第三十五節 皇子

 海路での旅は長い。陸路であれば、地面はいつでもそこにあるが、海路の『地面』は、うねっているのだ。真っ直ぐ進んでいるつもりで東へ西へ、北へ南へずれることは当たり前だし、沖に出てしまえば、星だけを頼りにそのずれを修正しなければならない。そしてそれは、船員の判断しか寄る辺が無い。幸いにも、若頭わかがしは七日間を数えきることが出来なかったし、柳和やなぎわも二十日間以降が怪しく、神槍しんそうは一カ月を数えきる事が出来なかった。どれほど航海が遅れているのかは、出される食事で何となく察するしかない。ローマはアンティウムに到着した時、イスラエルを出発してどれくらい経っていたのか、分からなかった。ただ、その期間は一年や二年ではなかったであろう。少なくともその期間で、柳和やなぎわは勿論、若頭わかがしもラテン語が閊えるようになるくらいの長さを過ごした。

 これからは陸路だ、と、神槍しんそうが告げた時、若頭わかがし柳和やなぎわを抱き上げて喜んだ。神槍しんそうは自分を迎えに来ていた百人隊に挨拶を手短にすませると、彼等に若頭わかがし柳和やなぎわを旅芸人として紹介した。今日はこの街ので一泊することになるというので、柳和やなぎわは船の中でも、求められて興が乗れば応じて踊った。不安定な足場で踊った事で、柳和やなぎわは踊りに益々磨きがかかった自信があった。どれくらいのおひねりがもらえるのか、試してみたいと言い出したので、若頭わかがし神槍しんそうを引き連れ、大通りまで行く事にした。

 夜だと言うのに、街は松明の光で照らされ、何かの祭りが催されていた。宿が大通りから少し離れていたのは、これを考慮されたのかもしれない。広場まで来ると、神槍しんそうの身形を見た兵士が、すぐに広場で歓迎されている貴人の元へ連れて行ってくれた。ぎらぎらと目に見えて殺意に満ちる柳和やなぎわを制しながら、若頭わかがしが半歩後ろを歩く。

 貴人は膝に五才くらいの子供を抱いて、踊り子が仲間の奏でる演奏に合わせて踊るのを見ていた。

「貴殿か? イスラエルで生きていた槍兵というのは?」

「然様にございます。今は百人隊長を命ぜられましたが、まだ部下はいません。」

 神槍しんそうが跪くと、ぺちっと頭を叩かれた。こら、と、貴人が窘める。

「殿下! いけませんぞ、挨拶もなく!」

「せんせい、こいつ、わらいません! ボクにたたかれたのに!」

 貴人の主人らしい子供は、きゃっきゃっと上機嫌に笑い、ぺんぺんと神槍しんそうの頭を叩く。様子があまりにも和やかな事に疑問を持った柳和やなぎわが、若頭わかがしの後ろから顔を出すと、それを子供が目ざとく見つけた。

「うわああ…。」

「?」

 子供は柳和やなぎわをきらきらとした瞳で見つめ、とことこと近づいた。

「せんせい! せんせい、どうしてこのひとはこんなにきれいなのですか?」

「は?」

 あまりにも直球な告白に、神槍しんそう若頭わかがしは呆気にとられ、まるで自分が愛の告白をされたかのように紅くなった。が、柳和やなぎわは露骨に嫌な顔をした。

「申し訳ありません、殿下はこの度、皇帝陛下が成功あそばしましたブリタンニア遠征の凱旋で、初めて間近に市井の者を見たのです。」

「せんせい、せんせい! このひとのきものも、とてもきれいです。このひとにおどってほしい!」

 その言葉が聞こえたらしく、踊り子の主人らしき芸人が抗議しようと近づいてきた。

「殿下、お約束が違います! 今晩は私の一団だけを観て下さる契約です。」

「だって、このひとのほうが、きれいだ。ボクはこのひとにおどってほしい!」

「えぇ…。」

 物凄く面倒くさそうに、柳和やなぎわは溜息を吐いた。神槍しんそうはどことなく、この子供の親族にどんな地位の者がいるのか察していたが、恐らくそれを柳和やなぎわに伝えたところで、柳和やなぎわがハイワカリマシタとは言わないだろう。出来ればどうにか潜り抜けて欲しいところだ。

「殿下、契約は大切です。第四代皇帝陛下の御子たる者、契約をおいそれと反故にしてはなりません。」

「なら、ふたりでおどればいい。ねえ、ボクのためにおどるよね。」

「嫌です。」

 バッサリと切り捨てた。流石の若頭わかがしもこれは不味い、と、目を瞬かせている。子供は呆然と見上げていたが、柳和やなぎわが全く悪びれず、子供を見ようともしないで、ぽかんとしている旅芸人を見ているので、見る見るうちに涙を溜めた。あ、と、神槍しんそう柳和やなぎわを咎めようとした時、ああああっ、と、物凄い子供の泣き声が響いた。貴人が慌てて子供を抱き寄せて宥める。一緒に踊りを見ていた群衆は散り散りになり、旅芸人もすごすごと帰って行った。

「殿下、男の子が泣く物ではありません。」

柳和やなぎわさん、謝ってください、今なら大丈夫ですから!」

 貴人の胸でぎゃあぎゃあと泣き喚く子供に頭を下げさせようと、神槍しんそうは大急ぎで柳和やなぎわの頭を押して地面につけようとし―――強かに蹴飛ばされた。今までで最も強く拒絶されたことに、神槍しんそうは受け身を取る事も忘れて吹っ飛ばされる。一方で柳和やなぎわは、顔面蒼白になり震えていた。酷い恐怖で怯えているようだった。

柳和やなぎわさん? 大丈夫か?」

 若頭わかがしがひらひらと顔の前で手を振ると、柳和やなぎわはハッと我に返り、深呼吸をし、顔を背けた。

「どんなにワガママが言える身分なのか知らないけど、ぼくはお頭様とうさまとおじ様のためにしか踊らない。だからお前には踊らない。」

「申し訳ございません、彼はイスラエルから出たことが無いのです。その後もずっと船旅で―――」

 とにかく首を刎ねられないように、神槍しんそうは貴人と子供の前に跪いて頭を下げ、赦しを乞った。若頭わかがしも見様見真似で跪くが、柳和やなぎわはぷいっとそっぽを向いて深呼吸をしている。

「せんせい、せんせい、ボクはおこりました。ぜったいにおどってもらいます。だからきゅうでんに、いっしょにつれかえってください。」

「百人隊長、その人は貴方の部下ですか?」

 鼻水を啜りながら、幼い尊厳を傷つけられた子供が睨む。しかしそのような視線も、柳和やなぎわは涼しい顔で受け流していた。

「ええと…その…。」

「おじうえにたのんで、おまえのくらいをあげてあげます。だから、さんにんいっしょに、きゅうでんにきなさい!」

 それを聞いて、柳和やなぎわは初めて子供を見た。子供はぼろぼろ涙を溢しながらも、指を突き付けて言った。

「おじうえは、ローマこうていなんだ! このせかいにおりてきた、かみさまのこなんだぞ! おじうえにできないことは、なにもないんだから! おまえをぜったい、ボクのおどりこにしてやるんだから!」

「…皇帝…? それは本当? この子は皇帝の縁者ですか?」

 柳和やなぎわが貴人に聞くと、貴人は答えた。

「殿下は、第三代ローマ皇帝の妹君の御子息であられます。」

「………。ぼくの知っているローマ皇帝は、まだ二代目の筈ですが、その人はどこに?」

「その方は、恐らく第三代ローマ皇帝の叔父君であった方でしょう。三年前にお亡くなりになりました。」

「………。その子供が第三代ローマ皇帝の甥、そしてその第三代ローマ皇帝は、第二代ローマ皇帝の甥…。ということは、その事第二代ローマ皇帝は、その子供の先祖?」

「母方の大叔父に当たります。父方も、初代皇帝の妹御の系譜のお方です。この方は、純血なるローマ皇族の御子です。」

「………。」

 柳和やなぎわが何を確認しようとしたのか、神槍しんそうはすぐに分かった。つまり、柳和やなぎわは眼の前の子供に取り入る事で、自分の家族を殺したローマ皇帝―――第二代ローマ皇帝にどう復讐できるかと考えたのだろう。しかし自分達の船旅が思った以上に長かったらしく、二代も代替わりしていたなんて、と、柳和やなぎわが内心歯ぎしりしていることは分かる。仮に復讐した所で、あまりに血が遠すぎる。柳和やなぎわの復讐心は満たされないだろう。

 しかし柳和やなぎわは膝を曲げ、子供に言った。

「………。悪かったよ、坊や。ぼくがちょっと大人気なかった。宮殿に入れてくれるなら、踊ってあげる。でも今日は、船でこの街に着いたばかりだから、休みたいんだ。明日以降、ぼくが納得できる上手な楽団を呼んでくれる?」

「………。」

 子供はじっとりと柳和やなぎわを見つめる。柳和やなぎわは作り笑いをする事もなかったが、敵意を隠そうと必死だと言う事も見て取れた。子供は頷き、柳和やなぎわの頭をよしよしと撫でた。

「ほめてつかわす。」

 多分あんまり言ったことないんだろうな、と、神槍しんそうは思った。柳和やなぎわはひくひくと引き攣った笑みを浮かべ、よろしくね、と、言った。


 それは、頭領と天眼てんがんの死から七年後の事だった。

 後の第五代ローマ皇帝は、この時まだ第四代ローマ皇帝の『養子』ではなく、芸術に強い興味を示していた、僅か七歳の純朴な少年であった。


 翌日宮殿に召し上げられると、三人は第四代皇帝に謁見した。皇帝は神槍しんそうに、二人の出自について細かく尋ねようとしたが、柳和やなぎわ若頭わかがしの手拍子に合わせて踊ると、絶賛して細かい事は抜きにして、お抱えになるようにと命じた。神槍しんそうが申し出る間もなく、柳和やなぎわの警護を命じられ、その為の百人隊を与えられた。若頭わかがしは特に楽器が弾ける訳ではなかったし、歌も上手ではなかったが、柳和やなぎわが頑として若頭わかがし以外の歌声でも堤でも踊らなかったんで、どうにか離れずに済んだと言ったところだった。若頭わかがしと離れると、柳和やなぎわの為にパンを裂いたり、杯を取る人がいなくなってしまう。神槍しんそうは未だに、その名誉に預かった事はない。

 柳和やなぎわは踊りの美しさの他に、鼻持ちならない高慢で見下した態度が、魅力的に映っていたようだった。神槍しんそうは皇族の事情は知らないが、今の皇帝がとても健常者とは言えない、軽い中風のような男だったことから、何となく察する事が出来た。身体が不自由になったのは、生まれつきなのか、それとも毒を盛られたか。それに似合わず、その政治手腕は優れており、若頭わかがしの素性を三日後には調べ上げ、神槍しんそうに処刑を迫った。若頭わかがしが投獄されたのは二代前の皇帝の時だったが、それでも大罪人を宮殿に入れる訳にはいかない、と、言った。皇子は柳和やなぎわを気に入ってはいたが、無教養でゲラゲラ笑うだけの若頭わかがしのことは寧ろ疎ましく思っていたようで、皇子から『贈り物』まで贈られてしまった。

 しかし要するに、彼等の信頼を得ていないだけだったので、神槍しんそう若頭わかがしに逃げられてもらうことにした。殺すために宮殿の外に連れ出した時には、もう若頭わかがしも察していて、いつも部屋に置いている物をいくつか上着の中に忍ばせていた。それでも神槍しんそうが殺してくるか、逃がしてくるかは、あまり考えていなかったようだ。

若頭わかがし、お前に渡したい物がある。」

 都心近くの競技場までやってきて、神槍しんそうはイスラエルに居た時から言い出せなかったことを言い出した。この数年間、沐浴の時も肌身離さなかった小さな布袋を首元から取り出し、若頭わかがしに渡した。

「ん? なんだこれ。」

「喉仏の骨。柔らかくてカサカサになってるから、脆いけど。」

 若頭わかがしは布袋を開けて、月の光が入るように動かした。

「………。若頭わかがし蘭姫あららぎひめの事、まだ愛してるのか?」

「! ひいさんのこと、何か分かったのか!?」

 顔を上げて迫ってきそうだったので、神槍しんそうは手を突っ張って落ち着かせた。

「分かった、というか…。この前、皇后様の誕生日の宴に、卵が献上されたの覚えてるか?」

「ん? あのちっさい白い、ぶにぶにしたやつ?」

「そう、卵をゆでて殻を向くとあんな風になるんだ。過越祭の時に食べただろ?」

「あ、あれと同じなの。」

「聞いてみたら、あれは最近ローマに流行りだした、貧困層からの献上品らしいんだ。その流行は、先々代皇帝の時代に、ある旅団が自国での一番の捧げものとして献上したらしいんだ。」

「せんせんだいって、なんだいまえでい。」

「………。にだい前だよ。」

 若頭わかがしは本当に、数字が苦手だ。神槍しんそうは調子を崩されながらも、話を続けた。

「その話を聞くと、どうやらその旅団は、あの十字架の魔術師を、救い主と信じる一団だったらしい。今でもローマには、彼等の影響を受けた人々がいるらしくて、社会問題になりかけてる。」

「………。」

若頭わかがし、お前言ってたよな。瑠璃妃るりきさき殿が十字架の魔術師の元にいるってこと、その近くに蘭姫あららぎひめもいること。とはいえ、瑠璃妃るりきさき殿の体力で、ローマまで来るとは思えない。恐らく彼女はイスラエルか、その近郊にいるだろう。ということは、先々代…二代前の皇帝に卵を献上したのは、多分│蘭姫あららぎひめだ。もしかすると、まだ残っているかもしれない。この喉仏を、蘭姫あららぎひめの父君の形見として渡してやってほしい。お前がそれを持っていて、父君が望むのなら、また蘭姫あららぎひめと再会できるかもしれない。」

「………。」

「魔術師と皇帝が争ったら、間違いなく皇帝が勝つ。ローマ皇帝に出来ない事は無いからな。…でも、ぼく達で何かが出来るのであれば、出来るのなら、処刑に繋がらない方がいい。だからお前は、魔術師の残党を見つけ出して、そのままローマから追い出してほしいんだ。その後は二人でどこにでも行け。」

「…なるほどねえ。」

 若頭わかがしは紐を自分の首に結び直して、答えた。

「よっしゃ。お前は宮殿暮らしで、あっしゃドブで、ひいさんを守ればいいんだな!」

「うん。」

「分かったよ。頭領程じゃねえだろうが、立派に賊を纏めてみせらぁ!」

 若頭わかがしは笑顔を浮かべたまま、暗闇へ引きずり込まれるように消えて行った。

 以後二人は、死の間際まで、再会することは無かった。


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