第三十三節 墓穴
貰った香料は、袋を開けると忽ち激臭となって辺りに広がった。女達は急いでその香料を
「………。あ。」
「あ、あああああ! いる! いるよ、墓持ってそうなの!」
怯えていた女子供が、バッと顔を上げる。
「エルサレムに
「でもそんな奴、まだエルサレムにいるか分からないわ。」
「いいや、あっしは十字架刑の時に、あの議員が真ん中の男を引き取ったのを見たぞ。罪人を入れる為の余分な墓を持ってるってこった。」
「そいつはどこにいるんだ?」
ずっと俯いて、存在感すらなかった
「議員やってんなら、エルサレムの上町のどこかにいる筈だ。あっしゃァ一っ走り行って来っぜ!」
アリマタヤの議員、というだけで、
「んが…? もう朝か?」
「おいおっさん。一年ぶりだが、あっしのことを覚えてるかい。エルサレムで死から蘇った
「………。」
議員は暫くじっと見ていたが、やがて目を輝かせた。
「おお! あの義人の! 覚えていますとも! いやあ、こんな良き日にまた出会えるとは、やはり貴方は神に愛された御方だ。」
しかし、その義人が十字架で死んだことは、分かっていないようだった。
「なあ、おっさん。確かあの十字架刑の時、真ん中の奴の死体を持ってったよな。てことはおっさん、墓持ってんのか?」
「ああ、そのことかね! いいとも、あの後起こった素晴らしい事について語り合おうじゃないか。さあそこに寝そべって、まだパンがあったはず…。」
「いやいや、そんなんじゃなくてさ。あっしらも墓に入れてやりてぇ、立派な死体があんだけどよ。おっさん、あっしに免じて墓貸してくんねえか? 一年前、奇跡を見た駄賃だと思ってさ。」
「貴方でも他の弟子の皆さんと同じような事を仰るのですね。少し安心しました。しかし私達が言う事は同じです。何故生きている方を死者の中に探すのか、と。」
どうも酔いが醒めて無いようだ。
「いや、あっしらが死体を持ってるンでえ。だから墓が必要なのよ。もう三日前の死体だ、これ以上は腐って動かせなくなる。」
「おや、貴方は復活したあの方を、まだご覧になっていないので?」
「復活も何も、まだこの世の終わりは来てねえよ。」
苛々しながら、
「これがその証拠です! │神と共に居られる
苛々、苛々。いらいらいらいらイライライライラ………。
議員は続けて何か喋っていたが、
「私はこの皿を、高弟十一人の頭になった御方に献上する心算なのですが、その時に血を洗い流すか流さないか、真剣に迷っていまして。」
「嘗めンじゃねぇやァ!!!」
ついに怒髪天を突き、
「てめぇが魔術師をどう拝んでようと知ったことかい! あっしゃァ正しい人の死体を入れる墓が欲しいんでぇ! 何も新しい真っ新な墓じゃなくたっていい。今エルサレムの墓場には番兵が居て、墓荒らしも出来ねえんだ! てめぇが持ってる墓に連れてってくンなきゃ、アニィが腐っちまう!!!」
「なんだ、なんだお前は! 強盗か!」
「強盗だ強盗だ! 人を呼べ!」
「墓を寄越せ!! 墓が必要なんだよ!!」
「皆さん、おやめになって!!」
その時、
「すみません、この人は悪い強盗ではないんです。ちょっと口下手で人よりあまり思慮深くないから…。彼の言い分を私が聞きますので、どうか他の方は出てください。この方はわたくしを傷つけませんし、殺しませんから。」
「
議員も出て行こうとしたので、流石に
「お墓、ということでしたけど、どうしましたの?」
「………。アニィが、ベン・ヒンノムの谷に棄てられないように、死体を持って来たのはいいんだけど…。香油も何もなかったから、腐るのが早いんだ。そろそろ墓に入れねえと、腐って崩れてぐちゃぐちゃになっちまう。」
「どうしてこの議員さんのお墓が欲しいのですか?」
「一年前、アニィがエルサレムで奇跡を起こした時、このおっさんが居合わせたんだ。アニィがあっしを蘇らせたって、このおっさんがあっしに教えてくれたんだ。だからアニィがベン・ヒンノムの谷に棄てられなくて良い事を知ってる。」
すると
「………。
「そう。」
「でもね、
「なんで? アニィが正しい人だった事も、大王の子孫のことも知ってんだろ? 父親がじゃない、正真正銘、アニィを産んだおっかさんが大王の子孫だったんだ。それに、あの眼の力だってある。あの人は水を湧き出させたり、怪我人を治したり、病気の子供を助けたりだってしたんだぜ。」
「ええ、そうなのだけど…。その、その力はね、あの御方にしかない筈…いえ、ないと、わたくし達は信じてるの。」
「何で? 妃さんも何度も見ただろ? あっしァ嘘言ってねえだろ?」
「勿論よ。
「ほんもの?」
実際に見聞きしたものに、偽物も本物もあるだろうか。
「今回、三人が十字架上で亡くなったけど、あの方たちの罪状書きを読みました?」
「遠くてよく見えなかったし、難しい言葉が書いてあったからよく覚えてねえ。」
「罪状書きには無かったのですけど、主訴…訴えの上では、三人とも『
「とくしん???」
「つまり、神を
「ああ、それなら知ってる。あっしが解放される時にも有象無象が怒鳴ってたの聞いた。」
「でも実際はそうではなかったのです。」
まあそうだろうな、と、
「中央の十字架にかかった方こそが、私達が待ち望んでいた預言の王だったことが分かったのです。その根拠に、今朝、その人は
「
思わず前のめりになった
「
「…??? 妃さん、あっしゃそんなに難しい事が聞きたいんじゃねえ。墓が欲しいって話でさ。番兵がいるから、この議員のおっさんにいてもらわねえとなんねえんだ。」
「…主以外の方を、崇拝する行為に加担することは出来ません。」
それは、決定的な決別の言葉だった。だが
「すうはいって…そりゃ、そんけいとは違うのか? あっしらは、アニィが…死体捨て場には相応しくないから、大好きだから、いつでも優しくて助けてくれたから、だからちゃんとした墓に入って欲しいだけだ。別に議員の墓に拘ってる訳じゃねえ。ただあっしが、墓を持ってそうな奴を、こいつしか知らなかったってだけでさ。なんでそんな…。そんな………。」
そんな、××い事を。
その言葉がどうしても言えなかった。言って、肯定されたら、この場で暴れないでいる自信が無い。怒りよりも絶望よりも、理不尽に泣き出したい気持ちをなんとか押さえながら、
「…でも、真っ新なお墓じゃなくていいのなら、主がお使いになってたあのお墓、今誰も入っていない筈だから、そこを使いますか?」
「いや、
それまで黙っていた議員が、口を開いた。
「主の御遺体を墓に納めたのだ。その墓は聖墳墓となるべきで、主以外の御方を納めるのは、聖所が
それは流石に黙っていられず、
「でもね、死に関する権威は、主しか持っておられないの。もし
「そらそうだ! アニィは悪魔崇拝なんかしてねえ!」
「ええ、きっと
「無くなってなんかねえ! アニィの全部ぜんぶ、残ってらァ! それをきちんと墓に納めて、頭領の言ってた日に備えてェんが―――そんなに、悪いことなもんかァッ!!」
これ以上聞いていられず、
あんなに
この国には、もう、
全て別の『魔術師』の前にかすんでしまった。
彼等は結局四日目になると、とうとう腐敗し人の形を喪い、悪魔のようになっていく姿に耐えられなくなった。それでも
この国に、自分の家はない。
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