第三十八節 燎原の火
ローマの夏は、昼は熱く、夜は寒い。日は長く、皇帝が寝所に入る頃はまだ明るく、夜になると初めから月が傾いている。
皇帝の最愛の妻である皇妃が懐妊したという知らせが初夏、ローマを駆け巡った。芸術を愛する皇帝は、この喜びをナポリの劇場で詩にして歌った。
ところが、ナポリでこそ渋々踊っていた
「
その日は、旅の疲れを癒す為、皇帝は皇妃をローマの宮殿に置いて、自分はアンティウムの別荘に、ほんのお気に入りを連れてやってきていた。
世界が暗くなって、星が見え始めた頃、
「
「何だ
顔を上げてちらりとこちらに向けられた眼が腫れている。泣いていたらしい。
「どうしたんですか? どこか痛いところとか…。」
「うるさい。皇帝には踊りの用事なら突き返して来い。」
「いや、なんか、皇帝は歌を聞いてほしいらしくて…。皇妃様は今夜、悪阻が酷いらしいから。」
「それ、本当に悪阻か?」
「うーん…。」
「
「はい。」
「皇妃はこれから先、幸せなんだろうか? 母親っていうのは、本来幸せになれるもんだろうか?」
「………。でも、産んだ子供が必ずしも、善い息子、善い娘になるとは限りません。」
頭を捻り、そう結論を言うと、
「一人で行ける。ついて来るな。」
それは、
「
「皇帝陛下、ぼくは眠いんです。酌なら相応の奴隷を呼んでください。」
「つれないな。ナポリから帰ってから、尚の事冷たい。否、その前からだ。皇妃が身籠ったあたりからだ。」
「………。」
「美しい
「―――ッ!!!」
「ほら、本当はこうやって強引に迫られるのが好きなんだろう。君は今こうしている間にも、ボクの手を払い除けようとしない! 嗚呼この数年間、君をどうやったら籠絡できるか考えていたよ。君はとても自由な鳥のように飛び立ってしまうから。でもその実、こんな風に手折られるのを待っている花だったとはね!」
「離せ! 離せこの野郎!! ぼくに触るな!!」
「そら、嫌ならボクを殴りつけて御覧。お前が本当に嫌なら、ボクのこの紅顔すら血で汚して見せるだろう! 芸術の女神が下さったこの頬を、唇を、喉を壊して、逃げ果せてみるがいい!」
すると
「ボー・ウーリーエール、ボー・ウーリーエール…。」
「なんだいそれは? …ああ、ユダヤ人達の真似かい? 嗚呼駄目だよ、
「死ね、クソ野郎!!!」
ビッ!
皇帝の手が、
「
「とっとと離れろ!! ぼくはお
「―――ローマ皇帝であるボクのものでないものなど、在ってはならないんだよ、
嫌悪と恐怖が綯交ぜになった視線を寄越すものの、拘束していない筈の両手は、決して皇帝を拒まない。もっと追い詰めてみたら、踊りの際にも食事の際にも見られない
「離せ畜生! クソ皇帝! ローマなんかソドムの再演になっちまえ!!」
とうとう
―――
「?
扉を開けて廊下を見たが、番兵以外誰もいない。夢でも見たのか、と、
―――ああ、我が子よ、我が娘よ。
『彼』は、窓が形作る月の部屋の中で
―――我が子、
俺がお前の代わりに、皇帝に差し出されれば良かった。
不出来な父を赦してくれ。お前を男としてすら、生かせてやれなかった。―――
ハッと気が付いた時、誰も部屋には居なかった。だが言いようのない確信と、地獄の底から炎が延焼してくるかのような震えが全身を襲う。
「
走る、走る、走る。
嘘だろう、という理性と、嘘なもんか、という本能がせめぎ合う。しかし
美しい物を愛でたい。美しい物を守りたい。美しい物を、美しいままでいさせたい。その為に、自分の持てるものを費やしたい。
その思いは皇帝とて同じ筈だ。そう、
「ご無礼、皇帝陛下!
挨拶もそこそこに、
「皇帝陛下!
「かれ…?」
皇帝はきらきらとした瞳で
「やなぎわ! ああ、そうだ、あの人が
「うわわわ! 押さないでください、行きます、行きますから!!」
きゃあはははは、きゃあはははは、と、皇帝があまりにも玩具を与えられた童女のように謳うものだから、
「
何処へ行ったのか、分からない。皇帝の言ったローマとは、首都のことであろうが、そこまではあまりに遠い。
ボー・ウーリーエール、ボー・ウーリーエール………。
呪う言葉を、生暖かい風が届けてくる。こっちだこっちだ、ぼくはここにいる。早く見つけ出して、早くぼくを見つけてと、
「
人々の悲鳴は管弦の音のように響き、入り乱れた人混みの上を馬で走る事は出来ず、馬を乗り捨てて炎の先へ向かった。小さな体で人混みに押し返されそうになっても、槍を垂直に持って、切り開くように前へ進んだ。
都心の大競技場近くの商店街、そこが火元らしい。きっとこの近くに、
ディーエス・イ ディーエス ディーエス・イーィーィーラ………。
ディーエス・イ ディーエス ディーエス・イーィーィーラ………。
その声は大勢の歌声であるのに、
ジャン、ジャン、ジャン、ジャン、と、銅鑼のような楽器のような、太鼓のような音がする。その音は楽器の音であるのに、踏み鳴らす脚のようでもあった。風が
「燃えろ、燃えろ、燃えろ! あっはははははは!!!
「
「ああなんてことだ!! この滅びの日にお前が来たか、
「落ち着いてください、
その時、空に向かって笑っていた
その身体は―――一言で言えば、『壺』だった。『口』があり、その下は縊れている。その肩の部分は滑らかで、急な円弧を描いて、『底』に繋がって行く。しかしその身体が壺ではないところは、その『底』が、二股で、美しい人間の脚なのだ。
ああそうだ、そうだったはずだ。十年以上前に出会った時から違和感はあったのだ。だがその違和感は全て、
嗚呼、当たり前だ。彼は女で、そしてそれは目の前の股から突起物が無い事からわかる。彼の鍛えられた腹筋の上に、申し訳程度についている乳房からわかる。そして、服を着ていないから分かる。
「見ろ、見ろ、見ろ! この悍ましい雌の身体を見ろ!! 産まれてこの方、逆らう腕を持たず、逃げる脚は遅く、テメェのモツの
狂ったような
確かに
―――
男の声が響いた。その声は、聞き覚えがある。
―――
激しく激しく、自分が男に生まれた事を責めたてられる。
光の歌い手達が忍びより、唸って歌う。
「大王の子、預言の王、諸王の王たる
地獄の炎の中に、懐かしい顔は無く、天啓も無かった。
母の無念は晴れていないのだと言い聞かせながら、炎から子供を庇って死ぬローマ人の母親の焼死体を見つめていた。
犯された女達の叫びがこの合唱なのだと言い聞かせながら、母を犯して
御免なさい、御免なさい、御免なさい。
だけども嗚呼貴方は、誰からの謝罪も贖罪もいらないのでしょう。
それは、七月十九日から二十六日までの六日七晩。第五代ローマ皇帝の治世十年の節目の年だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます