第四十節 塔
ローマを焼き焦がした大火から七日。街は混乱の中で、魔術師の一団を探し回っていた。街を燃やした炎は、皇帝の怒りとなって、尚もローマを焼き滅ぼそうとしていた。魔術師の一団として身を潜めるのも潮時か、と、
もう間もなく、火が沈むと言う時だった。人の往来はまだあるものの、もう大分寂しくなってきた頃だった。一人の旅人が、静かに石畳を歩いて、ローマに向かっていた。
「ねえちょっと、
「うるせえな、置いてくぞ。」
「全く、何ということ! わたくしの汗を寝台以外で見る者がいるなんて!」
ズケッと、
「すいやせん。大体な、
ハッと気が付き、
「え、
「待って、待って下せぇ! どちらに行かれるんで―――アニィッ!!!」
すると旅人は答えた。
「私達の仲間が見捨てられるのなら、私はもう一度、彼等の所に行かなくてはならないから。」
「放しなさい。そうすればお前は逃げられる。」
「いいや、もう逃げねえ―――もうどこにも行かねえ!! あっしャ逃げねえっすよ、アニィ、だから、戻って下せえ!!」
「お前の名前を私は知らない。」
「………。」
その時、やっとの事で、
「
「―――
声色が変わった事に、
「あっしャ、
それを聞いて、旅人―――目を開かれた
その途中、また別の旅人が、ローマの方からアッピア街道を下って来た。彼もまた、ローマから下って行く無数の旅人の一人に過ぎなかったが、二人の横を通り過ぎると、パッと振り向いて、声をかけた。
「主よ、何処へ行かれるのですか。」
「ローマへ。」
「神の民がそこにいる。」
そして、誰かが答えた。
「唯の一人も見捨てる訳にはいかない。」
その言葉を聞いて、その旅人は踵を返した。
「怖いなら、逃げて良いんだよ。私は平気だから。」
「いいや、良いんです。
「そうか。なら、あの時お前が私を見ていたように、今度は私がお前を見ていよう。」
「そうしてくれると心強ェなあ。―――ああでも、
しかし
魔術師の一団の一部を捕まえた、という報告が、その日だけで七人、それも七回も別々の『一部』を引き連れて、宮殿にやって来た。
「
「よぉ、
「御託は良い! 今ローマ中が魔術師の一団を探してる!
「そりゃ好都合だ。」
「訳の分かんないこと言ってないで、とっととローマから失せろ! この山賊崩れが、何悟った顔してんだよ!」
「
「何で、何でそんなに死に急ぐんだ! 生き意地汚く生きてみろよ、天下の大山賊だろ、お前らは!」
「
「生きていればどんなことだって出来るんだ! どんなことだってしてもらえる! ―――生きてさえ、いれば…それだけで…。」
ぽろぽろと涙が零れ、
柳和の死体は、火災現場から見つからなかった。というより、それらしい腕の無い黒焦げ死体は多すぎて、特定できなかったのだ。木材の下敷きになったりして、死体が崩れてしまい、両腕の無い死体が量産されていた。あの笑い声と泣き顔と、舞跳ねる炎の馬が、脳裏に焼きついて離れない。
「
「馬鹿野郎! お前がこんな大それた火事なんか起こせるか! いくらぼくだってそれくらい分かる! 馬鹿にしやがって、今日放り込んだ奴らだって、半分以上が無関係だろうさ! でも殺すしかないんだよ、畜生、あいつらローマの市民権がない奴らばかり連れてきやがった! 裁判だってしてもらえない! 皇帝がその気になれば、今晩にも人間松明だッ!」
「そりゃ、苦しいんでぃ?」
「当たり前だろ!? 足元から火を付けられて、煙が先に身体を覆うんだ。爪先の皮膚が膨れて爆発する頃には、お前の口の中は煤で真っ黒けになる。煙に首を絞められて、うんこビチビチのションベンじゃーじゃーになって、苦しんで死ぬんだよ! 窒息だからな! そんでその捻りだしたもんを犬や鼠が食うんだッ!」
「おっかねー。タマが縮こまらぁ。」
「分かったら出てけ、この小悪党!」
「隊長、悪党って聞こえました! こいつですか!」
そこへ、
「違う、その、言葉の綾で―――。」
「この鼻にもみあげ! 間違いない、ユダヤ人だ! 魔術師の一味だ!」
「違う! こいつが仕えていたのは―――。」
「これで五十組目だ! こりゃあ縁起がいい、景気よく縛ってやろう!」
兵士の一人が、『彼』の腕を掴んだ。それを見て、
「耳が斬れたのに、耳があるぞ! 斬れたのがそこにあるのに!」
「魔術だ! 魔術師だ!!」
「てめえも魔術師の仲間だったんだな、全員纏めて縛っちまえ!」
「違う! 俺は皇帝陛下の―――。」
「この裏切り者! 百人隊の面汚し!」
あっという間に、
部屋の中に槍を置き、炎のような黄昏から逃れようと、
「
男の声がした。
「起きなさい、
しかし声はしつこく
「貴方は誰ですか。きっと人ではないのでしょう。」
「人です。私は神と一致した、完成された人間です。」
「よく分かりませんが、この弱虫を嘲笑いに来たなら御引取下さい。でもぼくを裁きに来たのなら、どうかこの首を持って、真なる裁判官の前に今すぐ引っ立ててください。」
「何故そうするのですか。」
「ぼくはもう、何も考えたくない。何もしたくない。何も知りたくない。このまま処刑から逃げ出したい。ぼくが逃げ出すことで他の人がどうなるか、考えるだけの知性もいらない。ぼくは
すると黄色く輝く人物は、
「ここに、三〇枚の銀貨が三本あります。貴方は生涯、神と共に居られる
「貴方の裏切りを、私が買い取りましょう。私はこの世の光を、冥府の闇に引き渡したもの。天におられ、遜った神を、黄泉に引き渡したもの。私の行いを人は裏切りと断じ、その汚名は、我が救い主が救い主で在らせられる限り永劫続く。私が貴方の裏切りを買い取りましょう。そしてその罪が雪がれた事を、貴方は人生の黄昏に、神に愛によって裁かれ、己の罪を知るでしょう。」
「よく分かりませんが、この罪をぼくは誰かの所為にすることなど出来ません。」
「神がそのように望まれるのです。貴方の罪を私に引き渡しなさい。そうするように望まれています。」
その言葉が余りにも麗しくて、
夜になって、今日捕えられた五十組が、燃え落ちた街道に並べられ、一斉に『点火』されると聞いて、
「
「さあ、篝火を焚け! 今日は妻に宿ったボクの子が、妻の中で動いた善き日である! この善き日、ボクはここに、人民の敵をこのローマから誅戮することを宣言しよう! ボクこそが初代より数えて七世代目の、そして初代より数えて五代目のローマ皇帝! 芸術と人民の守護者である!」
「皇帝! 皇帝! 皇帝万歳!!」
「人類の敵を殺せ!」
「人肉を食べる非人からローマを護れ! 生き血を啜る穢多からローマを護れ!」
「皇帝陛下の御世を護れ!」
ああ、こんな民衆を知っている。忌まわしい、あのイスラエルの過越祭の日だった。民衆は見境が無くなって、激しくがなり立て、その熱気は渦巻いて、ツンとした汗の臭いの香を焚いたかのように、天へ昇って行く。あの時のような惨めな気持ちはもう二度と味わうまいと思っていた。否違う、味わわないと思っていた。しかし、それは間違いだった。他ならぬ
「隊長、さあ、火をどうぞ。」
部下の一人が、自分に油の染み込んだ松明を手渡した。ここから先をお願いします、と、言われて押し出されたそこに、そこに立っていた街灯の蝋燭の芯は、
「
芯が尋ねた。
「…何だい。」
「あっちの…あっちの方、あの白い、細い塔みたいなの…あれが上がってる方向には、何の町がある?」
芯はそう言って、南東の夜空を顔でしゃくった。
「エフェソ。あそこにあるのは、エフェソの町だ。」
「…そうかい。」
芯はそう言って、ふう、と、息を吐き出した。嗚呼、もう彼は、殺されるのを唯待っている、否、待ち望んでいるのだ。
燃え盛る炎が呻き、うねり、捩じれて崩れる。
あれこそは信仰の
「ぼくの名前の封印が、意味を成さなくなる時だ。」
一晩中、朝焼けがずっと続いていた。本当の太陽が昇った時、光が当たったからか、いくつかの焼死体は、身体の一部が千切れた。
神の槍を失った事に気付かなかった皇帝が、その証人の若者の性別を超えた美しさに見惚れ、愛を囁くようになる一方、柳和とのやり取りに影響を受け、人間愛を解く書物を著した教師に自害を命じた。以降、暴君として名を轟かし、神の民は次々と処刑されていくことになる。彼が、ローマ帝国初代王朝の落陽を迎えるのは、このローマ大火より、あと四年後の事である。
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