第三十九節 残滓

 おなかがいたい。

 そう言いながら、母がのた打ち回っているのを、物陰から見ていた。母はいつも臭い水を股から垂らしていて、それが自分の小便とは違うものらしいことは分かっていたものの、具体的にどうして違うのか、分かっていなかった。母は股を押さえて脚を引きずりながら、毎夜毎夜神殿に行く。お祈りをするのよ、とは一度も行かなかった。ただ、自分はそこへ行く事を許されていなかった。母は自分が起きても帰っているという保証はなく、昼頃になって、かびたパンや塩気の無い塩を頭にふりかけられて戻って来る事も多かった。それが自分の知っている食べ物で、母から乳を貰った記憶はない。母は、独り暮らしの羊飼いを殺し、洞窟を乗っ取り、隠れ蓑に羊の群れを洞窟の入り口に置いて、日々隠れて自分と暮らした。母は細い自分の身体を抱きしめ、塩を自分の涙で溶かし、パンのかびを齧りとって、自分に食わせた。母は仕事に行く時以外はずっと寝そべっていたけれども、自分は寝る時以外、ずっと立っていなければならなかった。けれども外へ出る事も許されていなかったから、走った事は殆どない。

 それでも母がいれば良かった。立っているといっても、母はその間様々な物語を聞かせてくれる。歌を歌ってくれる。それに合わせて脚を踏み鳴らすと、母はとても喜び、時には感極まって、号泣しながら自分を抱きしめ、神に賛美を叫んだ。そんな時は母の顔を舐めて、脚を母の腰に絡めて眠るのだ。けれども、夕方になるといつもその温もりは無くなっていた。

「止めて、この先には誰もいないわ、羊しかいないわ!」

 それは、自分が初めて、母と羊以外の『声』を聞いた時だった。

「お前が俺達のちんこを食い千切ったんだ、お前も千切って狼に食わせてやる!」

「いいから歩けよ、人目につく場所でヤッたら、俺達の首も千切れるんだよ! 律法も知らねえのか!」

「あたしは神殿娼婦よ、犯られて殺されたってだれも裁かないわ! お願いだから洞窟には入らないで!」

 何か難しい言葉が続いている。声は近くなってくる。羊たちが怯えている。火が近づいて来ている。羊を押し倒し、見た事のない、顔までびっしりと髪の毛が生えた悍ましい生き物が何人もやってきて、自分は悲鳴を呑みこんだ。

「止めて! 手を出さないで!! その子は普通の子じゃないのよ、触ったら貴方たちまで呪われるんだから!」

 ノロワレルって、なんだろう。

「おい、そっちの汚ェ穴は塞いどけ。良く見ろよ、汚れちゃいるが細くてかわいい女だ。」

 何がキタナイんだろう。

 髪の毛の人が自分の髪を掴んで引き倒し、母の下着よりも上等な上着を剥ぎ取った。奴らは自分の裸を見てどよめいた。

「何だこいつ! 身体が腐ってんのか!?」

「いや、違う。良く見ろ、どこも腐ってない。初めから無いんだ、こいつには。」

「なんで無いんだ?」

「創世記に曰く、神は男を自分に似せて作り、女を男から作った。だのにこいつの上半身はちっとも人間じゃねえ。両腕が無ェ人間なんて聞いた事ねえぞ!」

 ソウセイキってなんだろう。

「じゃあなんなんだよ、このガキ!」

「決まってる、悪魔が用意した羊用の穴だよ! あの売女はこいつに、俺達のちんこを腐らす悪魔を貰ってたんだ!」

 バイタってなんだろう。チンコってなんだろう。アクマってなんだろう。

「なら、この悪魔が俺達のちんこを喰ったのか?」

「だから、こいつの穴の中に、俺達の健康なちんこがあるに違いない。」

「誰からじゃあやる?」

「俺からでいい。俺のちんこが一番腐ってる、俺が一番に取り戻す!」

 クサッテルって、なんだろう。


「きゃあああああああああァァァァァッッッ!!!」


 飛び起きて、途端に吐き戻す。同じような洞窟なのに、ここは地獄の穴底だ。ボロボロの縄で腰を縛られ、それを解く手は、産まれる前に神に取り上げられた。

「うえ、げええ、おえええええええぇぇぇええぇッ!!」

 激しく吐き戻して、濃縮された吐瀉物が顔についても、それを拭う指はない。地面に顔を擦りつけて顔を洗うと、ツンと血の腐った臭いがして、ブンブンと虫の集る音がする。虫は血の跡に集っていて、血を食い千切っていた。その血は自分の股から生えて、何か小さな塊を作って、そこで途絶えている。虫は自分の股にも入った。そんな風にして、虫すら見向きもしなくなった残骸の痕が、少なくとも三つはある。

 全て、自分が堕ろされた胎児の成れの果てだ。孕んでも孕んでも、月のものの生臭さを好む輩は喜んで自分を犯し、自分が吐き戻し、泣き叫びながら『産んだ』ばかりの穴に突っ込んで幸悦に笑っていた。小さくても赤ん坊は赤ん坊だ。骨が外れ、死んだ筈の命が、出て行こうとする。そこへ、男共は代わる代わる自分のものを突きこんで、珍しい感触を楽しんでいた。痛くても苦しくても、彼等は鼻で笑って言った。『嫌なら、殴りつけてみろ』と。腰を縛られ、脚を掴まれて股に押し入られ、時には前後で同時に相手にしなければならなかったし、上下で同時に相手にしなければならなかった。骨は折れた所で固まり、いつの頃からか、孕んでも何もしない内に血の塊が出てくるようになった。

 ―――こっち、こっち、こっちだ!! 早く!!

 知らない声だった。また奴らの仲間がやって来たんだろうか。そう言えば、もう大分とパンと水を届けられていない。葡萄酒なんて大層なものは貰えないから、蛆の泳ぐ水を飲み、下して流れたものをもう一度口に入れて、日々を食いつないでいたのだが、その下ったものも、大分スカスカだった。今さっき吐き出した物も、声こそ大きく出たものの、石清水ほどにしか出てこなかった。

 バンッ!!!

「うわああ!?」

「ヒャーッ!」

 ざあああ、と、虫が外へ飛び出して行く。母の掌のような柔らかな空気が、顔を包んだ。

 見た事のない『男』が、三人、こちらを見ていた。その内の一人は、瞳の色がおかしく、どこか見当違いの方を見ている。

「そこに女の子がいるはずだ、彼女が『そう』だ!」

 瞳の色のおかしい男が、もう一人のもじゃもじゃ男に叫ぶ。瞳の色の違う男の足元で、誰か別の男が、げえげえと吐き戻していた。

「―――お前、…よく、生きてたな。」

 もじゃもじゃ男は手に火を持っていて、虫を焼き払い、追い払いながら、自分に近づいてくる。今度はあの燃える棒を咥えなければならないのか、と思うと、流石にゾッとして、激しく首を振った。

「違う、俺達は助けに来た。―――繋がれてるってのは、こいつか。」

 男は燃える棒を地面に置き、自分の身体に巻きついた縄だけに触れて、縄を外した。縄が擦れていた場所が、一気に熱を持ったように熱くなる。けれど、立ち上がる事が出来なかった。度重なる堕胎と、幼少期からの継続した強姦で、自分の下半身はすっかり壊れてしまっていたのだ。

「大丈夫、ここから逃がしてやる。…名前は言えるか? 言葉、分かる?」

「―――けほっ、けほけほっ、がはっ。」

 答えようとして、激しく咳き込んだ。それを見て、もじゃもじゃ男はひんやりと冷気が零れてくるものを自分の前に宛がった。水筒だ。くれるのだろうか。

「飲め。酢入りの水だけど、生水じゃねえから少しは飲めるはずだ。」

 最後まで待たず、水筒にむしゃぶりついた。もじゃもじゃ男から唇の力だけで水筒を奪い取り、一気に喉を反らして飲み込む。水筒の中身は口から零れたが、構わない。早く飲んでしまわないと、奴の気が変わってしまうかもしれない。

「立てる―――わけ、ねえか。おい天眼てんがん、こっちまで入ってこれるか。」

 瞳の色の違う男は、まだ吐き戻している足元の男を跨いで、ゆっくりとこちらに歩いてくる。

「脚萎えだ。多分、ここで虐待されてて萎えたんだと思う。お前の歌で癒せる筈だ。」

「そんな…。私には、そんなことできない…。この子を、今更になって視たっていうのに。」

「今更でも明日よりゃマシだ。いいから触れてみろ、それで全て分かる筈だ―――神と共に居られる女傑の子バルサライ・インマヌエル。」

 なんだか長い名前で呼ばれた男は、明るいのに暗い中を進む様にして、自分を探し当てると、脚に触れた。膝に力が入らず、蹴り飛ばせない。自分より弱い『男』を、初めて見たからかもしれない。彼は自分の脚をぺたぺたと触り、脚の付け根に触れた途端、びくんとして手を引っ込め、泣き出した。

「ああ、あああ…こんな、こんな、酷い…。」

「しっかりしろ! この子を歩かせられるのはお前だけだ!」

「いやだ、無理だ、出来ない、出来ない! 私は男だ、彼女に触れる資格なんかない!!」

 泣きながら震える男の肩を抱き、もじゃもじゃ男は、たった今自分から離れた指先に自分の手を重ね、元気づけるように言った。

「俺の言葉を繰り返せ。お前の悲しみがこの子を救う。―――アーズ・ヴェダレーグ・カーアッヤール・ピッセーアッハ。」

「うう、う…。あ、アーズ、ベダレー、グ…。カー、ヤール…ピ、セーア、ッハー。」

 その不思議な呪文を、二人は繰り返した。瞳の色の違う男は段々と滑らかにその呪文を言えるようになり、二人でその言葉を重ねて繰り返した。

「―――お言葉通りになりますようにアーメン。」

 ぽろん、と、唾液が零れるように、口からそんな言葉が零れた途端、カキン、と、音がして、自分の身体に異変が起こった。身体が恐ろしく軽い。おずおずと脚に力を入れると、よろり、と、立ち上がる。自分に起こった奇跡が信じられない。しかしそれは瞳の色が違う男もそのようで、自分に向かって拝むように突っ伏していた。

「ああ、神よ、神よ…!」

「お嬢ちゃん、一緒においで。よく生きたな。もう大丈夫だ。今から俺がお前の父親だ。」

 チチオヤってなんだろう。

 きょとんとして、もじゃもじゃ男の顔を見つめる。それでも歩くのを躊躇っていると、チチオヤと名乗った男は、自分をひょいと横抱きにした。脚の裏と尻と背中が浮いていて、物凄い恐怖がある。だって自分には、彼が気紛れに腕を放り出しても、その腕に掴まる為の腕が無いのだ。

「お前さん、外で見ると随分と綺麗な顔してるな。」

 月明かりに照らされた自分を見て、彼は言った。

「その髪も、手入れをすれば上物の筈だ。おい丁稚でっち、先にねぐらに帰って、女共に湯浴みの支度をさせてこい。そんなにゲーゲー吐いて、金貨袋を汚すなよ。」

「へいぃぃ…。」

 結局あのゲロ男は何をしに来たんだろう。産まれて初めて乗る馬は、けれどもチチオヤが背中でしっかりと抱きとめていてくれたので、全く怖くなかった。

 ねぐらに変えると、母とは全く違う服を着た、沢山の母に何となく似ている者達がわらわらとやってきて、あっという間に自分をチチオヤから連れ去った。怖い怖いと泣いていると、チチオヤがやってきて、ずっと爪先を握ってあやしてくれていた。

「はい、頭領、出来ましたよ!」

「罪作りな方ですね、こんなに可愛い子にこんなに懐かれて!」

「トウ…、…?。」

 少し長いが、それがチチオヤのちゃんとした名前らしい。

「うん、やっぱり思った通りだ! 素晴らしく美しいよ、こっちに来てみ。」

 腰を抱かれてゆっくりと歩いて行くと、黒い石に水が湛えられている場所に連れてこられた。先程自分をもみくちゃにしていた者達が、そこからかめに水を汲んでいる。

 水面は星と月と、そして一つ、とても綺麗なものを映していた。

「………?」

「それがお前だよ。―――そうだ、お前は俺の子なんだから、名前を付けなくちゃな。綺麗になったお前を見て、すぐに思いついたよ。」

 ナマエってなんだろう。

「やなぎわ。お前は柳和やなぎわだ。その綺麗な顔で笑って御覧。父なる神のもたらす平和がこの場に溢れるだろう。その美しい髪は、柳が風に揺れるよりも美しく、天に流れる乳の川とは別の乳の川が出来る筈だ。」

「…ぼ、ぼく。お、おど、る。オトウ…さま」

 その言葉に、トウリョウはぱちくりと目を瞬かせた。しかし直ぐに合点がいったような顔をして、自分の頭を撫でた。

「そうか。じゃあ、お前は俺の次男だな。」

「うん、うん。」

「よっしゃ! おい女達! 盛大に宴を開くぞ、今日は次男の誕生日だ!」

 ヒャッホー! と、その言葉を聞いて、あのゲロ男が奥から走ってくる。その勢いがあまりにも早くて、トウリョウの背中に隠れた。

「頭領、頭領! じなんってのは、なんばんめでぃ?」

「にばんめ。お前の次。」

「じゃあ、弟だ!」

「そうだな。」

「ヒャッホー! あっしもアニィになった! アニィとお揃いだ! アニィ呼んで来やす!」

 そう言って、あまり賢くなさそうなゲロ男はドタドタと走って行った。

「?」

「あれは丁稚でっち。お前の兄貴分だ。」

「………め。」

「あん?」

「め、へん。…だれ。」

 それを聞いて、すぐにトウリョウはピンと来たようだ。

「一緒に唱えた奴だな? あいつは天眼てんがん。さっきの丁稚でっちの兄さまだ。俺の息子なら、叔父さまとも言えるかな。それとも母さまかもしれん。」

「オジサマ。」

 その時の感動を、自分は表現する方法が分からなかった。ただ、自分の気持ちの赴くままに、脚を踏み鳴らした。

 それが、踊り子『柳和やなぎわ』の産まれた瞬間だった。この時から、柳和やなぎわは頭領の息子として、新しく産まれ直したのだ。


 嗚呼、我がディーヴィス神と共に居られる命の子バルハヴァ・インマヌエル神と共に居られる女傑の子バルサライ・インマヌエル

 何故彼を見捨てたのですか。何故遠く離れた所へ逝き、彼を助けず、彼の呪いの叫びを聞かれないのですか。

 我が主よ、私が昼懺悔しても、貴方は答えられず、夜泣き腫らしても慰めを得ません。

 しかし、てて無し子の父祖の末裔を束ね、愛しておられた貴方は、聖なる救世主マーシーアッハです。

 ねぐらの仲間たちは、貴方方を愛しました。貴方方が愛したので、私達は貴方方に助けられました。

 しかし今私はローマの犬であって、イスラエル人ではない。イスラエル人を虐げ、民を裁く。

 おお、我が太陽神ミトラたる父、我が導きの星マリス・ステラたる母よ、何故遠くに逝かれたのですか。

 

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