第三十六節 教師

 皇子が十三歳の時、彼は皇帝の後妻の継子ではなく、皇帝の正式な養子となり、翌年には成人を迎えた。その後十六歳で、養父となった第四代皇帝が亡くなると、すぐに第五代皇帝として即位した。新皇帝の母―――皇太后はこの結果を待ち望んでいて、宮殿には皇太后による毒殺疑惑が瞬く間に広まった。そしてそれを唆したのが、柳和やなぎわという噂まで広がった。皇子時代から、寵愛をはねつけていたのは、『皇帝』にしか興味が無かったからだ、と、邪推されたのである。しかし実際の所はと言うと、柳和やなぎわはそれにも興味を示さず、祝いの舞を踊るにしても、初めの楽団を気に入らなかった為、五度も楽団を代え、ようやく六度目の楽団の演奏で、一曲舞を奉納すると、ぷいっと引っ込んでしまった。若頭わかがしが居なくなってからというもの、柳和やなぎわの世話は、皇帝が用意した美少年がやろうとしたが、柳和やなぎわは女を所望した為、下女が態々雇われた。神槍しんそうは心底、柳和やなぎわのこの決断に傷ついたが、童女には自分にはない可愛らしさと愛嬌があるのだから仕方がない、と、自分に言い聞かせた。

 翌年、皇帝の義妹であり、第一皇后でもある先帝の娘の、弟が死去した。成人を翌日に控えたからである。現皇帝は第三皇帝の甥であるが、義弟は先代皇帝の実子である。もし成人して皇帝の公式相続人になれば、大きな脅威となる。皇太后の入れ知恵か、それとも皇帝の恐怖だったのか、神槍しんそうは考えないことにした。それでも、柳和やなぎわは皇帝の求めに応じて踊るという事はせず、皇帝は柳和やなぎわの踊りを見たいがために、様々な芸術家を呼び寄せる羽目になった。皇太后も皇后も、神たるローマ皇帝に遠慮なく楯突く柳和やなぎわを疎ましく思っていたが、そこで柳和やなぎわを庇ったのは、意外にも皇子時代から続けて仕えていた家庭教師の哲学者だった。彼は初めて、柳和やなぎわ神槍しんそうが、皇子時代の皇帝に会った時にいた、あの貴人であった。

 教師は柳和やなぎわの話す頭領や天眼てんがんの話に興味を持ち、ともすれば皇帝よりも多くの時間と回数を、柳和やなぎわの部屋で過ごした。その時は柳和やなぎわの要望で、神槍しんそうも槍を置いて部屋に入り、二人に茶席を整えるように命じられた。柳和やなぎわは政治にも軍事にも全く興味はなく、神槍しんそうを傍に控えさせて、宮殿の中を散歩したり、時には勝手に宮殿を堂々と出て行って、市井に誰かを探しているようだった。それがどちらの男を探しているのか、そこまで探る程、野暮ではないつもりだ。

「では君は、剣闘士は誇り高くも、勇ましくもないというのかね?」

 神槍しんそうは、柳和やなぎわの話を、恍惚の眼差しで食いついて聞く教師が、心底気持ち悪かった。柳和やなぎわとはもう十年以上の付き合いになる筈なのに、柳和やなぎわは一度たりとも神槍しんそうに触れないし、神槍しんそうに食事を手伝わせた事もない。ねぐらに居る時は、頭領と天眼てんがんに夢中だったから、と思っていれば紛らわせられたが、今、柳和やなぎわを最も良く知っているのは神槍しんそう以外に居ない筈なのに、柳和やなぎわは食事を一緒に摂る事こそすれ、その唇にパンや葡萄酒を乗せる奉仕は許してくれなかった。それが無性に寂しい。若頭わかがしに出来て、自分に出来ないということが、尚の事腹立たしくもある。

「あんなものを歓ぶのは、少なくとも文明人じゃないね。それは律法学者たちが、どうやって鮮やかにそれらしく、老いた妻を捨てるか議論しているのと似てる。本当の弱者に目を向けず、自分の持ってるものに酔いしれる。愚かで浅薄で、ぼくはちっとも尊敬できない。」

「成程、君は臆病だとか、腰抜けとか言われる人の方が、尊敬できるということかね?」

「そうとも言うね。でも彼等を臆病とか腰抜けとか腑抜けとか不能とか無能とか言う連中は、自分達が臆病で腰抜けで腑抜けで不能で無能の根性なしの恥知らずということを知らないんだ。だから本来なら教えてあげるのが、智者なのでしょうが、生憎ぼくはそういう傲慢な知恵者は嫌いでね。でもセンセイみたいに、ぼくを上辺で判断しない冷静さを持った人間には、ぼくは敬意を表してるつもりだよ。」

「では、もし儂がそのような臆病とか腰抜けとか言われる人々を、君の言う文明人に近づけるには、どのように説教をしたらよいか、分かるかね?」

「それは、センセイが権威的に、最も難しくて手っ取り早い方法を提唱して、実践する事さ。」

「難しくて手っ取り早い…。例えば、施し、優しさなどだろうかね?」

「うん、そうだと思う。」

「では柳和やなぎわ、君はそう言う様な行いをしてもらったから、そう言う風に考えるようになったのかね?」

「考えると言うより、教えてくれたんだ。」

「それが、以前言っていた、『おとうさま』と『おじさま』なのかね?」

「そう。あの二人の死際に、お傍にいることは出来なかったけど、おじ様の死体はぎりぎりまで棄てられないように努力したよ。あの判決は間違いだったと、ぼくはいつでもローマ皇帝に訴え出る気概でいるよ!」

「すまない、嫌な事を思い出させた。しかし今殿下―――皇帝陛下は、義弟御のことや皇太后様とのことで酷く悩んでおられる。今は時期ではない。」

「ほんとかな?」

 あまりに同じことを考えていて、神槍しんそうは吹き出しそうになった。教師は目頭を押さえ、答えた。

「陛下は、純粋な御方なのだ。だから騙されやすい。陛下を正しく導いて行くことが出来れば、陛下の生まれ持ったカリスマを存分に活かすことが出来、民も幸せになれよう。」

「でもその民というのは、ローマ市民であって、ぼく達イスラエル人を含めた属国のことではないんでしょう?」

「それは違うぞ、柳和やなぎわ。ローマ人と言う優れた学問を修めた治者がいて、初めて学の無い国や進展の遅れた国は平和になる事が出来るのだ。見給え。」

 そう言って、教師は宮殿の窓から、柳和やなぎわにローマを一望させた。お前も、と、眼で促され、神槍しんそうも窓の近くに寄る。木造の街並みが続き、競技場の他、高い集合住宅も至る所に見える。十四に分割されたローマ市内だけで、百万人以上が暮らす。初めにこの地に降り立った時のアンティウムなど、地方都市を加えれば、もっと人口は膨らむだろう。その成長が急激であることは、道の狭さや、集合住宅の多さから分かる。生活基盤の整備が、人口に追いついていないのだ。

「帝政ローマになり、人口は大台に乗った。今までにない程、ローマは栄えている。今は街が狭くて火が出るが、今に皇帝の芸術的な都市計画が実現すれば、それも無くなろう。」

「芸術ねえ? それは、人が生きる上で大事な物かしら。」

「大切だとも。人生を豊かにするものを、皇帝は護られる。御自ら、ローマ芸術の保護者を公言することは並々ならぬ御覚悟があるのだ。今度│柳和やなぎわ、君も皇帝浴場に行って見ると良い。風呂はいいぞ。裸というものは、その人が常日頃どのような鍛錬を積んでいるのか、如実に表すのだ。君ほどの踊り子なら、さぞかし美しい曲線美を持っていよう。もっと布の少ない服の方が、その肉体美を活かせると、私も皇帝陛下も、皇后陛下でさえも考えているのだがね。」

 すると柳和やなぎわは唇を真一文字に引き結び、わなわな震えて、軽蔑の眼差しを送り、触れようとした掌からくるりと逃げて言ってのけた。

「裸になるだけなら獣でも出来る。ぼくは人間だ。人間らしい姿で暮らして、人間のために踊る。」

「中々君が楽団を気に入らないので、皇室の予算繰りが難しいと、財務大臣が嘆いていたよ。折角この程、属州を全部合わせて国庫を一本化したと言うのに、ちっとも安心できないとね。」

「何度でも言うよ、センセイ。ぼくは生涯、お頭様とうさまとおじ様の竪琴と歌じゃないと踊るつもりはないんだ。それに匹敵する楽団を、文明の都とやらで見たことが無いね。あの二人の音楽は、神から来る音楽だ。その為になら一晩でも二晩でも踊れるよ、神が音楽を通してぼくに力を下さるからね。」

 教師はまたも目頭を押さえた。

「陛下は君の美しさは女神の鳩の様だとまで言っているのに、そうもローマの神々を拒絶する発言は、どうか慎んでくれたまえ。皇太后殿下や皇后陛下は宜しく思っていない。」

「ぼくの踊りの価値があの凡庸な女狐に劣るのなら、ぼくは喜んでこの両脚を神のお返しするよ。」

柳和やなぎわさん!」

 神槍しんそうは慌てて廊下に出て、誰もいない事を確認する。今は皇帝が執務室にいるのか、警備は手薄だ。ふう、と、緊張が解け、背を扉に預けて溜息を吐く。

「話を戻そう、柳和やなぎわ。では君は、このローマの平和が続くのに、優れた芸術的才能ではなく、温かな人間愛が必要だと、そしてそれが今の皇帝陛下に足りないものだというのだね?」

 まだ続くのか、と、柳和やなぎわは嫌な顔をしたが、そうだよ、と、足先で椅子の足を引き寄せると、それに座った。当然教師は立ったままだが、気にしない。

「例えば、皇太后殿はご自分の美しさに大層自信がおありだ。何よりその政治手腕たるや、教養と賢さの具現と言っても良いだろう。でも、所詮その程度の女だ。」

「ほう、美しさと賢さ以外に、女性にはどんな価値があるというのかね? あの御方は女だてらに政治も出来る、優れた治世者だと思うのだが。」

世界ローマを統治し、人民ローマンを統治するのが、お前達ローマ人の精々だろう? その治世は過去と現代にあって、未来にはない。あったとしてもその未来は、常に他国を踏み台にしたもので、万人のものじゃない。―――イスラエル人は現に、人民ではないだろう?」

「ローマ市民であるには、文明人でなければならないからね。どちらかの系譜に、文明人がいなくては。」

「ぼくのおじ様はローマ人の母親を持っていて、イスラエル国王の妾腹だったけど、先々代皇帝に奴隷と同じように処刑されたよ。」

「それは仕方がない、証拠が無かったんだから。君から聞いた生い立ちに関わっていそうなローマの軍人はいなかったしね。」

「そりゃそうだ! 誰が属国の地で強姦して女を孕ませてきたなんて語るバカがいるもんか! もしいたらぼくはこの足首の飾りでタマとサオをちょん切って喉に詰め込んでやるね!」

 ひゅん、と、神槍しんそうは股間を押さえた。柳和やなぎわは自分で言っていて怖くないのだろうか。

「皇后殿も同じだ。彼女は貞淑で夫に尽くすと言う意味では良い妻で、市民からの人気もあるという意味では良い妃と言えるだろう。でも所詮は男ありきの価値だ。女は男に寄らずとも神に愛され、男に愛されるべきだ。夫が妻を愛さないのに、皇帝殿が市民を愛せるもんかい。」

「む、むう…。」

「そんなお二人も、見えていない所ではお互いが煩わしくて仕方ないと見た。でもぼくは知っているぞ、皇太后殿が皇后殿の乳房を非難してる時、あの女の背中には吹き出物が出来てるし、皇后殿が皇太后殿の衣服の乱れを非難している時、あの女の背中のリボンが解けてるんだ。」

「我々は自分の眼に他人の、自分の背に自分の欠点を持つと?」

「センセイ、頭イイね。」

 柳和やなぎわはどこまでも小馬鹿にしたように笑った。教師は柳和やなぎわの傍に跪き、請うた。

「では、我々は『自分の背』をどうやった見る事が出来よう? 殊更、皇帝と言う地位は、背中を政治家に見せず、臣民には正面を見せずにいなければならない。両者が皇帝陛下を敬うには、どうすべきだろうか?」

「そんなことは簡単だ。神のように暮らし、神として臣民の前に君臨するのではなく、神と共に暮らし、神の子として臣民に抱擁し合うべきだ。全ての人間は、ただお一人、神にのみ服従し、その裁断に身を委ね、その愛を信仰するべきだ。神の前に誰かよりも優れた存在であろうとするその臆病さが、残忍さを生むんだよ―――例えば十字架刑のような。」

「ちょいちょいそれを君は気にするが、頼むからお三方の前で言わないでくれたまえよ。」

「お三方に問われなければね。」

 この方をお守りせねば、と、神槍しんそうは胸に手を当てて誓った。幸いにも神槍しんそうは、皇帝お抱えの踊り子の警備隊長だ。

 それが出来る立場の筈だった。

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