第三十五節 皇子
海路での旅は長い。陸路であれば、地面はいつでもそこにあるが、海路の『地面』は、うねっているのだ。真っ直ぐ進んでいるつもりで東へ西へ、北へ南へずれることは当たり前だし、沖に出てしまえば、星だけを頼りにそのずれを修正しなければならない。そしてそれは、船員の判断しか寄る辺が無い。幸いにも、
これからは陸路だ、と、
夜だと言うのに、街は松明の光で照らされ、何かの祭りが催されていた。宿が大通りから少し離れていたのは、これを考慮されたのかもしれない。広場まで来ると、
貴人は膝に五才くらいの子供を抱いて、踊り子が仲間の奏でる演奏に合わせて踊るのを見ていた。
「貴殿か? イスラエルで生きていた槍兵というのは?」
「然様にございます。今は百人隊長を命ぜられましたが、まだ部下はいません。」
「殿下! いけませんぞ、挨拶もなく!」
「せんせい、こいつ、わらいません! ボクにたたかれたのに!」
貴人の主人らしい子供は、きゃっきゃっと上機嫌に笑い、ぺんぺんと
「うわああ…。」
「?」
子供は
「せんせい! せんせい、どうしてこのひとはこんなにきれいなのですか?」
「は?」
あまりにも直球な告白に、
「申し訳ありません、殿下はこの度、皇帝陛下が成功あそばしましたブリタンニア遠征の凱旋で、初めて間近に市井の者を見たのです。」
「せんせい、せんせい! このひとのきものも、とてもきれいです。このひとにおどってほしい!」
その言葉が聞こえたらしく、踊り子の主人らしき芸人が抗議しようと近づいてきた。
「殿下、お約束が違います! 今晩は私の一団だけを観て下さる契約です。」
「だって、このひとのほうが、きれいだ。ボクはこのひとにおどってほしい!」
「えぇ…。」
物凄く面倒くさそうに、
「殿下、契約は大切です。第四代皇帝陛下の御子たる者、契約をおいそれと反故にしてはなりません。」
「なら、ふたりでおどればいい。ねえ、ボクのためにおどるよね。」
「嫌です。」
バッサリと切り捨てた。流石の
「殿下、男の子が泣く物ではありません。」
「
貴人の胸でぎゃあぎゃあと泣き喚く子供に頭を下げさせようと、
「
「どんなにワガママが言える身分なのか知らないけど、ぼくはお
「申し訳ございません、彼はイスラエルから出たことが無いのです。その後もずっと船旅で―――」
とにかく首を刎ねられないように、
「せんせい、せんせい、ボクはおこりました。ぜったいにおどってもらいます。だからきゅうでんに、いっしょにつれかえってください。」
「百人隊長、その人は貴方の部下ですか?」
鼻水を啜りながら、幼い尊厳を傷つけられた子供が睨む。しかしそのような視線も、
「ええと…その…。」
「おじうえにたのんで、おまえのくらいをあげてあげます。だから、さんにんいっしょに、きゅうでんにきなさい!」
それを聞いて、
「おじうえは、ローマこうていなんだ! このせかいにおりてきた、かみさまのこなんだぞ! おじうえにできないことは、なにもないんだから! おまえをぜったい、ボクのおどりこにしてやるんだから!」
「…皇帝…? それは本当? この子は皇帝の縁者ですか?」
「殿下は、第三代ローマ皇帝の妹君の御子息であられます。」
「………。ぼくの知っているローマ皇帝は、まだ二代目の筈ですが、その人はどこに?」
「その方は、恐らく第三代ローマ皇帝の叔父君であった方でしょう。三年前にお亡くなりになりました。」
「………。その子供が第三代ローマ皇帝の甥、そしてその第三代ローマ皇帝は、第二代ローマ皇帝の甥…。ということは、その事第二代ローマ皇帝は、その子供の先祖?」
「母方の大叔父に当たります。父方も、初代皇帝の妹御の系譜のお方です。この方は、純血なるローマ皇族の御子です。」
「………。」
しかし
「………。悪かったよ、坊や。ぼくがちょっと大人気なかった。宮殿に入れてくれるなら、踊ってあげる。でも今日は、船でこの街に着いたばかりだから、休みたいんだ。明日以降、ぼくが納得できる上手な楽団を呼んでくれる?」
「………。」
子供はじっとりと
「ほめてつかわす。」
多分あんまり言ったことないんだろうな、と、
それは、頭領と
後の第五代ローマ皇帝は、この時まだ第四代ローマ皇帝の『養子』ではなく、芸術に強い興味を示していた、僅か七歳の純朴な少年であった。
翌日宮殿に召し上げられると、三人は第四代皇帝に謁見した。皇帝は
しかし要するに、彼等の信頼を得ていないだけだったので、
「
都心近くの競技場までやってきて、
「ん? なんだこれ。」
「喉仏の骨。柔らかくてカサカサになってるから、脆いけど。」
「………。
「!
顔を上げて迫ってきそうだったので、
「分かった、というか…。この前、皇后様の誕生日の宴に、卵が献上されたの覚えてるか?」
「ん? あのちっさい白い、ぶにぶにしたやつ?」
「そう、卵をゆでて殻を向くとあんな風になるんだ。過越祭の時に食べただろ?」
「あ、あれと同じなの。」
「聞いてみたら、あれは最近ローマに流行りだした、貧困層からの献上品らしいんだ。その流行は、先々代皇帝の時代に、ある旅団が自国での一番の捧げものとして献上したらしいんだ。」
「せんせんだいって、なんだいまえでい。」
「………。にだい前だよ。」
「その話を聞くと、どうやらその旅団は、あの十字架の魔術師を、救い主と信じる一団だったらしい。今でもローマには、彼等の影響を受けた人々がいるらしくて、社会問題になりかけてる。」
「………。」
「
「………。」
「魔術師と皇帝が争ったら、間違いなく皇帝が勝つ。ローマ皇帝に出来ない事は無いからな。…でも、ぼく達で何かが出来るのであれば、出来るのなら、処刑に繋がらない方がいい。だからお前は、魔術師の残党を見つけ出して、そのままローマから追い出してほしいんだ。その後は二人でどこにでも行け。」
「…なるほどねえ。」
「よっしゃ。お前は宮殿暮らしで、あっしゃドブで、
「うん。」
「分かったよ。頭領程じゃねえだろうが、立派に賊を纏めてみせらぁ!」
以後二人は、死の間際まで、再会することは無かった。
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