第三十八節 燎原の火

 ローマの夏は、昼は熱く、夜は寒い。日は長く、皇帝が寝所に入る頃はまだ明るく、夜になると初めから月が傾いている。

 皇帝の最愛の妻である皇妃が懐妊したという知らせが初夏、ローマを駆け巡った。芸術を愛する皇帝は、この喜びをナポリの劇場で詩にして歌った。柳和やなぎわ神槍しんそうはそれについて行かされたのだが、その出来栄えについてはあまり言及したくない所である。ローマに戻ると、皇妃の腹は少し膨れているように思えた。皇帝は皇妃を溺愛していたので、皇妃の身体の負担になる事は絶対にしなかったし、皇妃と胎の子の為になると聞けば、東ローマの先の最果てからでも取り寄せさせた。娯楽と笑いが一番の栄養だと聞いたので、皇帝は柳和やなぎわに毎晩踊るように求めた。

 ところが、ナポリでこそ渋々踊っていた柳和やなぎわも、ローマに戻ってから全く踊らなくなった。脚を傷めた訳ではなく、寧ろ部屋では、一人で鼻歌を歌いながら、月に踊りを奉納しているようだった。皇帝は命令をしたり脅迫をしたり泣きついたり、様々な方法で柳和やなぎわに踊るように言ったが、柳和やなぎわは決して踊らなかった。神槍しんそうは本当に首が飛ぶのではないか、と、不安で不安で堪らなかったが、柳和やなぎわは素知らぬ顔で、皇帝の命令を聞かなかった。一度、本当にこの槍がまた親しい者を殺すのではないか、と、不安になった事があったが、柳和やなぎわは自分が生き残る事には強かだったので、その時は皇帝の音痴の歌を一晩聞き続けるだけで済んだ。但し次があるとしたら、神槍しんそう柳和やなぎわが躍る気にならない楽団の誰かを、芸術家の資格なしとして突き殺したいところである。

柳和やなぎわさん、柳和やなぎわさん。皇帝陛下がお部屋にお呼びですよ。」

 その日は、旅の疲れを癒す為、皇帝は皇妃をローマの宮殿に置いて、自分はアンティウムの別荘に、ほんのお気に入りを連れてやってきていた。

 世界が暗くなって、星が見え始めた頃、神槍しんそう柳和やなぎわの部屋の扉を叩いた。返事が無い。眠っているのか、と、神槍しんそうはもう一度声をかけて、そっと扉を開ける。柳和やなぎわは寝台に寝そべり、震えていた。

柳和やなぎわさ―――。」

「何だ神槍しんそう、ぼくは入っていいなんて言ってないぞ。」

 顔を上げてちらりとこちらに向けられた眼が腫れている。泣いていたらしい。

「どうしたんですか? どこか痛いところとか…。」

「うるさい。皇帝には踊りの用事なら突き返して来い。」

「いや、なんか、皇帝は歌を聞いてほしいらしくて…。皇妃様は今夜、悪阻が酷いらしいから。」

「それ、本当に悪阻か?」

「うーん…。」

 神槍しんそうは大いに言葉を濁した。柳和やなぎわはその様子に少し機嫌を良くしたのか、寝台から降りて身体を反らした。ずっと同じ姿勢だったのか、ぱき、と、骨が鳴る。

神槍しんそう。」

「はい。」

「皇妃はこれから先、幸せなんだろうか? 母親っていうのは、本来幸せになれるもんだろうか?」

「………。でも、産んだ子供が必ずしも、善い息子、善い娘になるとは限りません。」

 頭を捻り、そう結論を言うと、柳和やなぎわは生返事を返し、神槍しんそうの隣を抜けて部屋を出て行った。

「一人で行ける。ついて来るな。」

 柳和やなぎわはそう吐き捨てると、何時もより小さく見えるような背中で歩いて行った。

 それは、神槍しんそう柳和やなぎわを人間として見た最後の姿だった。


 柳和やなぎわが皇帝の部屋まで歩いて来ると、すぐに皇帝が扉を開けた。番兵に下がるように言うと、彼等は心底ほっとした顔をして、さっさとその場から立ち去って行った。皇帝は柳和やなぎわを迎え入れると、椅子に座らせ、自分もその隣に座ると、果物を食べさせようとした。柳和やなぎわが顔を背けて拒否すると、皇帝は愉快そうに齧った。

柳和やなぎわ、君はボクを拒絶する言葉は強いけど、そんなに抵抗しないよね。」

「皇帝陛下、ぼくは眠いんです。酌なら相応の奴隷を呼んでください。」

「つれないな。ナポリから帰ってから、尚の事冷たい。否、その前からだ。皇妃が身籠ったあたりからだ。」

「………。」

 柳和やなぎわが睨みつけると、皇帝は口の中で咀嚼した果物を、柳和やなぎわに口移しで食べさせようとした。柳和やなぎわが顔を背け、椅子から立ち上がろうとするので、頭を掴んで押さえつける。柳和やなぎわは唇を硬く引き結び、いやいやと頭を振ったが、皇帝が唇を噛むと、驚いて口を開いてしまった。皇帝の太い舌と甘く柔らかに崩れた果物が、柳和やなぎわの口いっぱいに広がり、嫌悪感で全身が泡立つ。柳和やなぎわが皇帝の股間目がけて思い切り蹴りを繰り出そうとしたところで、皇帝はその足首を掴み、椅子から引きずり降ろし、床に押さえつけた。柳和やなぎわは身体を折り曲げて頭を守ったが、その所為で皇帝の胸に頭を擦り付けるような形になる。もう片方の脚を膝で押しつけられ、縦に大きく開脚させられると、奴隷女達がしっかりと締めてくれている下着と、風を縫う糸のように衣を閃かせて踊る為の健脚が、月に照らされる。柳和やなぎわは夕日に照らされたかのように真赤になって、皇帝に頭突きをしたが、皇帝は寧ろその頭を又も捕え、深く口づけた。息を吸い尽くされ、脚に力が入らない。運命の糸が唇の間を伝い、細くなって切れる。

「美しい柳和やなぎわ。皇妃が妊娠してから、皇妃を羨ましそうに見ていたことは知っていたよ。君も女に生まれていれば、ボクの子が産めたろうに、ああ、運命も芸術も、君を踊り子としてしか生かそうとはしてくれないのだね。」

「―――ッ!!!」

 柳和やなぎわは一気に息を吸い込み、腹に力を籠め、皇帝の喉仏を打突した。頭突きなんてものではない。喉仏を砕くかのような、途轍とてつもない勢いだった。だがこれが不味かった。自分の美声が失われると思った皇帝は、爪を立てて柳和やなぎわの頬を殴り、そのまま見せつけるように服に手をかける。

「ほら、本当はこうやって強引に迫られるのが好きなんだろう。君は今こうしている間にも、ボクの手を払い除けようとしない! 嗚呼この数年間、君をどうやったら籠絡できるか考えていたよ。君はとても自由な鳥のように飛び立ってしまうから。でもその実、こんな風に手折られるのを待っている花だったとはね!」

「離せ! 離せこの野郎!! ぼくに触るな!!」

「そら、嫌ならボクを殴りつけて御覧。お前が本当に嫌なら、ボクのこの紅顔すら血で汚して見せるだろう! 芸術の女神が下さったこの頬を、唇を、喉を壊して、逃げ果せてみるがいい!」

 すると柳和やなぎわは、震える唇で言霊を唱え始めた。

「ボー・ウーリーエール、ボー・ウーリーエール…。」

「なんだいそれは? …ああ、ユダヤ人達の真似かい? 嗚呼駄目だよ、柳和やなぎわ。君はあんな社会性と文明と理性の無い野蛮な豚に成り下がっては。ほら、服を脱がせてしまうよ、ボクの手を掴んで、引き剥がして御覧!」

「死ね、クソ野郎!!!」

 ビッ!

 皇帝の手が、柳和やなぎわの何重にも重ねられた薄絹の縫い目を、一気に引きちぎる。その下の素肌は白く柔らかそうに月夜に浮かび上がり、柔らかな輪郭が露になる。柳和やなぎわが決して見せなかった肌が露になって行くことに皇帝は興奮しながらも、違和感を覚えた。柳和やなぎわは涙を滲ませながら、射殺さんばかりに睨み、耳を壊すように罵詈汚言を繰り返しているが―――一度たりとも、皇帝の手を掴んで抵抗しないのだ。これだけ暴れて、叫ぶことが出来るのだ。生娘のように怯えている訳ではあるまいに、やはり無理矢理迫られ、千切るように契りを交わすのが好きなのか。皇帝はそう判断し、軽蔑と期待の籠った視線で柳和やなぎわの左足の上に座り、右足を肩に掛けて限界まで開かせる。柔らかな柳和やなぎわの身体は、あっという間に膝が自身の胸に食い込んだ。苦しいのか、罵声の勢いが衰える。

柳和やなぎわ、怖いのかい? やっぱり優しくシようか。」

「とっとと離れろ!! ぼくはお頭様とうさまのものだ!!!」

「―――ローマ皇帝であるボクのものでないものなど、在ってはならないんだよ、柳和やなぎわ。さあ、その可愛い唇でもう一度言って御覧。ボクのものでないのなら、今君は誰のものでもないんだよ。」

 嫌悪と恐怖が綯交ぜになった視線を寄越すものの、拘束していない筈の両手は、決して皇帝を拒まない。もっと追い詰めてみたら、踊りの際にも食事の際にも見られない柳和やなぎわの、柳かひまわりの花弁のような指先が見られるのだろうか。ずっと陽の光に当てないのだから、きっと素晴らしく白くて透明だろう。月の夜でなければ、太陽の下では溶けて消えてしまうかもしれないくらいに、きっと儚いに違いない。

「離せ畜生! クソ皇帝! ローマなんかソドムの再演になっちまえ!!」

 とうとう柳和やなぎわから、皇帝を満足させる言葉は出てこなかった。皇帝は無言のまま、服を両手で引き裂き、裾をたくしあげて割り入った。


 ―――柳和やなぎわ柳和やなぎわ

 神槍しんそう柳和やなぎわの部屋の椅子で、船を漕いでいた。ぼんやりと、誰かが入ってくる音と、誰かの声がして、頭を上げる。しかし部屋には誰もいなかった。

「? 柳和やなぎわさん?」

 扉を開けて廊下を見たが、番兵以外誰もいない。夢でも見たのか、と、神槍しんそうが部屋の中に戻った時―――窓辺に、誰かが居た。否違う、この世に既にいない筈の者がいた。

 ―――ああ、我が子よ、我が娘よ。

 『彼』は、窓が形作る月の部屋の中でうずくまり、窓の渕に縋るように両手を置いて泣いている。

 ―――我が子、柳和やなぎわよ。

  俺がお前の代わりに、皇帝に差し出されれば良かった。

柳和やなぎわ、俺の娘。ああ、俺の娘、柳和やなぎわ

不出来な父を赦してくれ。お前を男としてすら、生かせてやれなかった。―――

 ハッと気が付いた時、誰も部屋には居なかった。だが言いようのない確信と、地獄の底から炎が延焼してくるかのような震えが全身を襲う。

 柳和やなぎわが皇帝に犯されている。あの性別を超越した存在に、性別を獣欲の枷と考えないローマ人が不貞を働いている。彼は身重の妻が居るのに!

柳和やなぎわさん!!」

 走る、走る、走る。

 嘘だろう、という理性と、嘘なもんか、という本能がせめぎ合う。しかし柳和やなぎわであれば、例え相手が男を好もうと、女を好もうと、その真意に寄らずして、誘惑してしまう、そんな確信があった。しかしそれは、神聖なものに支配される弱者としての追従の恍惚をもたらすものであり、決して触れて良い類ではない。

 美しい物を愛でたい。美しい物を守りたい。美しい物を、美しいままでいさせたい。その為に、自分の持てるものを費やしたい。

 その思いは皇帝とて同じ筈だ。そう、柳和やなぎわは性を持たない、せいなるもの。その不可侵性を保とうと、誰もが思う筈だ。―――そう、の者が、凌辱の苦しみを知っているのなら、皇太后に望まない性を押し付けられたと噂された皇帝ならば、出来ない筈なのだ。

「ご無礼、皇帝陛下! 柳和やなぎわさん! 柳和やなぎわさん!!」

 挨拶もそこそこに、神槍しんそうは皇帝の部屋に飛び込んだ。椅子、机、窓、扉、どこにもいない。部屋の中の扉をもう一度開ける。椅子、机、窓、扉、やはりいない。更に扉を開ける。椅子、机、窓、絨毯、布―――蝶が羽を毟られたかのような、ひまわりで花占いをしたかのような惨状が広がっている。その中心で、妖精に化かされたかのように、酷く幼い顔をした皇帝が、上機嫌で何かを吟じていた。

「皇帝陛下! 柳和やなぎわ様をお呼びだった筈です、彼は、彼はどこですか!」

「かれ…?」

 皇帝はきらきらとした瞳で神槍しんそうの瞳を覗き込んだ。月の女神に魅入られたかのように、皇帝は目を見開き、その瞳の夜の中にもう一つ月を抱いて、口を横に開いて笑う。

「やなぎわ! ああ、そうだ、あの人が柳和やなぎわだ! かわいいかわいい、ボクの踊り子。あの人は正しく恋の女神の放った一矢、肉欲のひとやに哀れな虜を繋ぐ鎖! ああ、なんてことだ、あんな奇跡が、ボクの治めた国に埋もれていたなんて! 神槍しんそう、あの人は宮殿から去って行ったよ。翼を持った美しい馬に乗って、そらそこの窓から出て行ったんだ! だから神槍しんそう、お前も―――窓から飛び降りて、捕まえて来るんだ!!」

「うわわわ! 押さないでください、行きます、行きますから!!」

 きゃあはははは、きゃあはははは、と、皇帝があまりにも玩具を与えられた童女のように謳うものだから、神槍しんそうは恐ろしくなって、皇帝が突き落とす前に窓から飛び降りた。宮殿の庭には芝生が植えられていたが、すぐ傍が石畳だ。おまけに下には番兵の槍もある。そぉいと窓の渕を蹴ると、柴の木の中に飛び込むことが出来た。すわ賊か、と、番兵たちが槍を突きだそうとするので、自分の被っていた百人隊長の兜を取りあえず放り出す。どういう状況かは分からないが、とにかく何か緊急事態で、柴の木の中に百人隊長がいるということは理解してくれたらしい。槍で柴の木の枝を切り払い、神槍しんそうは宮殿を飛び出した。

柳和やなぎわさん! 柳和やなぎわさーん!!」

 何処へ行ったのか、分からない。皇帝の言ったローマとは、首都のことであろうが、そこまではあまりに遠い。神槍しんそうは近くの商人の家に飛び込み、自分の鎧を脱ぎ捨て、一番の駿馬を譲ってもらい、鞭の代わりに槍の柄で馬の尻を叩いて走った。


 ボー・ウーリーエール、ボー・ウーリーエール………。

 来たれボー神の炎よウーリーエール

 呪う言葉を、生暖かい風が届けてくる。こっちだこっちだ、ぼくはここにいる。早く見つけ出して、早くぼくを見つけてと、柳和やなぎわが祈っているようですらあった。夜はまだ明けぬというのに、街に明かりが灯っている。否違う、街が燃えている。その炎は高々と火柱となって燃え上がり、星々を黒く焦がして吸い込まれ、うねっている。良く見るとその巨大な火花は、翼の生えた真赤な馬のようなものが、飛び跳ねているようにも見えた。

柳和やなぎわさん! 柳和やなぎわさーん!!」

 人々の悲鳴は管弦の音のように響き、入り乱れた人混みの上を馬で走る事は出来ず、馬を乗り捨てて炎の先へ向かった。小さな体で人混みに押し返されそうになっても、槍を垂直に持って、切り開くように前へ進んだ。

 都心の大競技場近くの商店街、そこが火元らしい。きっとこの近くに、柳和やなぎわもいる。そう思って近づいた時、歌が聞こえてきた。


 ディーエス・イ ディーエス ディーエス・イーィーィーラ………。

 ディーエス・イ ディーエス ディーエス・イーィーィーラ………。


 その声は大勢の歌声であるのに、柳和やなぎわの声でもあった。その言葉は、少し聞きなれない気もするものの、ヘブライ語でもアラム語でもなく、神槍しんそうの慣れ親しんだラテン語に近い。だが、その音楽は聞いたことが無かった。否、どんな楽器なのかすら想像がつかない。

 ジャン、ジャン、ジャン、ジャン、と、銅鑼のような楽器のような、太鼓のような音がする。その音は楽器の音であるのに、踏み鳴らす脚のようでもあった。風がしなって、炎に削られ、悲鳴のようなキンキンとした音が響いている。間違いなくここには、炎の燃え上がる轟々とした音の他に、何か、恐ろしいまでに豊かな音楽が轟いていた。

「燃えろ、燃えろ、燃えろ! あっはははははは!!! 来たれボー神の炎よウーリーエール! 来たれボー神の炎よウーリーエール!! ソドムの火よ!! ゴモラの炎よ!! 赦されざるこの大悪を滅ぼし塩の柱にしてしまえ!!!」

柳和やなぎわさん!」

 柳和やなぎわは燃え上がる炎を足場にして、踊っていた。否違う、柳和やなぎわが躍ると、音楽が響くのだ。だがその姿が常とは違うのは、今│柳和やなぎわは、衣服を何も、下着すら着けておらず、その長い髪が衣服のようにばらけて身体に纏わりついていた。炎熱地獄と言って差し支えないこの場に、柳和やなぎわは素肌を晒して、どこも火傷は負っていないのに、その健脚の間からは、夥しい量の血が流れ出ている。

「ああなんてことだ!! この滅びの日にお前が来たか、神槍しんそう! 我らが父祖の子孫よ、そして憎きローマの血族よ! さあ来るがいい、お前もぼくを犯したいんだろう、あっはははははは!!! 悪いが前の穴の処女は二十年以上前に、そして後ろの穴の処女はほんの二十分前に食い破られたんだ。だけど仕方ないだろう? 初物は王様が貰うと、昔ッから決まってるのさ!! まあ、前の穴の処女は誰が喰ったか、覚えていないんだけどねェ!!! あはははははは!!!」

「落ち着いてください、柳和やなぎわさん! この、この悍ましい奇跡を、業を行っているのは貴方でしょう! 今のローマを燃やさないでください! 皇帝の身の振り方を知らない無邪気な民が、今大勢泣き叫んで逃げ惑っています! お願いします、怒りを鎮めてください!!」

 その時、空に向かって笑っていた柳和やなぎわの声がぴたりと止まった。それが尚のこと不気味で、神槍しんそうはちびりそうになるが、どうにか槍を支えにして立つ。柳和やなぎわは火の粉の階段をゆっくりと降りながら、近づいて来て、神槍しんそうの胸の辺りまで降りて来ると―――片足を神槍しんそうの頭に乗せ、自分の股を大きく広げて見せる。とてもじゃないが、至近距離過ぎて、目を反らせなかった。否、自分はどうしようもなく男でしかなく、そのようにしたかったのかもしれない。神槍しんそうは頬に涙のように伝ってくる血を受けながら、それを拭わないように震えながら、止めろ、自分を―――と、言おうとしたが、その前に柳和やなぎわが畳み掛けて来た。炎が柳和やなぎわの足元まであった髪の毛を一気に吹きあげ、その裸体が露になる。

 その身体は―――一言で言えば、『壺』だった。『口』があり、その下は縊れている。その肩の部分は滑らかで、急な円弧を描いて、『底』に繋がって行く。しかしその身体が壺ではないところは、その『底』が、二股で、美しい人間の脚なのだ。

 ああそうだ、そうだったはずだ。十年以上前に出会った時から違和感はあったのだ。だがその違和感は全て、柳和やなぎわと言う美しく崇高な存在への憧れによって払拭されてしまっていた。神槍しんそうは、自分以外の誰も、『彼』を「彼」と呼んだところを見たことが無い。『彼』はいつでも、鼻先や舌で信愛を表し、足先で物を引き寄せて、ひょいと蹴り上げて口に咥える。食事の時には、『彼』の信奉者が、食事を手伝っていた。だから、そう、神槍しんそうは、『彼』が、手を使ったところを、見たことが無い。

 嗚呼、当たり前だ。彼は女で、そしてそれは目の前の股から突起物が無い事からわかる。彼の鍛えられた腹筋の上に、申し訳程度についている乳房からわかる。そして、服を着ていないから分かる。

 柳和やなぎわには、両腕が無かった。

「見ろ、見ろ、見ろ! この悍ましい雌の身体を見ろ!! 産まれてこの方、逆らう腕を持たず、逃げる脚は遅く、テメェのモツのいぼ掃除の為だけに使われてきた畜生の穴を見ろ!! ただれているのが分かるか? この硫黄のような膿が分かるか!? 食い破られてもわたしには何も言えない。両腕を持たない人間なんて、この世にいる筈が無い!! らいの谷の住人ですら、動かなくなった腕を持っているのに、わたしは持ってない!! 生まれつき持ってない!! それもこれも、わたしの父親が母さんを犯して孕ませた、その大罪の故よ!!! だというのに母さんは殺された!! 母さんを犯したから、その穴兄弟どものモツが腐り落ちたからだと、因縁を付けられてね!! ああわかるか、わかるか? 神槍しんそう!! 男のお前にこの絶望が分かるか!? あの時わたしはいくつだったか、強盗どもに裸にされて胎の骨が砕けるほど犯されて、それでも死ねずに浚われて、孕んでも犯され堕ろされて、そうして迎えた末に出会ったあの御方を、お前達は殺した! 殺した殺した殺した殺した、罪人の奴隷のように見せしめにして、死体の谷に放り込ませた!! 赦さない赦さない赦さない赦さない、ローマは滅びよ!! 我等を組み敷く全ての者共、滅びるがいい!!! 今日こそは怒りの日、裁きの時!! わたしたちの母に降りかかった全ての不幸を、子供と言う不幸を裁く時!! 灰燼かいじんに帰せ、ローマの王朝は絶えろ!! ははは!! あはははは!!! 天の軍勢よ、さあ歌え、歌え!! わたしは踊ろう、貴方方の裁きが完璧に為され、悪が雪がれるために!! 来たれボー! 来たれボー!! 来たれボー!!!」

 狂ったような柳和やなぎわの演説にすっかり中てられ、神槍しんそうは腰を抜かした。柳和やなぎわは再びおかしくなりはじめ、くるんと後ろ向きに飛び跳ねると、また燃え盛る炎を踏みつけて、紅蓮地獄の中に立つ。中心にいて、両腕が無いと言うその事実を補うかのように、柳和やなぎわの背中に張り付いた炎が集り、巨大な腕と掌と指とに分かれる。

 確かに柳和やなぎわは、自分でパンを握った事は無かった。杯も持ったことは無かった。だがそれで、一体何の不都合があろうか。柳和やなぎわは確かに、共に食卓を囲んでいた。友になるには、それだけで十分ではなかったのか。

 柳和やなぎわが足を一つ、踏み鳴らす。炎の漣が広がり、遠くの方で延焼したらしく、悲鳴が上がる。もう一つ、もう一つ、また一つ。そして柳和やなぎわは、決して頭領や天眼てんがんが歌わなかった、激しく急き立てるかのような、ローマの言葉の歌を歌った。


怒りの日よディーエス・イレ! その日がディーエス その日まさにディーエス・イラ

怒りの日よディーエス・イレ! その日がディーエス その日まさにディーエス・イラ

砕かれるだろうソルヴェット 世界はセクルム熱灰の中にイン・ファヴィーラ

証人はテステ大王ダヴィ そしてクム巫女だシュビーラ


柳和やなぎわの声に合わせて、炎の中に光の人が次々と現れては、歌声を上げる。それは十重二十重に広がり、凄まじい大合唱になって行く。


―――怒りの日だディーエス・イレ!―――


男の声が響いた。その声は、聞き覚えがある。神槍しんそうは目の前に神が降り立ち、斬首の剣を構えられているかのような錯覚に陥った。震えて涙が流れて、神槍しんそうは声も出ずに頭を地面に擦りつけることしか出来ない。


怒りの日よ!ディーエス・イレ その日がディーエス その日まさにディーエス・イラ

砕かれるだろうソルヴェット 世界はセクルム熱灰の中にイン・ファヴィーラ

砕かれるだろうソルヴェット 熱灰の中でイン・ファヴィーラ

―――怒りの日だディーエス・イレ! その日がディーエス その日まさにディーエス・イラ

砕かれるだろうソルヴェット 世界はセクルム熱灰の中にイン・ファヴィーラ

証人はテステ大王ダヴィ そしてクム巫女だシュビーラ―――

 

 激しく激しく、自分が男に生まれた事を責めたてられる。柳和やなぎわに性を暴かれる背徳の悦びを期待してしまったあの淫夢を思い出す。どれだけあの卑猥な寝言で、柳和やなぎわを辱めただろうか。『略奪婚をしたのか?』と問うた後、結局│天眼てんがんはそれを笑っただけで、終ぞ柳和やなぎわに聞く事が出来なかった。天眼は、目の前の美しい存在の性別すら見分けがつかなかった事がおかしかっただけで、その内本人に聞くだろう、と思っていたのだろう。だが神槍しんそうは、十年近く、柳和やなぎわが男であると信じて疑わなかった。だって―――その言葉遣いは、とても毅然としていて、弱々しくなくて、自分の方こそ護られそうな錯覚に陥ってしまったから。


怒りの日よディーエス・イレ! その日がディーエス その日まさにディーエス・イラ

砕かれるだろうソルヴェット 世界はセクルム熱灰の中にイン・ファヴィーラ

怒りの日よディーエス・イレ! その日がまさにディーエス・イラ 怒りの日よディーエス・イレ 怒りの日よディーエス・イレ


 えている。炎から生まれる多くの光の歌い手が、口から声を出す度に、火の粉が飛んでいく。そしてそれが、どんどん木造住宅を喰って、そこから更に新しい光の歌い手が産まれる。空に向かって投げ出される火の粉は集まって大きな炎の馬になり、柳和やなぎわの血だらけの陰部を燃えるたてがみに隠して、絡繰り仕掛けのように笑いながらローマの空を駆け巡る。馬が空を蹴ると、砂が後ろへ飛び散るように、火の粉が霧散し、突然その下で炎が上がるのだ。


どれ程のコアントゥス恐怖がトゥレモルあろうかエスト

その時コアンド裁き司がユーデクス来るだろうエスト・ベントゥルス 万物をクンクタ厳格にストリークテ裁く為にディスクッスルス


 光の歌い手達が忍びより、唸って歌う。神槍しんそうは漏らしながら、後退りするしか出来なかった。脅すように顔を伸ばし、首を伸ばし、頭よりも大きく口を開けて歌う。神槍しんそうは訳も分からず、ただ怖くて、怖くて、叫んだ。

「大王の子、預言の王、諸王の王たる神と共に居られる子インマヌエル救い給えホーシャ・ナー救い給えホーシャ・ナー我を救いたまえホーシーアー・ナー! どうか、どうか、誰かを、誰かを救って下さい!! 誰を救えば、誰が救えばいいのですか!! ぼくの槍を、ぼくを神の槍として使ってください、ぼくはもう、意思をもってはいられない!!!」

 地獄の炎の中に、懐かしい顔は無く、天啓も無かった。神槍しんそうは唯、笑い猛る柳和やなぎわが、灼熱地獄を増やしていくのを、なんとか追いかける事しか出来なかった。その間、大声で歌い、燎原の火の如く広がって行く合唱団を突き殺す勇気もなかった。彼等の怒りを否定しては、自分の母親の怒りも苦悩も否定してしまう。

 柳和やなぎわの怒りは正しいのだと言い聞かせながら、皇帝がローマを護る為に駆け回るのを見ていた。

 母の無念は晴れていないのだと言い聞かせながら、炎から子供を庇って死ぬローマ人の母親の焼死体を見つめていた。

 犯された女達の叫びがこの合唱なのだと言い聞かせながら、母を犯してけがし、この世から追い出した『男』という人種に生まれた事を呪い続けていた。

 御免なさい、御免なさい、御免なさい。

 だけども嗚呼貴方は、誰からの謝罪も贖罪もいらないのでしょう。


 それは、七月十九日から二十六日までの六日七晩。第五代ローマ皇帝の治世十年の節目の年だった。

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