第三十四節 海路
十字架刑から十日後、モレの丘で
頭領と
港の倉庫に隠れていた
「この裏切り者!! よくも生きていられたな!!」
「やなぎわさん…。生きていたんですか。」
「勝手に殺すな! …でもいい拾いものだよ、
「ぼくは
頭領の名を出され、
「ぼく達をローマに連れていけ。それで皇帝に会わせるんだ。」
「皇帝に? 何をしに?」
「決まってる! お
「それを、ぼくに手引きしろと?」
「そうだ。嫌とは言わせないぞ、この裏切り者! 恩知らずの恥知らず!!」
「丁度明日、ぼくはこの街の港から海路でローマに戻ります。何人かの商人達も一緒に行くので、旅券さえ正しければ大丈夫な筈です。」
「そんな金、ぼく達が持ってるわけないだろう。お前が用意しろ、
分かりました、と、
乗り込んだ船は、ローマとの交易船らしく、
それは、何度目の酒盛りだっただろうか。
「あの真ん中の十字架の魔術師、結局ナニモンだったんだろうな。」
「ああ…、それだけど。どうも信奉者が、色んな所に湧いてるらしくて…。ぼくが海路で戻るように言われたのも、信奉者に襲われないようにするためなんだ。」
「そりゃ、あっしでも手古摺るような連中なんで?」
「下手な兵士よりもよっぽど質が悪い。今やイスラエル中の牢屋はユダヤ新派の奴らでいっぱいさ。どんな拷問をしようと尋問をしようと、喜んで死んでいく。奴の使った魔術は悪質だよ。」
「死んだって何にもなんねえのに。」
「………。」
その言葉に棘は無かったが、
「あー…。母ちゃん思い出すな、この硬さ。」
「母親を覚えてるのか?」
「ホントの母ちゃんじゃねえ。預言者の婆さんだよ。アニィを拾った後、あっしも拾ってくれたんだ。」
「ふぅん…。」
「そう言えば、もうお前を浚ってから三年以上経ってるんだよな。ローマ帰ったら、家に行くのか?」
「………。」
「行かないよ。あそこにぼくの母さんはいないから。それだったら、皇帝陛下に気に入られるように努力するよ。」
「そう、それだ。向こうに行くまでに、あっしのオツムに少しゃあ入れておかねえと。
「………。意外だな、
「んだよ。あっしだって好き好んで血ィ流す訳じゃねえよ。ただ血ィ使わねえと、話が進まないだけでい。…それに、十字架はもう見たくねえ。…死体は皆、墓に入って欲しい。」
「
「………。」
「ぼくも
二の句が継げず、
「…赦せってか?」
「ムシが良すぎるのは分かっている。でもぼくだって、好きでそうしたわけじゃないんだ。その理由を話してからでも、ぼくを裁くのは遅くないだろう?」
「………。」
その日は結局、何も結論が出なかった。その次の日も、次の日も、結論は出なかった。しかし
その一方で、
海は荒く、三人は常に難破と沈没の恐怖の中にありながら、その恐怖を共有することは出来なかった。ただその海の荒さだけが、
漂流のような航海を続けるある日の夜、彼等は夢を見た。
その時、休憩所があるのが見えた。そこには一人と一匹が座っており、男の胸には白くて美しい鳩が収まっていた。彼等の後ろには、大きな岩室が口を開けていた。
「お疲れなら、休んで行かれてはどうですか。」
男が真槍にそう言った。真槍は頭を振って答えた。
「でも、この十字架はとても背負いにくくて運びにくくて、すごく重いのです。もし休んだら、休んだ分だけ、十字架を運んでいなければなりません。」
「それは大変です。では、この室の中の十字架と取り替えると良いでしょう。ゴルゴダはまだ遠い。そんな身体に合わない十字架を運んで行っても、向こうで大きさが合わないと大変です。」
想像して背中が寒くなり、
「良いものが見つかったようですね。」
「はい、ありがとうございます。とても担ぎやすいものがありました。」
「ゴルゴダはあちらですよ。」
「ええ、では、つとめに行ってきます。」
「お気をつけて。」
「くるるん。」
鳩も応援するかのように鳴いた。
辺りがゆっくりと光って行き、ああ、これは夢だったのだ、と言う妙な安心感の中、目を閉じる。その時、後ろの方で声がした。
「主よ、どの十字架が持っていかれましたか?」
「いいや、どれも持っていかれていないよ。彼が来る前と同じだ。」
「アニィ! 盗って来たぜ。」
「お帰り、
「してないよ。さ、食べよ。」
「ああ、食べよう。何を手に入れたの?」
「パンと、たまご。」
「何だって? 卵を取って来たって?」
「うん。」
すると兄は、
「お前ね、盗る時は乞食や
「???」
「教えなかったかい、卵は貧困層のお祝い事で使う大切な食べ物だ。本当にお前が盗るべきなのは、卵でも羊でもなく、牛だと教えた筈だよ。」
「え…。でも、これ…。誰から盗ったのかわかんねえ…。」
「………。はぁ、仕方がない。それは私が食べよう。お前はパンだけお食べ。」
「えー! なんでぇ!?」
「もし卵の匂いが口に残ってたら、その貧しい者は誰を憎む? お前は間違えただけなんだから、パンだけ食べなさい。」
「アニィずるい! あっしだって食べたい! たまご食べたことない!」
兄と口論していると、誰かが歩いて来る事に兄が気付いた。卵と
「何を隠しているのですか。」
「お優しい旦那様、このような乞食の兄弟に何が出来ましょうか。弟は何日も、シロアムの池の水しか飲んでおりません。どうか施すと思って、見逃してください。」
「見せて御覧なさい。もっといいものと取り替えてあげよう。」
「マジ?」
「こら
「なになに、アニィ、どうしたの。」
覗き込んだとき、突然卵が割れた。驚いて兄の頭の後ろに隠れる。―――雛だ。卵はゆで卵ではなく、孵化寸前の卵だったのだ。
「わあ! 白い鳩が産まれた!」
「
「でも白いよ。ふわふわしててキレーだ。かわいい。」
「でもおっさん、こいつは殺して食べるのはもったいないけど、あっしは腹が減ってらぁ。」
「では、このパンを二人で千切ってお食べ。三つに千切って、一つをお前が、一つを兄が、一つを皿に置きなさい。自分の手元にあるパンを食べ終わったら、また皿に置いたパンを三つに千切って、同じように食べて、満腹になるまでそれを続けなさい。」
言われた通りに、
「アニィ、みっつってなんこ?」
「さんこだよ。にかい千切ってごらん。」
それから二人は、腹がいっぱいになってパンを残すまで食べた。満足した
「おとうさま。潮風が気持ちいいですね。」
そう言うと、手を繋いでいる男はこちらを向いて、薄らと笑った。
「この先にも何もありません。何処までも一緒に歩いて行けますね。ぼくはおとうさまとずっと一緒に歩きます。」
彼はまた笑って、
産まれて母に抱かれている自分、乳を貰う自分、寝かしつけられ微笑む自分…。画の中の自分は段々と成長し、佳人の母が見守る中、人知れず育っている。あまりにも幸せそうな母の姿を見つめていて―――気付かなかった。
ハッと気が付いた時にはもう遅く、空の画に『その光景』が、大きく映し出された。悲鳴を上げて身をかがめ、頭と耳と目を覆おうとしたが、その為に必要なものが今、ない事に気付く。
「あ、ああ、いやだ、いやだ、おもいだしたくない、いや、いや…。おとうさま!! おとうさま!!! 帰ってきてください、おとうさま!!! パンも葡萄酒も魚もいりません、一緒に居てください、今度こそ一緒に居てください、だめですだめです、ぼくはこの時以上に貴方を求めたりしないのに!!!」
堪えられず走り出して、
「ああ、ぼくのおとうさま、ぼくのおとうさま! ぼくを護る救いのお父さま! 貴方の代わりに、ぼくが十字架で死ねばよかったのに!! ぼくの方がずっと汚くて卑しくて、裁かれるべき大姦婦だったのに。ああ、おとうさま、ぼくのおとうさま、ぼくだけのおとうさま!」
「どうした? 怖い夢を見たようだが。」
「………?」
丸くなった
「安心しなさい、あの一つだけ残った足跡は、私のものだ。お前を抱いていたから、一つしかないのだよ。それに、あの十字架は誰も、身代わりも出来ないものだったんだ。そう自分を簡単に投げ捨てるんじゃないよ。」
「投げ捨てるなんて…。だって、ぼくは、この先の人生、全てを、お
「その気持ちを持ち続けなさい、そうすることで生かすことができる。しかし時にはその気持ちを置きなさい、そうすることで生きる事が出来る。」
腕と自分の身体の輪郭が薄く溶けて行き、混ざり合うような感覚が支配して行く。先程見てしまった雲の画を、早風が書き崩していく。
「さあ、目覚めなさい。私の平和のうちに。」
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