乞食瞎(めくら)の口吻(下巻外伝)
自分の実母のことを、『母』は、語ってはくれなかった。否、語っていたのかもしれないが、幼い頃の自分には、頭が足りなくて理解できなかったのだと思う。理解できないことを何度も聞かせることは、母にとっては苦痛だったらしい。そういうわけだったので、自分が成人してもやることは、血の繋がらない盲人の兄の世話をすることだけだった。兄は自分とは違って頭が良い。難しいことは全部兄に任せて、自分は兄にパンを食べさせれば良かった。時折羽振りが良いと、魚や牛の肉、酢を混ぜた水ではなく、酸い
兄は生まれる前、まだ実母の胎内にいたときに、実母諸共殺されそうになった。しかし神の手は、兄の命を守った。ただその手は、兄を包むには少し小さく、産まれたとき、兄の両眼は既に切り裂かれていて、兄は明暗しか分からない目だった。
ただ、兄は様々なものを視た。
それは空の蒼、
唇は美辞を紡ぐには渇いていて、舌は罪を重ねるのに固まりかかり、瞳は実を視るばかりで人を畏れさせる。鼻は地面に擦りつけるので茶色く、耳は人より効くがそれ以上にはならない。指先は乞食をするために傷つき、脚は躓きを恐れて頼りない。
兄はローマの血を引いた混血児だったが、弟からみて、とても良い男だったと思う。綺麗な男、綺麗な女というのを間近で見るのは、外国の神の神殿の近くを通りかかった時くらいだ。弟にとって、その意味では兄は、『綺麗』ではなかった。けれども、弟にとって、兄が全ての基準だったから、彼よりどこかしらが優れた男が大勢いたかと言えば、それもまた否である。
兄を護れるのは自分だけ。しかし自分をも護ってくれる存在というものは、死んだ母以外にはいないと思っていた。
いつも兄は、エルサレムのシロアムの池の辺りで乞食をしていた。そこは時間になると、天使がやってきて、水嵩が増す。その水に触れると、病が治ると信じられていたからである。
ある日、自分がかっぱらいから帰ってくると、兄はいつもいる通りではなく、眠るのに適した物陰に引っ込んでいた。両腕で自分を掻き抱いて、きっと本人は気付いていないのだろうけれど、伝うこともない涙を落としていた。
「アニィ? どうしたの? アニィ、何があったの?」
「
言われるが儘に、兄の傍に崩れたパンと、干した魚をおいて、自分と同じくらいの体格の兄を抱きしめた。兄は何かに怯えているようだった。よしよし、と、いつも寝付く時、兄がしてくれるように背中を撫でる。
「どうしたの?」
「―――来るんだ、
「大丈夫でェ、アニィ。司祭だろうとりっぽー学者だろうと―――。」
「駄目だッ!」
返り討ちだ、と、言おうとした時、それを読み取った兄は、がっつりと二の腕を握ってきて、凄むように言った。
「その方は大王の子孫だ。大王が奪った人妻との間に産まれた長男の子孫だ。大王の嫡流でこそないが、本来であれば嫡流になっていた家系の娘から生まれた人だ。不思議な業を持っている。彼の行うものは、
「??? 大王って、おいらとアニィの祖先の大王? なんばんめの?」
「四番目。賢王の子孫だよ、お前は。それで、今から来る人は、一番目の息子の子孫なんだ。どちらがこの時代で優れているのか、ぼくには分からない。」
「おいら、アニィの言ってることの方がもっとわからない。」
兄が怯えているのだから、きっと悪い奴なのだろう、という事はなんとなく、もやもやと理解する。
兄は自分にとっての全てだ。兄を怖がらせたり、虐めたりする奴や、
「来た! 隠れて、隠れて、
早く早く、と、兄が這いずりながら暗闇に隠れようとする。奥には石造りが置いていった屑石が累積していたので、とりあえずひびの入った瓶の中に兄を隠した。
「!」
その時背後から、明らかに近づいてくる足音がした。ざっ、ざっ、ざっ、と、その音は近くなる。
「そこに隠れているのは誰だ?」
「ふぎゃあ!」
そして気配も無く、真後ろで声がした。驚いて瓶に頭を突っ込み、瓶が割れる。兄はすぐに自分の頭を探り当て、怪我がないか調べている。ぺたぺたと顔を触られながら振り向くと、池のご利益に与ろうとする病人達がうろうろしているばかりで、こちらを見ている者はいない。敢えているとすれば、目が見えずとも聞こえる乞食が、瓶の割れた音に驚いて怯えているようだったが、恐らく声の主ではない。
「俺の声が聞こえている筈だ。お前は誰だ? 通りに出てきてくれ。お前と話がしたい。」
「お、お、おいらは頭がおかしくなっちゃったのか? 変な声が聞こえる! 怖いよ、アニィ!」
ぴぃっと壊れた瓶の中に器用に入り込み、兄に抱きつく。兄は声も出ないほど怯えて、泣いていた。兄を安心させようと、首を抱いて頭を撫でていると、ふと辺りが暗くなった。
太陽を背負った、物凄い量の体毛で覆われた男が、自分たちを見ていた。
「俺の声を聞いたのは、お前達だな。」
先ほどから耳の後ろから聞こえていた声と寸分違わぬ声に、兄はびくっと震え、顔を覆って背けた。とにかく、この不気味な力で話しかけてくる魔術師と戦わなければ、と、腰を引かせながら立ち上がり、びっと指さして言った。
「だ、だ、だったらなんだってんでェ! おいらは今ァこんな落ちぶれてるが、賢王サマの子孫サマだぞ! おま、お前みたいな魔術師―――こわくなんか、ねえやいっ!」
「へえ、そりゃ奇遇だね。俺も祖先は大王なんだ。生憎と四男でないけどもね。少なくとも、今俺がお前達に呼びかけたのは、魔術じゃないよ。」
「へ、へ、へん! うそついたって、わかるわい!」
「
顔を覆って震えていた兄が、自分を諫めた。兄は指先で瓶の破片を退けながら、男ににじり寄り、食事をするときのように、彼に掌を見せた。
「どうぞお見逃し下さい、大王の子。貴方様がどこからやってこられたのか、この
「…お前は、俺がなんだと思う? 俺が、何者だと思う?」
兄はすぐさま答えた。
「貴方様は王。このイスラエルをローマから解放する指導者であり、大王の子として古代の人々が預言した王であらせられます。このような
「ああ、いい、いい。そんな御託並べなくても、一目見て分かる。」
「お許し下さい。」
兄が何を言いたかったのかは分からなかったが、再び震えそうになっているのに気づき、後ろから兄を抱きしめた。すると男は、下がりかけた兄の両手を握り、立たせた。釣られて自分も立ち上がる。
「お前、面白いこと言うな。俺が王だって? なんでそう思うんだ? 王サマがこんな乞食の掃きだめに来ると思ってるのか?」
「ぼくは生まれつき目が見えません。産まれる前に、目を切られてしまったからです。だから神が憐れんで下さり、ぼくには世界がとても不思議なものに見えます。ぼくはだから、貴方様が王になる器をお持ちであると分かるのです。そのように視えるからです。」
「ふぅん…。つまり、一種の
「何言ってんだこいつ。」
自分が思わずぽろっと言うと、男は笑いながら答えた。
「さて、腹心の弟だ。お前は俺の息子だな、つまり。」
「ふくしんのおとーと?」
「そうだ。俺がお前の主人で、お前は俺の補佐官だ。将来は俺を継いで頭になる。しっかり励んで貰うぞ。」
「おい、見世物小屋にアニィを売るんじゃねえだろうな?」
「
「それ、その言い方。『ぼく』じゃない、『私』だ。子供っぽいだろう。」
むぐ、と、兄は口を噤んだ。男は何を求められたわけでも無いのに、突然語り出した。
「お前の―――
「アニィ、こいつきちが―――むぐ。」
口を塞がれた。男は続けた。
「俺は、母親は人間だが、父親は馬なんだそうだ。」
「だから毛むくじゃらなのか?」
「ハハハッ! そうかも知れねえな! 子供の頃から毛深かったのさ! …で、まあ。この国で父親が分からないこと程辛いことは無い。そういう奴らを集めて、俺がそいつらの父親になる。そうして、イスラエルがはじき出した
言っていることが全く分からなかった。ただ、兄が好かれていて、この乞食生活から抜け出せるということはなんとなく分かった。
「はい、光に包まれた方。目の潰れた者でもお使いになりたいのであれば、慶んで。」
兄はそう言って、男の爪先に口付け、涙で土埃を濡らし、指先で拭った。
「ああ、そういう歯がゆい呼び方は止めてくれ、誤解の元になる。」
「では、神の如き声で心に語りかける方、
「サマはいらん、サマは。敬語もいい。そういう既存の堅苦しい家族像を壊すのが目的だからな。」
「わかり―――わかった、
「まあ、頭領見習いだな。今のところはまだ
「おいらに強盗やらせたら、凄いんだぞ!」
「俺の下にいるからには、相手も選ぶんだぞ。それから『おいら』は止めろ。いい大人がみっともない。『私』だ。」
「かかし?」
「わたし。」
「わらし?」
「わ、た、し。」
「あかし?」
「…当分、『あっし』でいい。そこから慣れろ。」
ついてこい、と言われたので、兄は手を引かれて立ち上がり、自分は二人の背中を追いかけた。
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