう一度話そう。座りなさい。」

 師がぼろぼろの椅子に腰掛けると、十人以上いる弟子達は皆床にぺたんと座った。

「いいかい、私はこう言ったんだ。『空の鴉、野原に生える薪を見なさい』と。」


 青い空の手前で、黄色い砂が舞っている。その砂の羽衣の上を歩くように、一羽の黒い鳥が歩く。鴉だ。あの大洪水の時、正義の人の元から飛び立って、そのまま自分の巣を作って帰らなかった鳥。生贄には相応しくなく、法律書によれば穢れているので食べる事にも適さない。彼は腹が減っているのに、机からこぼれ落ちたパン屑は、犬に喰われてしまっている。同じように惨めで穢れている犬でさえ満腹なのに、自分は空を駈ってより遠くまで見通せるのに、空腹だ。

「こちらだよ、鴉さん。」。そんな声が聞こえて、鴉は空の砂の上を歩いた。こちら、こちら、と、呼ばれるので、その声を頼りに歩く。砂の羽衣の下を見てみると、荒野に転がる枯葉の束を見つけた。鴉は自分を呼ぶ声が、あの枯葉だと気づき、砂の羽衣の下へ潜った。すぐ傍に、人間がいる。

「良く来たね。お腹が空いただろう、おいで。」

 その人間の胸には白い鳩が納まっていた。しかし鴉は直感で、その鳩が自分よりも黒い事を見抜いた。それなのに、どうしようも無く美しいその人間は、鴉よりも枯葉よりも、その近くに青々と繁る草花よりも、その鳩を愛しているようだった。鳩はその人間の肩に移動し、人間は両腕を鴉に向けて伸ばした。あの胸に飛び込めば、飢えを満たしてくれるのだろうか。鴉はひもじくて、詳しいことは考えずに、胸に飛び込んだ。ほんのりと筋肉質で、汗で湿った腕が、自分の傷んだ羽毛を抱きしめると、腹の中に泉が出来たかのように、不思議な高揚感が腹から肩、腰、そして二の腕、太股、掌、足首、そして指先と爪先に広がった。この泉が滾々と湧いている限り、自分は二度と餓えないのだ、ということを、身体で理解する。法悦に満たされていると、足下に転がっていた枯葉は、花をつけ実を結び、ぽろぽろと種を零しながらも、花を咲かせている、不思議な状態になっていた。

 そんなある種の混乱した光景を見せながら、『彼』に、その人間は振り向いた。

「天の国は、このようなものである。」

「………。」

『彼』は、自分の周囲に他に誰もおらず、その言葉が自分に向けられたものだと知り、顔を伏せた。

「神よ、私のような生まれついての飛べぬ鴉は、御身の元へ飛ぶことも出来ません。」

「飛ばずとも良い。私はお前に会いに来る。私の使いが、お前の元へやってきて、私の所へ、お前を連れてくる。だが今はまだ、その時では無い。それで、ものは相談なのだが。」

「はい、何なりと。しもべは聞きます。」

 するとその人物は言った。


「私は、我が子が生きるための世を六日で創り、七日目に休んだ。それでお前は、私が罪人が救われるための世を創る為に、六日間、受難の捧げ物をしてほしい。七日目にお前を、我が子が迎えに行く。私の望みを叶えてくれるか。」


 『彼』は顔を上げず、その場に跪いて、剣か杖か何かを拝領するように、両手を上げた。

「私は神の奴卑ぬひであります。御言葉通りになるよう、お望みになるならば、私の心はそれに自ずと従うでしょう。どうか悪が私を誑かし、その御言葉に背くことのないよう、私を強めて下さい。その故に私は、我が信仰の祈りに因りてこう答えます。御言葉通りになりますようにアーメン、と。」

「お前は私の愛する子。私はお前を悦ぶ。」

 景色が薄まっていき、奥行きの無い闇が近づいて来る。目覚めるのだと悟った『彼』は、遠くなっていく『それ』に手を伸ばし、叫んだ。

「神よ! どうか憐れんで下さい、慈しんで下さい! いつか、私の家族を貴方の側に置くために!!」

 真にアーメン真にアーメンそうで在れスィークト然りアメーン然りアメーンそうで在るエスト。  

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