第三十七節 幸福

 宮殿の華やかにして汚濁に塗れた事情というものは、得てして臣民には伝わらないものだ。しかしながら、もし為政者の中に自分達を擁護する者が現れたのなら、それはすぐに彼等への自信に代わる。

 皇帝が実母である皇太后を殺害し、皇后に自殺命令を下してまで一緒になったという第二皇妃は、正しくその意味で、彼等の勝利だった。その知らせを持って来た時の、特に女達の喜びようは、如何ともし難い熱気があった。

「一度皇后がいたから、第二皇妃という扱いだけど、それでも私たちの皇妃さまであることには変わらないわ!」

「万歳! 万歳! もう迫害が終わる! 救い主の時代が来る!」

「ねえ、貴方もそう思うでしょう? 臣后しんごうくん、それに塊茎かいけいさんも。」

 喜ぶ女達を前に、塊茎かいけい―――若頭わかがしは渋い顔をして笑うしかなかった。

 若頭わかがしは、神槍しんそうと別れた後、すぐに魔術師の一団を見つける事が出来た。彼等はローマ中に広がり、それは首都ローマだけに留まらなかった。思った以上に人々の間にその教えは広がり、十字架で死んだ後に魔術で蘇った事を嬉しそうに語り―――そして殺されていく。勇猛な者はそれで良かったかもしれないが、そうではない追随者というのも確かにいて、彼等は特殊な暗号を用いて集まっては、洞窟や地下に集まり、儀式を行った。若頭わかがしはそれに参加していたが、渡されたパンと葡萄酒は食べるふりをして捨てていた。そこまで食うに困らない程度には、ローマの富豪の家に出入りしていたからである。勿論無断で、だが。

 その中で、無断で永遠に銀の燭台を借りた時、主人に気に入られようとしたのか、若頭わかがしを追いかけてくる少女がいた。あまりにもいじらしく、夜の街を縫って歩き、追いかけて来るので、若頭わかがしはその姿が癪に障った。こんな夜遅くに一人で奴隷女がうろうろしていて、暴漢に襲われても何も文句が言えない。若頭わかがしは大通りの近くで彼女を捕え、脅して帰らせようとしたが、すぐに違和感を覚えた。それは若頭わかがしが、柳和やなぎわと初めて会った時と似ている感じで、性別を超越した美貌を持っているのと同じだった。少女は男だった。

 少女、ではなく、少年は、自分を臣后しんごうと名乗った。それは、彼女、違う、彼があまりにも第二皇妃に瓜二つだったこと、そして彼は『偉大な王』を探していて、その人に生涯を奉げるまで、処女でいる心算だったからだ、と言った。いつか『王』に巡り合うまで、自分はまだ見ぬ王の臣民でしかなく、それでも自分こそが、臣民の中で一番、妃になるに相応しい美貌を持っているという自信もあったからだ。今彼が処女かどうかは、聞くべきではないだろう。若頭わかがしも『処女だったこと』の悲しみは、母を通して知っているつもりだ。臣后しんごうはそれでも、いつか自分が仕えるべき王と巡り合うことを信じていて、その為には若頭わかがしのような悪党を正義の前に引きずり出す事が重要だと考えていたらしい。若頭わかがしはそのあまりに危うい正義感に不安になり、自分の知っている所―――魔術師の一団の所へ連れて行った。彼等は、臣后しんごうの志と決意を讃え、自分たちの崇拝する魔術師こそが、この世の王全ての王だと教え、自分たちの所に来るように言った。若頭わかがしはその言葉遊びのような褒め称え方に、ピンと来ていなかったのだが、臣后しんごうは何か心惹かれたらしく、彼等の仲間になり、魚の記号を覚えた。この『魚』を描ける者は、彼等の仲間なのだが、今の所為政者たちにそれが広まっている様子はない。しかし、臣后しんごうを通して、富裕層の中にも、魔術師に惹かれる者たちが現れ、彼等が支援をするようになっていた。

 その内の一人であった貴婦人が、この度第二皇妃になったというのだ。喜ぶ女達の中に、自分の最愛の女はいない。

 神槍しんそうと別れてから、『若頭わかがし』の名前は封印した。今の自分はどこの賊も率いていないから、余計な嫌疑をかけられない為だ。塊茎かいけいという偽名は、蘭姫あららぎひめの『蘭』にあやかって付けた別名だ。ローマの花屋で偶々、『あららぎ』の花を見つける事が出来たのだが、その花はまだ種だった。本当なら名前も『蘭』とでもした方が良いのだろうが、そうすると『ひいさん』の品格を貶めてしまいそうで、どうしても出来なかった。それに、このローマで、自分以外の人間が『蘭』という言葉を使うのも嫌だった。

「ねえ、早速お祝いを送りましょう。明日、皆さんの家の鶏が産んだ卵を一つずつ持ち寄るの。」

「いいわね、出来ればゆでて持ってきましょう。」

塊茎かいけいさん、あなたも用意するのよ。もう間もなく主が私達を救って下さる、そのお膳立てを、皇妃様が成してくださるんだから。」

「ああ…。わかった。…ああ、でも、卵のゆで方、分かんねえな。なあ、あんたらにそれを最初に教えた女に、どうせなら教わりたいな。」

「そう言えばあの方、今どちらにいらっしゃるのかしら?」

「ローマ帝国からは、出ていないんじゃない?」

「………。」

臣后しんごうくんに教えて貰えばいいじゃない。」

 塊茎かいけいがあまりに嫌そうな顔をしたのが不服だったらしく、臣后しんごうはぷいっと顔を背けた。

「わたくしは皆さんの卵を宮殿に献上しに行きます。だから塊茎かいけいさん、貴方がわたくしの分まで用意してください。」

「………。ああ、分かった。その代わり―――。」

「『アララギヒメ』でしょう、分かってますよ。全く、こんなに美しいわたくしがいるのに、貴方はちっとも誘惑されないのですね!」

「そう怒るなよ。あっしァ単に、女房がいるんでぃ。」

 蘭姫あららぎひめは妻だ。彼女もきっとまだそれを覚えている筈だ。ただ自分が思っているだけではない筈だ。

 『塊茎かいけい』としてローマ帝国に息を潜めているには、まだ地中深く眠っている必要があった。ただ来たらざる春を待ち望むかのように。


 塊茎かいけいが性を超越した美しい臣后しんごうと、冷え切ったある種の協力関係にある一方で、宮殿では日に日に柳和やなぎわの踊りを見る家臣たちが増え、下男下女から高級官僚、その子女まで、幅広く求愛の品が届いていた。皇帝はそれが面白くなかったようで、それらの贈り物に自分の贈り物を混ぜ、柳和やなぎわにどれか一つだけを選ぶように、但し、自分が忠誠を誓う者の贈り物を選ぶように、と、毎日のように命じた。初めこそ柳和やなぎわはあしらっていたが、一度微笑み返して貰ったと春色に頬を染める下女を切り捨てられてから、毎回応じる事になった。と言っても、皇帝の贈り物を見分けるのは他愛ないことだ。その贈り物だけが、一番高価で一番粋を凝らしているのに、全く包装も飾り紐もないのだ。見るだけで『皇帝』らしさが滲み出ている。柳和やなぎわはこの選び取りでは、何の問題もなかった。

 問題があったのは、寧ろ皇妃の方だ。皇妃は魔術師の教えに深い興味を示していたが、皇妃と言う立場上、表だって人に聞く事は出来なかった。彼女の周囲で、魔術師に最も近いのは、柳和やなぎわ神槍しんそうだったのである。尚悪いことに、皇妃は魔術師が救い主であるという教えの方に傾倒していて、二人がその左右の『強盗』の縁者であることに気付いていなかった。柳和やなぎわ神槍しんそうは、魔術師ではなく、其々頭領と天眼てんがんこそが救い主だと考えていたし、魔術師だけが墓に入れられたことや、その後弟子たちが魔術を継承したと言う噂も気に食わなかった。なので、皇妃には『大王の子』という存在については証言したものの、魔術師については話さないようにしていた。それでも皇妃は、市井でのユダヤ人達の活動に多くの工面をしようと、何かと助言を求めて来た。

 柳和やなぎわはそれが嫌でたまらなかった。魔術師は救い主だというなら、何故自分の母を―――そして自分自身を救ってくれなかったのか、としか思えない。それだったら、救いについてこうだああだと断言できない優柔不断な自称救世主マーシーアッハの方がましというものだ。皇妃が身支度をするのでもないのに、奴隷を百人近く集めている時は、大体市井に出て、ユダヤ人達が直面する問題について話を聞きに行く時だ。それに巻き込まれるのが嫌で、柳和やなぎわは奴隷達が忙しくし始めると、神槍しんそうにすら何も告げずにさっさと宮殿を飛び出すのが常であった。

 それ故に、柳和やなぎわが市井で誰と会っているのかは、神槍しんそうですら知らなかった。柳和やなぎわはそう言う隠し事に長けていたからだ。

 柳和やなぎわは市井に出て、柳和やなぎわなりに魔術師一団の事を調べていた。柳和やなぎわが知りたいことは唯一つ。ねぐらに居た頃に、皆が見ていた『あの力』を、彼等はどう裁くのか、それが知りたかった。無論その結果で、柳和やなぎわの『力』と、それを賜った信仰の確信が揺らぐということはありえない。

 ただ、自分達を救わなかった魔術師は、貴人として葬られた。自分達を救った魔術師は、奴隷として捨てさせられた。それに対する納得のいく答えを求めていた。柳和やなぎわの中では、まだ二人は十字架上で苦しんでいる。それはあの時、頭領の汗すら拭う事が出来なかったあの屈辱や自己嫌悪に根差したもので、柳和やなぎわがこの世にいる限り永遠に逃れられない呪いだった。頭領が、天眼てんがんが、赦しているとかいないとか、そう言う事ではない。柳和やなぎわが自分自身を赦せず、呪殺しようとするのだ。もしあの十字架が柳和やなぎわに何か与えるものがあったとすれば、この正気を失う程の狂気だけだ。それを頭領と天眼てんがんが望んでいないことも分かっている。だが、間違いを間違いだと言い、非がある事を追及する正義が、我儘と言われるのは我慢ならない。

「こんにちは、坊主。」

 柳和やなぎわは首都ローマからアッピア街道を通り、東南方面に歩いたところにある小さな民家にやって来た。その家の子供らしい少年が、薪割りをしていたので、柳和やなぎわは声をかけた。彼とは顔見知りだが、少年は何も言わず、周りに誰も一緒にいないことを確認してから、叩き割った薪を使って、地面に文字を書き始めた。柳和やなぎわは暫くそれを見つめていたが、円が半分だけ書かれた図形を見つけると、それに近寄り、爪先でしゅっと、反対向きに同じ円弧を描いた。それを見て少年は、ぱっと顔を上げ、斧を放って柳和やなぎわに抱きついた。

「いらっしゃい! 先生はもう起きてらっしゃるよ。最近皇妃様が新しくなったけど、ユダヤ人とギリシャ人の喧嘩は激しいんだって。だからこの頃、益々頭が神々しくおなりだよ。」

「そりゃ丁度いい。ぼくの柳髪を分けてあげようかな。」

 そんな軽口を叩きながら家に入る。柳和やなぎわの目当ての人物は、家人たちに何か熱心に教えていたが、柳和やなぎわはそれをみて、心がやたらと臭い、真黒な大便のようなものを垂れ流すのを感じた。この家にはこの人物に会うためによくよく訪れるが、運が悪いとこんな場面に出くわしてしまうのだ。彼は柳和やなぎわの激しい感情は全く知らず、ただ信仰の篤い人物だとしか思っていないようだった。それがまた、その大便を使った堆肥が如き悪臭のする感情を生む。

「久しぶりだね、巌夫いわおセンセ。」

「おお、柳和やなぎわくん! 今日も美しいね。全く! 私にもあの宣教師くらい学があれば、君に歌を歌ってあげられただろうにね。」

「お構いなく。」

 頭領と天眼てんがん、それに若頭わかがし以外に褒められても、気持ち悪いだけだ。柳和やなぎわ巌夫いわおの妻が出してくれた椅子に腰かけ、脚を組んだ。

「君は、まだ神と共に居られる御子インマヌエル救世主マーシーアッハではなく、魔術師だと思っているの?」

「ああ、勿論思っているよ。貴方方の話す奇跡を、もう一度論駁してあげる。」

 柳和やなぎわも大概であるが、巌夫いわおも夫人も、よくもまあこんな意固地な者に時間を割くものだ。自分の相手をする時間を、ローマの広場での説教の時間に宛がえば、少なくとも十人の内一人くらいは、素晴らしい説教が聞けた、と感謝するだろうに。それだけ柳和やなぎわを『オトす』事に、何か歓びでもあるのだろうか。柳和やなぎわには理解できない。

「では、前回と同じように、もう一度やってみよう。山の上のお説教の話はしたっけ?」

「いや、そこまではまだ言ってなかった。」

「ここで、神と共に居られる御子インマヌエルは、幸福になる為の八つの原則をお示しになられた。君がこれを論駁するということは、君はこれらの原則を護る事で、不幸になると言う事を論証すると言う事だね?」

「そう。」

「宜しい。これはお互いに実に実りのある、素晴らしい語らいだ。私の家の者に、誰か記録が出来るものが居ればいいのだがねえ。あの宣教師め、私を臆病な禿頭とガラテヤの仲間達に手紙で侮辱したと言うじゃないか。私だって―――。」

「センセ。」

「おお、すまんすまん。」

「大丈夫、帰ったらぼくが、召使に書きとめさせるから。」

 勿論嘘である。こほん、と、巌夫いわおは咳払いをし、両手を上に向けて祈りを奉げると、きらきらとした瞳で、議論に入った。

「では、まず一つ目。『何も持っていない事を知っている者は幸いで、彼等は御国で存分に満たされる』については?」

「そうは思わないね。例えば目の前に飢えた子どもが居て、その言葉を話して子供がパンを作る能力を貰えるなら、いいだろう。『御国』というのは天の国の事で、ぼく達が死んだ後に到達するところだろう? そこに行くために今目の前で、おなかが空いたと泣く体力もない子供が『御国に行く』を見守るなんて、全然愛じゃない。そんなのは、お頭様とうさまの言ってた『愛』じゃない。だからその教えを信じている人は唯のおめでたい思考停止野郎だ。」

「相変わらず手厳しいね。では、『温和であれば、世界はその人々のものになる』については?」

「世界なんかいらないよ。もし『かみさま』がぼくに、平和で虐げられることもなく思い悩むこともない一人の世界か、それとも世界中に罵られ凌辱され殺される恐怖に怯える家族のいる世界か、どちらかをくれるなら、ぼくは後者を選ぶね。というより、ぼくはイスラエルでそういう生活をしてて、幸せだったからね。」

「随分とはっきり言うんだねえ…。しかしそれは後で論じるとしよう。では、『今飢えている人は、飽き足りるようになる』については?」

「それも同じだ。でもその『飢え』っていうのは、おなかや喉の事じゃないんだろう? 例えば、愛、友情、温もり、絆、そんなふうに言われるもの。だけど、なんで『飽き足りるようになる』なんだ? 『私が飽き足らせる』じゃダメなのか? 他人の人生全てに深く関わる覚悟が無いから、そんな他力本願の慰めが出来るんだよ。出来ないならそんなこと言うなってんだ。」

「ふむふむ。では、『今泣いている人たちは、笑うようになる』は?」

「今腹踊りをしてみせろ。以上。」

「やはり価値観の重きが違うんだろうか? こんなに幸せな事はない良い話なのに…。まあいい、今は最後までやろう。『人に優しい人たちは、神に大きな優しさを寄せられる』には?」

「ぼくは撫でてもくれない、キスも出来ない完全無欠な『かみさま』という心の支えより、ぼこぼこの指でぼくの頬に触れて、腐った息を吐きながらキスしてくれる人の方が欲しい。」

「なら、『物思いが清らかな人は、神に最も近くいられる』というのはどうかね。」

「この腐った憂世で、こぎれいなことしか言わない奴を知っているよ。パリサイ人や律法学者達だ。連中は庶民から吸い取った金で、沢山の牛を燃やして、大通りでいつも自分が裕福だからこそ出来る施しの金額について話してる。あいつの傍に行くくらいなら、ぼくは悪行を積み重ねたいね。」

「では、『平和を実現する人々は神の子と呼ばれる』となったら、どうだい。それでも悪行を積み重ねたい?」

「『平和』というのは、要するにどんな人間とも仲良しこよしで喧嘩しないということだろう? その場合。」

「むむ…。では『迫害される者は、最後には必ず報われる』には?」

「だから、何で『最後』なんだよ。今目の前に苦しんでる人がいるのに、なんで助けないの? なんでそうなんの? アンタたちは。」

 一通り話し終えて、巌夫いわおは身体ごと頭を捻った。

「どうして君は、そう頑ななんだろうね。私は君がとても不幸に見えて、君を幸せに出来る手段を全て教えているのに、君は不幸でいる事を望んでいるみたいだ。」

「そうじゃないよ、センセ。ぼくの幸福を不幸に変えたのも、ぼくの不幸を幸福の種に変えているように見えるのも、全てセンセの魔術の所為だ。ぼくが不幸なのは、ぼくを救いだしてくれた預言の王を殺され、死体を弔うことさら許されなかったからだ。ぼくを幸福にしたいのなら、ぼくの前にあの二人がもう一度お姿を見せるしかない。ただ見えるだけじゃだめだ。ぼくの踊りの為に奏でて歌ってくれて、それで初めてぼくは幸せを感じられる。ぼくにとっては、神の平安だの、主の平和だの、そんなものより、粗暴で無教養な奴らとのどんちゃん騒ぎの仲間入りをしている方が幸せだったんだ。それは、ローマでも同じだよ。ぼくはこの通り純血のイスラエル人だからね。センセ達がぎゃあぎゃあ騒ぐと、ぼくにまでとばっちりが来る。出来ればセンセ達には、自分の教えを押し付ける必要がある国じゃなくて、始めから神も法律もへったくれもない、粗暴で野蛮な獣人の住む島国か何かに行っていただきたいところだよ。」

「獣は人と違って罪が無い。初めから救われた存在だ。だから神を述べ伝える必要はないんだよ。」

「へえ、そうなんだ。ぼくは獣は神の庇護下にないから、何をやっても良いって聞かされて育ったよ。」

神と共に居られる御子インマヌエルが魔術師であるより、彼が救世主マーシーアッハであって、私達の代わりに裁かれて下さった事の方が、余程喜ばしくて幸せでないかい?」

「センセ、さっきと言ってる事が逆だよ。なんでセンセは、あの魔術師が苦しんだことを喜んでるの? なんで十字架に『かかってくださった』なんて言うの? 十字架の苦しみをアンタ達は知らないからそんなことが言えるんだ。もしお頭様とうさまとおじ様の十字架が、ぼくの所為だというのなら、ぼくは生きてなんていられない。申し訳ないなんてどころじゃない、その十字架は万人の為の幸せだったとしても、少なくともその『万人』の中にぼくはいない。ぼくは十字架にかかってお二人が死ぬ前に、この長髪を使って首を吊るね! 後に死ぬなんて、そんなこと出来ない。」

 それを聞いて、巌夫いわおは何故か涙を浮かべた。

「………そういうものかな。」

「そうだよ。ぼくは十字架で苦しむお姿を見たから、尚の事そう思うよ。」

「………。後悔をするくらいなら、初めから間違ったことをしなければ良かったと思う。」

「そんなことが言えるのは、間違えた自覚のないおめでたい奴だけだ。まあ、だからと言ってぼくは、裏切り者を赦すつもりはないけどね。でもこの怒りはぼくがあの方々を愛していたからであって、決して義憤だとかそんな大層な物じゃない。だからもし、ぼくが裏切り者を赦さないことを誰かに咎められても、ぼくは弁明するつもりはない。ぼくは裏切り者を赦さない事を悪い事とは思わないしね。」

「そうだろうか? 裏切り者を赦さなければ、私は自分自身の裏切りをも裁かれてしまう。」

「どうして? 裏切り者の罪と、自分の罪は別だろう? 裏切り者の責任は裏切り者が、センセの疚しい所はセンセだけが責任を取ればいい。」

「責任を取ると言う事を、神と共に居られる御子インマヌエルは、全ての人間が責任を取る身代わりになってくださったんだよ。私は自分が凄く不道徳な禿男であることを自覚している。だから神と共に居られる御子インマヌエルの十字架が幸福なんだ。それはおかしいことかい?」

「おかしい! 全く持っておかしいよ。なんだい、他人に罪を擦りつけて、その他人が何も言わずに身代わりになって死んで、負い目も申し訳なさもなく、自分が助かった事に安堵してるのかい? そりゃ随分と臆病で無責任じゃないか。せめて濡れ衣を着せたことについて負い目がなくちゃ。」

 そこまで言って、遂に巌夫いわおは黙ってしまった。その妻が、はらはらとこちらを見据えている。柳和やなぎわはもう一押しとばかりに畳み掛けた。

「大体、そんな七面倒くさいことをして大立ち回りをして、一体その目的は何だ? その濡れ衣を着せられたのが、この十年最近だったことの方が不思議だ。だったら世界の始まりか終わりか、どちらかでやるべきだった。神殺しの大罪は、世界の終焉に相応しいとは思うけど、なんでこんな中途半端な時代と場所でやったのか分からない。」

「ふうむ…。預言が全て揃うから、じゃないのかな。」

「過去の預言が全て成就する時が、どうして世界がこれからも続いて行く時期なの? ―――ああ、そうか。もしかしたら逆なのかも。」

「ん? 逆?」

「うん、逆。うん、もしかしたらそうなのかも。それならぼくは、彼は魔術師じゃなく、産まれる時代と場所と運命を選べた救世主マーシーアッハであると言えるよ。」

「どんな! どんな理由かね!? 君の心を解かすその理由は何だね!?」

 巌夫いわおが立ち上がって肩を掴もうとしたので、柳和やなぎわはくるんと椅子から降りて躱した。

「つまり―――彼は、この時代に生きている誰かに、直接会わなければならなかったんだ。」

「誰か?」

「そう。彼はどんな時代にも誕生できたはずだ。預言だって、神なんだから、自分に都合のいいようにいくらだって作れる。なのに、世界の終わりじゃなく、始まりでもなく、真ん中の時代に現れたと言う事は、真ん中のこの時代に生きている誰かに会うためだったなら、ぼくは納得する。」

「この時代に生きている誰か…。それこそ、君だよ、柳和やなぎわ!」

「嘘こくない! ぼくは確かに大王の子と信じてる人が二人いるけど、その人たちの事をセンセ達は気にも留めないで、ずっとあの魔術師のことしか言わないじゃないか。第一、ぼくはあの魔術師が生きている時に会ったことはないよ。十字架の時はお頭様とうさまとおじ様しか見てなかったし。」

「いいや、主は生きておられる。三日目に復活して、死を打ち破り、私達と食事までしたんだ。」

「死んだ人間が生き返るなら、ぼくはお頭様とうさまとおじ様と一緒に、又宴がしたいよ。」

 柳和やなぎわがぷんと答えると、先程まで涙声だった巌夫いわおはすっかり元気になった。

「貴方、今日は柳和やなぎわさんと食事をなさいますか?」

「おお、どうだね、柳和やなぎわ。これから私達は夕食なのだが、君も。」

「ああ、それはいいや。宮殿で皇帝殿が待っておられるからね。」

 これ以上ここに居たら、延々と死者が生き返ってどうのこうのと続いて、食事どころではないだろう。柳和やなぎわはそう言って家を出た。皇妃様に宜しく、と、とてもしつこく言うので、捧げ物があるなら預かるよ、と言ったが、今は別の所で教会を立てようとしているので、ローマ中の信者はそこに金をつぎ込んでいるのだそうだ。おめでたい連中だと思いながら、柳和やなぎわは、次はどんな答弁になるのか、少し楽しみに思っていた。巌夫いわおの口から、頭領と天眼てんがんは強盗ではなく、その力も魔術ではないと言ってくれるのも、間もなくだろうという手応えも感じていたからである。

 それから一年程は、柳和やなぎわ巌夫いわおの元へ通う事が出来た。しかしその後、先帝の時に追放されたユダヤ人が首都に戻って来たらしく、柳和やなぎわは自然と彼等に会いに行くのを止めた。結局彼等に、頭領と天眼てんがんは魔術師でないと言わせることは出来なかった。


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