第三十六節 教師
皇子が十三歳の時、彼は皇帝の後妻の継子ではなく、皇帝の正式な養子となり、翌年には成人を迎えた。その後十六歳で、養父となった第四代皇帝が亡くなると、すぐに第五代皇帝として即位した。新皇帝の母―――皇太后はこの結果を待ち望んでいて、宮殿には皇太后による毒殺疑惑が瞬く間に広まった。そしてそれを唆したのが、
翌年、皇帝の義妹であり、第一皇后でもある先帝の娘の、弟が死去した。成人を翌日に控えたからである。現皇帝は第三皇帝の甥であるが、義弟は先代皇帝の実子である。もし成人して皇帝の公式相続人になれば、大きな脅威となる。皇太后の入れ知恵か、それとも皇帝の恐怖だったのか、
教師は
「では君は、剣闘士は誇り高くも、勇ましくもないというのかね?」
「あんなものを歓ぶのは、少なくとも文明人じゃないね。それは律法学者たちが、どうやって鮮やかにそれらしく、老いた妻を捨てるか議論しているのと似てる。本当の弱者に目を向けず、自分の持ってるものに酔いしれる。愚かで浅薄で、ぼくはちっとも尊敬できない。」
「成程、君は臆病だとか、腰抜けとか言われる人の方が、尊敬できるということかね?」
「そうとも言うね。でも彼等を臆病とか腰抜けとか腑抜けとか不能とか無能とか言う連中は、自分達が臆病で腰抜けで腑抜けで不能で無能の根性なしの恥知らずということを知らないんだ。だから本来なら教えてあげるのが、智者なのでしょうが、生憎ぼくはそういう傲慢な知恵者は嫌いでね。でもセンセイみたいに、ぼくを上辺で判断しない冷静さを持った人間には、ぼくは敬意を表してるつもりだよ。」
「では、もし儂がそのような臆病とか腰抜けとか言われる人々を、君の言う文明人に近づけるには、どのように説教をしたらよいか、分かるかね?」
「それは、センセイが権威的に、最も難しくて手っ取り早い方法を提唱して、実践する事さ。」
「難しくて手っ取り早い…。例えば、施し、優しさなどだろうかね?」
「うん、そうだと思う。」
「では
「考えると言うより、教えてくれたんだ。」
「それが、以前言っていた、『おとうさま』と『おじさま』なのかね?」
「そう。あの二人の死際に、お傍にいることは出来なかったけど、おじ様の死体はぎりぎりまで棄てられないように努力したよ。あの判決は間違いだったと、ぼくはいつでもローマ皇帝に訴え出る気概でいるよ!」
「すまない、嫌な事を思い出させた。しかし今殿下―――皇帝陛下は、義弟御のことや皇太后様とのことで酷く悩んでおられる。今は時期ではない。」
「ほんとかな?」
あまりに同じことを考えていて、
「陛下は、純粋な御方なのだ。だから騙されやすい。陛下を正しく導いて行くことが出来れば、陛下の生まれ持ったカリスマを存分に活かすことが出来、民も幸せになれよう。」
「でもその民というのは、ローマ市民であって、ぼく達イスラエル人を含めた属国のことではないんでしょう?」
「それは違うぞ、
そう言って、教師は宮殿の窓から、
「帝政ローマになり、人口は大台に乗った。今までにない程、ローマは栄えている。今は街が狭くて火が出るが、今に皇帝の芸術的な都市計画が実現すれば、それも無くなろう。」
「芸術ねえ? それは、人が生きる上で大事な物かしら。」
「大切だとも。人生を豊かにするものを、皇帝は護られる。御自ら、ローマ芸術の保護者を公言することは並々ならぬ御覚悟があるのだ。今度│
すると
「裸になるだけなら獣でも出来る。ぼくは人間だ。人間らしい姿で暮らして、人間のために踊る。」
「中々君が楽団を気に入らないので、皇室の予算繰りが難しいと、財務大臣が嘆いていたよ。折角この程、属州を全部合わせて国庫を一本化したと言うのに、ちっとも安心できないとね。」
「何度でも言うよ、センセイ。ぼくは生涯、お
教師はまたも目頭を押さえた。
「陛下は君の美しさは女神の鳩の様だとまで言っているのに、そうもローマの神々を拒絶する発言は、どうか慎んでくれたまえ。皇太后殿下や皇后陛下は宜しく思っていない。」
「ぼくの踊りの価値があの凡庸な女狐に劣るのなら、ぼくは喜んでこの両脚を神のお返しするよ。」
「
「話を戻そう、
まだ続くのか、と、
「例えば、皇太后殿はご自分の美しさに大層自信がおありだ。何よりその政治手腕たるや、教養と賢さの具現と言っても良いだろう。でも、所詮その程度の女だ。」
「ほう、美しさと賢さ以外に、女性にはどんな価値があるというのかね? あの御方は女だてらに政治も出来る、優れた治世者だと思うのだが。」
「
「ローマ市民であるには、文明人でなければならないからね。どちらかの系譜に、文明人がいなくては。」
「ぼくのおじ様はローマ人の母親を持っていて、イスラエル国王の妾腹だったけど、先々代皇帝に奴隷と同じように処刑されたよ。」
「それは仕方がない、証拠が無かったんだから。君から聞いた生い立ちに関わっていそうなローマの軍人はいなかったしね。」
「そりゃそうだ! 誰が属国の地で強姦して女を孕ませてきたなんて語るバカがいるもんか! もしいたらぼくはこの足首の飾りでタマとサオをちょん切って喉に詰め込んでやるね!」
ひゅん、と、
「皇后殿も同じだ。彼女は貞淑で夫に尽くすと言う意味では良い妻で、市民からの人気もあるという意味では良い妃と言えるだろう。でも所詮は男ありきの価値だ。女は男に寄らずとも神に愛され、男に愛されるべきだ。夫が妻を愛さないのに、皇帝殿が市民を愛せるもんかい。」
「む、むう…。」
「そんなお二人も、見えていない所ではお互いが煩わしくて仕方ないと見た。でもぼくは知っているぞ、皇太后殿が皇后殿の乳房を非難してる時、あの女の背中には吹き出物が出来てるし、皇后殿が皇太后殿の衣服の乱れを非難している時、あの女の背中のリボンが解けてるんだ。」
「我々は自分の眼に他人の、自分の背に自分の欠点を持つと?」
「センセイ、頭イイね。」
「では、我々は『自分の背』をどうやった見る事が出来よう? 殊更、皇帝と言う地位は、背中を政治家に見せず、臣民には正面を見せずにいなければならない。両者が皇帝陛下を敬うには、どうすべきだろうか?」
「そんなことは簡単だ。神のように暮らし、神として臣民の前に君臨するのではなく、神と共に暮らし、神の子として臣民に抱擁し合うべきだ。全ての人間は、ただお一人、神にのみ服従し、その裁断に身を委ね、その愛を信仰するべきだ。神の前に誰かよりも優れた存在であろうとするその臆病さが、残忍さを生むんだよ―――例えば十字架刑のような。」
「ちょいちょいそれを君は気にするが、頼むからお三方の前で言わないでくれたまえよ。」
「お三方に問われなければね。」
この方をお守りせねば、と、
それが出来る立場の筈だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます