第三十七節 幸福
宮殿の華やかにして汚濁に塗れた事情というものは、得てして臣民には伝わらないものだ。しかしながら、もし為政者の中に自分達を擁護する者が現れたのなら、それはすぐに彼等への自信に代わる。
皇帝が実母である皇太后を殺害し、皇后に自殺命令を下してまで一緒になったという第二皇妃は、正しくその意味で、彼等の勝利だった。その知らせを持って来た時の、特に女達の喜びようは、如何ともし難い熱気があった。
「一度皇后がいたから、第二皇妃という扱いだけど、それでも私たちの皇妃さまであることには変わらないわ!」
「万歳! 万歳! もう迫害が終わる! 救い主の時代が来る!」
「ねえ、貴方もそう思うでしょう?
喜ぶ女達を前に、
その中で、無断で永遠に銀の燭台を借りた時、主人に気に入られようとしたのか、
少女、ではなく、少年は、自分を
その内の一人であった貴婦人が、この度第二皇妃になったというのだ。喜ぶ女達の中に、自分の最愛の女はいない。
「ねえ、早速お祝いを送りましょう。明日、皆さんの家の鶏が産んだ卵を一つずつ持ち寄るの。」
「いいわね、出来ればゆでて持ってきましょう。」
「
「ああ…。わかった。…ああ、でも、卵のゆで方、分かんねえな。なあ、あんたらにそれを最初に教えた女に、どうせなら教わりたいな。」
「そう言えばあの方、今どちらにいらっしゃるのかしら?」
「ローマ帝国からは、出ていないんじゃない?」
「………。」
「
「わたくしは皆さんの卵を宮殿に献上しに行きます。だから
「………。ああ、分かった。その代わり―――。」
「『アララギヒメ』でしょう、分かってますよ。全く、こんなに美しいわたくしがいるのに、貴方はちっとも誘惑されないのですね!」
「そう怒るなよ。あっしァ単に、女房がいるんでぃ。」
『
問題があったのは、寧ろ皇妃の方だ。皇妃は魔術師の教えに深い興味を示していたが、皇妃と言う立場上、表だって人に聞く事は出来なかった。彼女の周囲で、魔術師に最も近いのは、
それ故に、
ただ、自分達を救わなかった魔術師は、貴人として葬られた。自分達を救った魔術師は、奴隷として捨てさせられた。それに対する納得のいく答えを求めていた。
「こんにちは、坊主。」
「いらっしゃい! 先生はもう起きてらっしゃるよ。最近皇妃様が新しくなったけど、ユダヤ人とギリシャ人の喧嘩は激しいんだって。だからこの頃、益々頭が神々しくおなりだよ。」
「そりゃ丁度いい。ぼくの柳髪を分けてあげようかな。」
そんな軽口を叩きながら家に入る。
「久しぶりだね、
「おお、
「お構いなく。」
頭領と
「君は、まだ
「ああ、勿論思っているよ。貴方方の話す奇跡を、もう一度論駁してあげる。」
「では、前回と同じように、もう一度やってみよう。山の上のお説教の話はしたっけ?」
「いや、そこまではまだ言ってなかった。」
「ここで、
「そう。」
「宜しい。これはお互いに実に実りのある、素晴らしい語らいだ。私の家の者に、誰か記録が出来るものが居ればいいのだがねえ。あの宣教師め、私を臆病な禿頭とガラテヤの仲間達に手紙で侮辱したと言うじゃないか。私だって―――。」
「センセ。」
「おお、すまんすまん。」
「大丈夫、帰ったらぼくが、召使に書きとめさせるから。」
勿論嘘である。こほん、と、
「では、まず一つ目。『何も持っていない事を知っている者は幸いで、彼等は御国で存分に満たされる』については?」
「そうは思わないね。例えば目の前に飢えた子どもが居て、その言葉を話して子供がパンを作る能力を貰えるなら、いいだろう。『御国』というのは天の国の事で、ぼく達が死んだ後に到達するところだろう? そこに行くために今目の前で、おなかが空いたと泣く体力もない子供が『御国に行く』を見守るなんて、全然愛じゃない。そんなのは、お
「相変わらず手厳しいね。では、『温和であれば、世界はその人々のものになる』については?」
「世界なんかいらないよ。もし『かみさま』がぼくに、平和で虐げられることもなく思い悩むこともない一人の世界か、それとも世界中に罵られ凌辱され殺される恐怖に怯える家族のいる世界か、どちらかをくれるなら、ぼくは後者を選ぶね。というより、ぼくはイスラエルでそういう生活をしてて、幸せだったからね。」
「随分とはっきり言うんだねえ…。しかしそれは後で論じるとしよう。では、『今飢えている人は、飽き足りるようになる』については?」
「それも同じだ。でもその『飢え』っていうのは、おなかや喉の事じゃないんだろう? 例えば、愛、友情、温もり、絆、そんなふうに言われるもの。だけど、なんで『飽き足りるようになる』なんだ? 『私が飽き足らせる』じゃダメなのか? 他人の人生全てに深く関わる覚悟が無いから、そんな他力本願の慰めが出来るんだよ。出来ないならそんなこと言うなってんだ。」
「ふむふむ。では、『今泣いている人たちは、笑うようになる』は?」
「今腹踊りをしてみせろ。以上。」
「やはり価値観の重きが違うんだろうか? こんなに幸せな事はない良い話なのに…。まあいい、今は最後までやろう。『人に優しい人たちは、神に大きな優しさを寄せられる』には?」
「ぼくは撫でてもくれない、キスも出来ない完全無欠な『かみさま』という心の支えより、ぼこぼこの指でぼくの頬に触れて、腐った息を吐きながらキスしてくれる人の方が欲しい。」
「なら、『物思いが清らかな人は、神に最も近くいられる』というのはどうかね。」
「この腐った憂世で、こぎれいなことしか言わない奴を知っているよ。パリサイ人や律法学者達だ。連中は庶民から吸い取った金で、沢山の牛を燃やして、大通りでいつも自分が裕福だからこそ出来る施しの金額について話してる。あいつの傍に行くくらいなら、ぼくは悪行を積み重ねたいね。」
「では、『平和を実現する人々は神の子と呼ばれる』となったら、どうだい。それでも悪行を積み重ねたい?」
「『平和』というのは、要するにどんな人間とも仲良しこよしで喧嘩しないということだろう? その場合。」
「むむ…。では『迫害される者は、最後には必ず報われる』には?」
「だから、何で『最後』なんだよ。今目の前に苦しんでる人がいるのに、なんで助けないの? なんでそうなんの? アンタたちは。」
一通り話し終えて、
「どうして君は、そう頑ななんだろうね。私は君がとても不幸に見えて、君を幸せに出来る手段を全て教えているのに、君は不幸でいる事を望んでいるみたいだ。」
「そうじゃないよ、センセ。ぼくの幸福を不幸に変えたのも、ぼくの不幸を幸福の種に変えているように見えるのも、全てセンセの魔術の所為だ。ぼくが不幸なのは、ぼくを救いだしてくれた預言の王を殺され、死体を弔うことさら許されなかったからだ。ぼくを幸福にしたいのなら、ぼくの前にあの二人がもう一度お姿を見せるしかない。ただ見えるだけじゃだめだ。ぼくの踊りの為に奏でて歌ってくれて、それで初めてぼくは幸せを感じられる。ぼくにとっては、神の平安だの、主の平和だの、そんなものより、粗暴で無教養な奴らとのどんちゃん騒ぎの仲間入りをしている方が幸せだったんだ。それは、ローマでも同じだよ。ぼくはこの通り純血のイスラエル人だからね。センセ達がぎゃあぎゃあ騒ぐと、ぼくにまでとばっちりが来る。出来ればセンセ達には、自分の教えを押し付ける必要がある国じゃなくて、始めから神も法律もへったくれもない、粗暴で野蛮な獣人の住む島国か何かに行っていただきたいところだよ。」
「獣は人と違って罪が無い。初めから救われた存在だ。だから神を述べ伝える必要はないんだよ。」
「へえ、そうなんだ。ぼくは獣は神の庇護下にないから、何をやっても良いって聞かされて育ったよ。」
「
「センセ、さっきと言ってる事が逆だよ。なんでセンセは、あの魔術師が苦しんだことを喜んでるの? なんで十字架に『かかってくださった』なんて言うの? 十字架の苦しみをアンタ達は知らないからそんなことが言えるんだ。もしお
それを聞いて、
「………そういうものかな。」
「そうだよ。ぼくは十字架で苦しむお姿を見たから、尚の事そう思うよ。」
「………。後悔をするくらいなら、初めから間違ったことをしなければ良かったと思う。」
「そんなことが言えるのは、間違えた自覚のないおめでたい奴だけだ。まあ、だからと言ってぼくは、裏切り者を赦すつもりはないけどね。でもこの怒りはぼくがあの方々を愛していたからであって、決して義憤だとかそんな大層な物じゃない。だからもし、ぼくが裏切り者を赦さないことを誰かに咎められても、ぼくは弁明するつもりはない。ぼくは裏切り者を赦さない事を悪い事とは思わないしね。」
「そうだろうか? 裏切り者を赦さなければ、私は自分自身の裏切りをも裁かれてしまう。」
「どうして? 裏切り者の罪と、自分の罪は別だろう? 裏切り者の責任は裏切り者が、センセの疚しい所はセンセだけが責任を取ればいい。」
「責任を取ると言う事を、
「おかしい! 全く持っておかしいよ。なんだい、他人に罪を擦りつけて、その他人が何も言わずに身代わりになって死んで、負い目も申し訳なさもなく、自分が助かった事に安堵してるのかい? そりゃ随分と臆病で無責任じゃないか。せめて濡れ衣を着せたことについて負い目がなくちゃ。」
そこまで言って、遂に
「大体、そんな七面倒くさいことをして大立ち回りをして、一体その目的は何だ? その濡れ衣を着せられたのが、この十年最近だったことの方が不思議だ。だったら世界の始まりか終わりか、どちらかでやるべきだった。神殺しの大罪は、世界の終焉に相応しいとは思うけど、なんでこんな中途半端な時代と場所でやったのか分からない。」
「ふうむ…。預言が全て揃うから、じゃないのかな。」
「過去の預言が全て成就する時が、どうして世界がこれからも続いて行く時期なの? ―――ああ、そうか。もしかしたら逆なのかも。」
「ん? 逆?」
「うん、逆。うん、もしかしたらそうなのかも。それならぼくは、彼は魔術師じゃなく、産まれる時代と場所と運命を選べた
「どんな! どんな理由かね!? 君の心を解かすその理由は何だね!?」
「つまり―――彼は、この時代に生きている誰かに、直接会わなければならなかったんだ。」
「誰か?」
「そう。彼はどんな時代にも誕生できたはずだ。預言だって、神なんだから、自分に都合のいいようにいくらだって作れる。なのに、世界の終わりじゃなく、始まりでもなく、真ん中の時代に現れたと言う事は、真ん中のこの時代に生きている誰かに会うためだったなら、ぼくは納得する。」
「この時代に生きている誰か…。それこそ、君だよ、
「嘘こくない! ぼくは確かに大王の子と信じてる人が二人いるけど、その人たちの事をセンセ達は気にも留めないで、ずっとあの魔術師のことしか言わないじゃないか。第一、ぼくはあの魔術師が生きている時に会ったことはないよ。十字架の時はお
「いいや、主は生きておられる。三日目に復活して、死を打ち破り、私達と食事までしたんだ。」
「死んだ人間が生き返るなら、ぼくはお
「貴方、今日は
「おお、どうだね、
「ああ、それはいいや。宮殿で皇帝殿が待っておられるからね。」
これ以上ここに居たら、延々と死者が生き返ってどうのこうのと続いて、食事どころではないだろう。
それから一年程は、
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