外伝 オレアに願いを
ローリエの冠(本編前日譚)
太陽の神が奏でる竪琴が、天から燦々と降り注ぐ。生まれの卑しさ、父親の有る無しに関わらず、その
ローマ将軍の邸宅の中庭で、一人の子供が、地面を湿らせながら、稽古用の剣を振っていた。数を数えているが、十を超えたあたりから、数字が飛び飛びになっている。
「十三の次は十四よ。」
「あ、かあさま。」
子供は剣を振りおろし、とたとたと歩いて、まだ娘と言っても差し支えない母の胸に飛び込んだ。母は太陽神に撫でられた我が子の湿った髪を撫で、薄く微笑んで言った。
「ほら、数えてご覧なさい。十、十一、十二…。」
「じゅーう、じゅーいち、じゅーに、じゅーさん、じゅーご…。」
「違うわ、十三、十四、十五、十六、十七。十八、十九、二十。」
「じゅうさん、じゅうし、じゅうく、じゅういち、じゅうく…。」
「そうじゃなくてね…。」
母は、中庭の花壇に腰掛け、膝の上に息子を乗せると、指を数えながら教え始めた。
「ほら、数えてご覧。十三、十四、その次は?」
「んと…じゅうろく?」
「十五、十六。」
「じゅうご、じゅうろく、…ええと。」
「六の次は何だった?」
「いち。」
「いいえ、しちよ。七、八、九、十だったでしょう?」
「たぶん。」
「それに、十足してご覧なさい。」
「んとね、んとね。………じゅういち、じゅうに、じゅうさん、じゅうし、じゅうご、じゅうろく、じゅうしち、じゅうはち、じゅうく、………。?」
「二十。」
「にじゅう!」
「そう、良く出来たわね。」
偉い偉い、と、母は頭を撫で、微笑んだ。ところがそれを見ていた母の妹達が、鼻で笑って声をかけてきた。
「あら! 姉さんの息子は、ユダヤ人の子供のくせにまだ数が数えられないの?」
くすくすと笑いながら、彼女の姉で、母にもなっている、妹の女も言った。
「きっと姉さんが犯されたのは、鼻の大きなどこかの破落戸なのよ! ユダヤ人なんかじゃないわ。」
「そうねえ、あいつら、産まれた時から算術が出来る卑しい金喰い虫ですもの。どうしてそんな嘘をつくのかしら。」
「そんなの決まってるわ、可愛い私の妹。私達より身分の低い外国人に殺されるような夫だったって、認めたくないのよ!」
「ローマ皇帝以外の方に嫁ぐから、バチが当たったのよ。金勘定が好きだから!」
あはは、と、二人が声高に笑ったが、母は何も言わず、拳すら握りしめず、我が子の頭を撫でていた。罵声の意味を理解していない息子は、しかし母が責められているのを感じ、励まそうと言った。
「かあさま、はちは良いすうじです。ちからのあるかなですから。かあさまにはちがあたったら、きっとおおきなちからにまもってもらえます。」
えっへんと自信たっぷりな顔の息子に微笑む母を、妹たちは軽蔑して唾を吐きかけた。
「まあ! 父親みたいなことを!」
「嫌だわ嫌だ、由緒正しきローマ将軍の家に、ユダヤ人の占い師がいるなんて!」
「いつでも出て行っていいのよ、姉さん! その子供の面倒なら心配いらないわ、貴方が連れて行けばいいのだもの。」
「そんなことより、早く中庭から出ていって下さらない? 私の息子と妹の息子が稽古を付けて戴く時間なのよ。」
母は答えた。
「ああ、それで来たの。もうそんな時間なのね。…さ、行きましょう、坊や。今日は二十まで数えられたから、母様がご褒美をあげますよ。」
「わーい! かあさま、だっこ!」
小さな息子を胸に抱きしめ、浴びせられた罵声を洗い流すように母は微笑んだ。妹たちは、どんなに罵っても涙一つ見せない姉を見て、また舌打ちをした。
「鈍い姉さん。時間にしっかりしてないから、夫でもない男に孕まされるのよ。」
「私達の息子がお嫁さんをもらえなかったら、貴方が私達の息子の嫁を産むのよ、売春宿の秘密の部屋でね! 女の責任は、子供を産むことでしか償えないんだから!」
「………。」
抱きかかえられて上機嫌の息子には見えないように、母は振り向いて言った。
「夫と息子に聞かせられないような言葉を使うものでは無いわ。子供は親の思ったとおりではなく、親の通りに育つのよ。」
妹たちはそれを聞いて、あまりにも酷い罵声を叫びだしたので、母は息子の耳元で歌を歌いながらその場を去った。
母は息子を抱いて、ローマの郊外まで歩いてきた。小高い丘の上に、一本の大きな樹が立っている。木陰に座ると、暖かい光と冷たい光が交互に顔を撫でる。母はクローバーの椅子の上に息子を座らせると、大樹の枝に手を伸ばした。
「かあさま、この木はなに?」
「これはね、ローリエよ。」
「ろおいえ。」
「この樹の枝で作った冠は、偉い人しか被っちゃ行けないの。とても神聖な、女神さまの樹なのよ。」
母はそう言って、若枝を手折ると、息子に手元を見せながら、あっというまに若木の冠を作って見せた。そこに、クローバーの花を差し込み、美しい額にすると、母は自分の顔をその輪の中に入れた。
「ばあ。」
「きゃはは。」
「ねえ、綺麗に出来たかしら。」
「かあさま、きれいです。これはなんですか?」
「これがローリエの冠よ。今日、貴方は一杯稽古を頑張ったから、偉い貴方にかぶせてあげます。」
若木とは言え、枝は幼子の柔らかな髪に絡まり、ちくちくと頭皮を刺激した。だが痛くはない。息子は『かんむり』という、皇帝しか被らないようなものの一種を頭に乗せて貰うことを喜んでいる様だった。
「似合っているわ、坊や。きっと貴方は、大きくなったら皇帝陛下のお気に入りになれる。」
「えへへ、そうかなあ。」
「ええ、努力は裏切らないからね。だから、自分が信じられなくなることなんて無いのよ。自分だけは信じて良いの。」
「しんじるって、なあに?」
「その通りにするってことよ。もしも迷ったら、誰よりもまず、自分の心に聞くの。かみさまは、貴方の心の中に住んでおられるから、貴方の心に直接語りかけて下さるのよ。」
「あ! わかりました! ドートクテキっていうのですね!」
「ええそうよ、よく覚えていましたね。これをね、難しい言葉で、『
「どこのことば?」
「ギリシャよ。今一番大きな、学問の都。そこでは、良心をシュネイデシス(共観)と呼ぶの。誰と共に観るかというと、かみさまが、一緒に観ていて下さっているという意味なの。」
「………。???」
「だから、だからね、坊や。貴方は一人じゃ無いのよ。母様もいるし、お父様だって、本当はいるの。」
「どこに?」
母は微笑んで、、ぴっと上を指さした。
「空に、太陽があるのが見えるでしょう?」
「きょうもぽかぽか。」
「あれはね、貴方のお父様の姿の一つなの。貴方は、太陽の子なのよ。」
「たいようの?」
「そう、太陽。だから、いつも母様の心を暖かくしてくれる。夏になると、日差しが強くてとても辛くて、人々は、冬には暖めてくれる太陽を恨むわ。今は暖めなくていいのにって。だからね、坊や。貴方は輝いて良いのよ。輝きすぎても、誰も文句なんて言っちゃいけないんだから。」
「ううん???」
息子は理解が及ばなかった。母は、何ぞや考え事をしていたが、やがて息子を抱きしめた。とさり、と、ローリエの冠がずり落ちる。
「ごめん、ごめんね。難しい言葉だったわね。でも母様も、他になんと言って良いのか、解らないの。」
「かあさま…。どこかいたいの?」
いたいのいたいのとんでけ、と、背中に届かない両腕が、肩の付け根を撫でた。
「かあさま、かあさまは、はちがあたりました。だからぼくが、ずっとかあさまのちからになります。だから泣かないで。いたいのいたいの、とんでいけ!」
とんでいけ、とんでいけ。いたいのいたいのとんでいけ。
息子は母がどこを痛めているのか解るのか、息子は母の胸乳の間に頭を埋め、ぐりぐりと鼻先をこすりつけた。
「良い子、良い子ね、坊や。」
「かあさまも、いいこいいこです。ぼくはかあさまをおまもりします。」
「ありがとう。でもね、貴方がお守りするのは、母様じゃなくて、この世で最も尊いお方でなければならないのよ。」
「とおといって、なあに?」
「とっても大事で、とっても偉い人のことを、褒めるとき、『尊いお方』と言うのよ。」
「とっといおかか。」
母は苦笑して、『とうといおかた』と、息子が言えるように繰り返した。しかし息子は、その日はとうとう、『とうといおかた』と発音することは出来なかった。
息子の集中力が切れてきて散漫になり、もぞもぞと臍の辺りを指先でこねるのを見て、母はハッと我に返った。
「もう、帰りましょうか。お腹が空いたわね。」
「おなかすきました。かあさま、きょうはなにがもらえますか?」
手を繋いで歩こうとしたが、息子が両手を差し出したので、母は息子を抱きかかえた。汗が冷えたのか、肌が少し冷たい。
「昨日、宴会があったから、もしかしたら果物が残っているかもね。それを乳で煮詰めてみましょう。」
「パンはないですか?」
「今朝、厨房に入れてもらえなかったから、もしかしたらなくなっているかもね。…ごめんね。」
「どうしてあやまるのですか? かあさまは、いつもおいしいごはんをつくってくれます。」
息子の腹が、ぷるぷると震えた。
「もし、貴方のお父様がここに居たら、沢山の従兄弟達とも遊べたでしょうに。」
「にいさまたちのことですか? ぼく、あのひとたちきらいです。かあさまをわるくいうんだもの。おばさまたちもきらい。かあさまのことをばかにするんだもの。ぼくは、かあさまがいっしょにいてくれたら、けんのおけいこも、かずのべんきょうも、がんばれます。」
「貴方もいつか、家族以上に家族らしい人達と暮らせるようになれるわ。」
すると息子は、くしゃっと顔を歪め、母の首に手を回し、すんすんと鼻先をすりつけた。
「かあさま、かあさま。だいすき、かあさま。」
息子の頭に乗せられたローリエの冠から、葉の一枚が落ちた。
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